【第五話】桃太郎
【第五話】桃太郎(ならば教えてやろう。儂が生まれたときのことを)
男の言葉に、ゲンジは目を丸くして驚いた。
(“きびだんご”って、昔話の桃太郎に出てくる・・・アレか?)
そう思ったゲンジに男は頷いて言った。
「まぁ、そんなところだ。その最後の一個、これをお主にやる」
(桃太郎のきびだんごの最後の一個・・・。もし本当だとしたら何百年前の代物なんだろう?食べれるのかな)
「“たべれる”とは何だ?・・・まあよい。あれから千年以上経っているが腐ってはおらん筈だ。喰ってみろ」
男から受け取ったきびだんごの白い紙包みを開けると、白い粉をまぶした餅はつい先程作ったのではないかという鮮やかな薄いピンク色をしており、程よく弾力のある柔らかい感触で、その甘い匂いはゲンジの食欲をそそった。
「これが千年前だって?そんな冗談は信じないけどさ、なんか特別なモノだってのはホントっぽいよな。けどコレ喰ってもし死んだら、一生呪ってやるからな」
「構わぬ。儂を呪っている輩なぞ古今東西、星の数ほども居るわ。それにしてもお主は、“たべれる”だの、“死んだら一生呪う“だの、妙な言い回しをするのう」
そう言って眉をしかめる男の前で、ゲンジはきび団子を頬張った。
「お前に日本語変だって言われたくねぇよ。お前だって訳のわからんことを・・ォグモグ・・うん、こりゃあやわらかくて・・ッチャッ・ヌッチャッ・・メッチャ美味いな。全然大丈夫かも」
「味の事などどうでもよい。何かこう、身体に変化は無いか」
「変化?・・・いや、マジで美味いよコレ・・ンゴクッ」
「そうか・・儂は回りくどいことは嫌いでな。では、試させてもらう」
そう言って男がつま先立ちになり膝を落とした直後、ゲンジの目の前で「ズダンッ!」という大きな音が鳴り響く。
「な・・何すんだよ、いきなり」
ゲンジがそう言い放つ直前のことである。男は、普通の人間の目にはみえない速さでゲンジに向かって右足を蹴りあげていた。だがその動きは、ゲンジの目にはスローモーションになってみえた。それと同時に風が止み、周囲の音が消え、自分の呼吸の音すら聞こえなくなっていくのを、このときゲンジは感じていた。そして音のない世界の中で、反射的にゆっくりと肘を動かし脇腹の前に腕を構えたのである。
ここでゲンジの耳にふたたび風の音が聞こえはじめる。
その直後、激しい衝撃と共に男の強烈なキックを受け止めたゲンジに向かって、男は言った。
「瞬間移動・・お主の能力は念話に加え瞬間移動も可能ということか」
(瞬間移動?そういえば俺、いまコイツのキックがすげぇゆっくりに見えたよな)
そう思う傍、ドクドクと速い鼓動が脳裏に木霊し続けるゲンジを見つめながら男は思った。
(いまの移動距離から推測すると此奴が瞬間移動に使った時間は一秒弱。黒龍の能力と同じく葦原中国と常世国の刻の流れの違いを利用したものであろう。その環境下では呼吸がままならぬとしてもATP―CP系ならば五秒以上、体内に蓄えられたATPを使い切るまで動き続けられる筈。だが実際にはそれ程まで長い間、刻を止められた者は居らぬ・・)
「こくりゅう、ATP?何言ってんだかさっぱり分からんけど」
「むっ、聴こえておったか・・まあよい。さて、儂も腹が減ってきたのう」
男はスーツの裾の下に手を突っ込み、腰にぶら下げていた何かを引っ張り紐を千切った。
・・で、それは何だ?」
ゲンジが首を傾げて言うと男は頬を緩めて頷いた。
「見ての通り笹団子だ。お主は知らぬのか?」
ゲンジは少し驚いた表情をして聞いた。
「そのくらい知ってるよ。で、それも俺が食べた“きびだんご”と同じように、なんか特別な効果でもあるモノなのか?」
男は首を横に振って言った。
「否、此はきびだんごのように口にした者の潜在能力を覚醒する能力はない」
「じゃあ別の能力、例えばそれを食べると一年間何も食わずに活動できる超高密度エネルギーのサプリメントとかさ、なんかあるんだろう?」
首を傾げて話すゲンジに、男は苦笑いして言った。
「そんな都合のよいものがこの世に存在すると思うか?儂もお主も身体を動かすのに必要なのはアデノシン三リン酸、ATPだ。このATPを生産するエネルギーをどれだけ高密度に並べたところで『だんごひとつで一年分』にはならぬ」
「お前、妙に詳しいな。医療関係の仕事でもしているのか?・・って、そんなのどうでもいいけど、そういえばお前、初めて会った時突然うんこしはじめただろ。あれってもしかして何か関係あるのか?」
「フム・・面白い事を云うのう。ならばもう少し話してやろう。ATPは酸素、窒素、水素、そしてリンで構成されている。このうち酸素、窒素は空気中に大量にあり、水素は水を分解すれば手に入る。そして炭素はすべての生物を構成する基本元素であり、儂もお主も呼吸する度に排出している。だがこの炭素を固定化する機能は儂やお主の身体には備わっておらず、植物の光合成や一部の微生物によってのみ行われる。リンもまた然り。植物が根からリンを吸収して作り出したリン酸化合物が無ければ、この葦原中国の動物達は生きていけぬ。そして植物が作り出した炭素化合物、リン酸化合物を摂取し、体内でATPを作り出す量は葦原中国の者だと一日に自らの体重相当分と云われておる。だが儂の身体はお主らの十倍以上のATPを一日に生産する能力があるらしい。故に儂が普通の人間の十倍の能力を発揮すると十倍のエネルギーが消費され、その分補給せねばならぬ量も十倍必要となる。結果、食った分だけ出る量もまた増える、という訳だ」
「なるほど、消費した分だけ食わなきゃならん、で、その分出さなきゃならんわけね。って事は、お前は毎日10回くらいうんこしてるのか?」
「否、運動量がお主らと変わらぬときは、お主らと変わらぬ食生活をしておる。つまり排便も1日1、2回程度・・と、お主とこれ以上糞の話しをするつもりはない。そんなことよりATPだ。儂にもお主にも体内では作り出せないリン酸化合物を、常世国ではつくりだせる者がおる。彼等のように飯を食わずしてATPを生産できる身体であれば『だんごひとつで1年生きていく』のも不可能ではない」
「お前、昔の人みたいな言い回しするくせに、学校の先生みたいな事も言うんだな。で、その植物みたいな人間が居る“とこよのくに”って何処にあるんだ?」
「それは話すと長くなる故、そのうち話してやろう。ところでお主、名は確かミナモト・タロウと申したな。そして母の名はミナモト・シズカ」
「お前さ、話が長くなるって言うけど、今まででも十分話しが長かったって。けどなんでお母さんの名前まで知っているんだよ。やっぱりお前はあのとき・・」
「よくぞ生き残りここまで育ってくれた。話さねばならぬ刻がきたのだな・・」
目を瞑り眉をしかめながらそう小声で呟いた男は、顎に手をやり頷くとゆっくりと瞼を開いて言った。
「済まぬ。二年前のあの時、儂はお主とお主の母親を助けられなかったのだ」
それを聞いたゲンジは急に顔を曇らせ大声で言った。
「助けられなかったってどういう事だよ!お母さんはいま何処に居るんだ。二年前、お母さんは黒い軍服を着た奴等に捕まったのか。だったら今すぐそいつらを」
「よいか、落ち着いて聞け。二年前にお主達を襲った奴等の事は知っておるし、居場所もある程度分かる。奴等はいずれ倒さねばならぬ相手だ」
「なら尚更だ。教えてくれ!俺ひとりでも行って、奴らを・・」
「死ぬぞ。今のお主に奴らの場所を教えたところでどうにもならぬ事くらい理解出来るであろう。死ねば敵討ちも出来ぬ、いまは先ず自らを鍛えるのだ。二年前、お主の母親が命を賭して助けてくれたその命、無駄にするのではないぞ」
「え、それってどういう事?お母さんが命懸けでって・・」
男はゲンジに目を合わせると口を動かさずに心の声を直接ゲンジの脳裏に伝えた。
(二年前・・お主は家の前に現れた大男達を念話の能力を使って倒したのは覚えておるか)
ゲンジは少し目をきょとんとさせて耳に手をやりながら言った。
「あれ?お前、この声は・・・」
それから目を瞑りながらゲンジは心の中で念じた。
(これが念話・・か。そういえばさっきも、そして二年前のあの時も・・・)
(二年前、家の前で突然襲撃されたお主はこの能力を使って、目の前の敵に極めて強力な念波を送った。そして頭の中に極めて強い念波を送られた大男達の心拍は急激に上昇し、通常の十倍を超える高い血圧が身体中の毛細血管を破裂させて死んだ。だがその後、お主と同じ能力を持つ者に、お主は同じ事をやられたのだ)
(そいつってもしかして小柄な子供みたいな・・)
(左様。微かに記憶は残っているようだのう)
(けど、俺がよく覚えていない記憶をなんでお前は知っているんだ。まさかお前、あのときあの場所に居たのか?)
(否、儂がお主の声を聞いたのは50km程離れた三保の松原だ。念話は、その声が強ければ強い程遠くまで届く。それ故、あの刻お主が叫んだ声は三保に居る儂の元まで届いた。だが、それから儂が急いでお主の元へ駆けつけた時には、目、耳、鼻、口、そして皮膚・・全身から血を流したお主が倒れておったのだ)
(俺の身体中の毛細血管が破裂した・・。そんな状態で俺は生きていたのか?)
(そんな状態の患者を病院に連れて行ったところで、治せる医者、医療技術はこの世に存在せぬ)
(じゃあどうやって・・)
(あのとき、儂はお主の母の声も微かに聞こえていた。恐らくお主の母親は念話の能力を使って、ある特定の振動数の念波を送り、出血部の血小板を活性化させ薄く並べて止血を行った。お主が身に着けていた勾玉で増幅されたその念波は全身に行き渡ったのであろう。儂が到着した時点で、お主の身体中から流れ出た血液は既に止まっており、か弱いながらも心臓は動き続けておった。だがお主の母親の姿は何処にも無かったのだ。)
その言葉を聞いたゲンジはボロボロと涙を流し始め、声を震わせながら呟いた。
(そうか、お母さんにはそんな能力が・・それでお母さんが俺を助けてくれたのか。でもお母さんは何処に連れて行かれたんだ。でもまだ生きている可能性はあるって・・今でもそう信じているけど・・ちきしょう・・ちきしょう・・・)
「ちっきしょおおおっ!絶対奴らを殺してやる。俺は・・俺は強くなりたい!」
泣きながら大声で叫んだゲンジの肩をはポンと優しく叩いて男は言った。
「お主は鍛える程強くなる。いつかあの者共を倒せる日も来るであろう」
「そんな言葉で騙されないぞ。けど・・強くなる方法があるのなら、教えてくれ」
「勿論、儂の武術を全て教えてやろう。だがその為には先ず、もっと鍛えなければならぬ、身体も心もな。そしてお主にはまだまだ話さなければならぬ事、伝えなければならぬ事が沢山ある。儂も名を名乗ろう。儂の名は太郎。お主と同じ名前だ」
「え?そ・・そうなのか。じゃあ苗字は?まさかフルネームは一緒じゃないだろ」
「桃木内臣橘朝臣太郎と申す」
「な、長い名前だな。じゅげむかよ」
「寿限無か。成る程、言い得て妙だな。それ故、近しい者からは“桃太郎”、或いは“桃”とよばれておる」
「そっか、“モモ”ね。俺も友達には“ゲンジ”って言われているんだ。苗字が“源”だからね。それにしても確かに、二年前の鎧姿といい、さっきのきびだんごといい、お前は本当に昔話に出てくる“桃太郎”みたいだよな」
そう言って涙を拭いながら呟くゲンジに、モモは無表情のままサラリと言った。
「否定はせぬ」
「いやいや、それは否定するとこでしょ。昔話の桃太郎って何百年も前の話だろ」
「その話には色々と尾ヒレがついておるが、実は千年以上前の出来事だ」
「それじゃあ、お前いま何歳なんだよ?その妙な話し方も関係あるのか?」
「ならば教えてやろう。儂が生まれたときのことを」
それからモモは語り始めた。
むかし、あるところにおじいさんとおばあさんが住んでいた。
ある日、おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行った。
川へ着いたおばあさんが洗濯をしていると、ふと辺りが急に暗くなり、昼間だというのにみるみる暗くなっていった。おかしいと思ったおばあさんが空を見上げると、真っ暗な夜空に無数の星が瞬く中で煌々と輝く満月が天頂に浮かんでいた。突然夜中になった光景に立ち竦んだおばあさんが身動きできずに月を見ていると、水平線から星々の光が次々と天頂の月に向かっていくではないか。そして周囲に瞬いていた無数の星達の光を全て吸い取った月から、おばあさんの目の前の川に向かってまっすぐ光が放たれる。その光の束が川の水面に届いてから数秒ほど経過したであろうか、光の中から黒い影が浮かび上がったかと思うと、次の瞬間“ドボン”という音と共に川の中に落ちて沈んでいった。
それから川に落ちた黒い影はふたたび浮かび上がるとバタバタと動きはじめる。それは人が溺れているようにも見えたものの、次々と起こる信じ難い光景に対応出来ないおばあさんは、只々立ち竦むだけであった。
一方、暗闇と化した辺りは、次第に何事も無かったかのように昼間の景色に戻っていった。その光景を山の中で目の当たりにしたおじいさんは急いで家に帰ろうと、登ってきた山道を反転して下っていた。それから間も無く家の近くの川辺まで辿り着いたおじいさんは、ようやくおばあさんの姿を見つけた。
おばあさんの話しを聞くやいなや、おじいさんは目の前で溺れている“月の民”に向かって、薪にしようと背負っていた木の束を縄でしばりつけて放り投げた。なんとか木の束を手に取り胸元に手繰り寄せた月の民は、掴まった木の上に両腕を乗せて荒々しく背中で呼吸をしはじめる。その様子を見て頷いたおじいさんとおばあさんは縄を引っ張り、木にしがみついていた月の民を岸にあげた。だが衰弱していた月の民は起き上がることが出来ず、息も絶え絶えになっていた。
大きな桃が沢山入った籠を背負い、金色の着物を纏った月の民のその姿は、おばあさんより背丈は小さいが頭は大きく、まるで子供のような姿をしていた一方で、膨らみのある胸と下腹部は妊婦であろうことをおばあさんに思わせた。だが、その子供のようなふっくらとした頬はふたりが見ている間にも痩せこけ、みるみる顔色が悪くなっていった。そこでおじいさんは持っていた水を飲ませ、昼飯用に持っていた握り飯を一口食わせた。すると月の民の女は次第に顔色の発色を取り戻したものの、それまで苦しげだった表情を和らげたところで眠りにつくように気を失った。
おじいさんとおばあさんは、女を家に連れて帰る事にした。布団を敷いて女を寝かせるとしばらくして女は目を覚ます。それから女はおばあさんに向かって少し微笑み、腹をさすって頷いた後、すうっと息を引き取った。
そのときおばあさんの耳には確かに聞こえた。
(ありがとう。でもこの子だけは・・)という心の声を。
おばあさんが最初に見たときより随分大きくなっていた腹をさすってみると、腹の中で何かが動いた。お腹の子はまだ生きていると思ったふたりは、腹の中の赤子を取り出すことにした。それからふたりが急いで準備をしている間にも女の腹は大きくなり続け、急いで包丁で腹を切って何とかとりあげた赤子は、既に一歳くらいの大きさになっていた。生まれたばかりの大きな赤子を抱えたおばあさんは、この子に何か飲ませなければと思ったものの、母乳など出る筈もなく、沸かしてあった白湯を飲ませることにした。だが、白湯を飲んだ赤子は急に手足をじたばたさせて大声で泣き出し、おばあさんの腕からするりと床に落ちると四つん這いになって近くにあった母親の胎盤に喰らいついた。それからみるみるうちに胎盤を喰い尽くしていく赤子に向かって、おじいさんは「おにじゃ、おにの子じゃ」と取り乱したが、おばあさんは「よほど腹が減ったのだろう」と言って早速飯を炊きはじめた。
おばあさんが支度をしている間、おじいさんは赤子に白湯を飲ませたり、非常食にとっておいたクルミやトチの実を与えてみたものの、食べても食べても満腹にならなかったのであろうか、遂に赤子は家の柱までかじりはじめた。
それからしばらくしてようやく炊けた飯をおばあさんが赤子に持っていったところ、赤子の姿は既に二歳くらいの大きさになっていた。そして赤子はその美味そうなにおいに反応してよちよち歩きでおばあさんの足にしがみついて“はやくよこせ”と着物の裾を引っ張った。生まれてから二時間やそこらしか経っていないというのに歩きはじめた赤子を気味悪がるおじいさんに対しておばあさんは「これはしっかり躾けないとろくな大人にならぬ」と言って、飯を喰う前に座らせるといった躾をはじめる事にした。
こうして、脛にかじり付いても飯をよこさないおばあさんの言うことがようやく理解できたのか、それまで立っていた赤子はあぐらをかいて座り、おばあさんの目をじっと見つめた。そこでおばあさんが持っていた釜を床に置くと、それを抱えて手掴みで飯を食べはじめ、あっという間に平らげると釜をおばあさんに差し出しておかわりを要求した。釜を受け取ったおばあさんは嫌な顔ひとつせず、再びありったけの飯を炊いてやることにした。そんな中、赤子は飯が炊けるのを待っている間、玄関先に出るとあぐらをかいて座り、陽の光を浴びながらスヤスヤと眠り続けた。
一方、おじいさんは赤子の母親を埋葬することにした。そして彼女が背負っていた籠も一緒に埋葬してやろうと籠の中を覗き込んだところで、おじいさんは何かの植物の種が数粒入っているのに気付く。手にとってよく見るとそれは、赤子の母親が川で溺れていたとき、流されずに残っていた桃の実の種だった。あれから然程時間が経っていないにも関わらず完全に腐りきり種だけになっていたそれを、おじいさんは庭の畑の脇に掘った穴の中に、母親の遺体と一緒に埋めてやることにした。だが、人間が埋まる程の大きな穴をひとりで掘り、そして埋めるという過酷な作業を行ったおじいさんは腰を痛めてしまう。
その夜、もはや赤子とは呼べない程の体格となっていた子供の容姿は五歳くらいの幼児になっていた。だが身体じゅうの皮膚が黒ずんでぶよぶよとしていたその姿は、頬や瞼といった顔じゅうの肉が垂れ下がり、およそ可愛いらしいなどという表現は出来ぬものであった。そして子供の身体からは半年も風呂に入っていないのではないかという悪臭が漂っていた。それでもおじいさんは「授かりものだから」と言って自分の服を着せ、言葉を教えた。おばあさんもまた「これも何かの縁だから」と言っては飯を与え、躾を覚えさせ、我が子のように接した。
明くる朝、玄関の扉を開けたおじいさんは、昨日女の遺体を埋めたところから大きな木が生えているのに気付く。びっくりしたおじいさんが痛めた腰を庇うように杖をつきながら歩いて近付いてみると、その木には大きな桃の実が成っていた。ひとつもぎ取ってみると、その桃は手の中でじきに腐りはじめた。気味が悪いと思ったおじいさんは慌ててその桃を捨て、別の桃を手にとってみたが、やはり同じように腐っていった。おじいさんはふと、この奇妙な桃を腐る直前に食うことは出来ないものだろうかと思い、もぎとった桃を直ぐに口の中に入れてみた。すると桃の果汁はおじいさんの五臓六腑にみるみる染み渡り、同時に病んでいた腰の痛みがすうっと引いていった。
喜んだおじいさんが急いで家の中に戻ると、そこには十歳を過ぎたくらいの背丈をした子供が立っていた。その大きくなった子供の皮膚は相変わらず黒くぶよぶよと膨れあがり、そのにおいもまた増す一方であった。おじいさんと目を合わせた子供は言った。
「じいさん・・はら・・・へった」
それから更に丸一日が過ぎた三日目の朝、子供はもはや子供ではなく、おじいさんより高い背丈にまで生長していた。そして背丈が伸びるのと同時に膨らみ続けた真っ黒な皮膚は今にもくずれ落ちそうで、瞼は垂れ下がり鼻の穴が塞がった、実に醜い顔をしていた。
ふと何やら思い立ったおじいさんは、醜い顔をした青年を桃の木の前に連れて行き、桃の実を食べさせた。その直後、青年の身体から黒い皮膚がくずれ落ちていき、真っ白な肌が現れる。何故赤ん坊がたった三日で大人になったのか、桃の実を食べたことでその身体に何が起きたのか、よく分からなかったものの、少なくともこの桃は万病に効く薬であると確信したおじいさんは、おばあさんにも早速食べさせた。
こうして元気になった三人は桃の木を増やし、広大な桃畑をつくった。ところが最初は、植えると一日で大きな木になった桃の種は、次の種では二日、その次は四日、そして八日と、どんどん生長するのが遅くなっていった。この現象に気付いたおじいさんは「最初の木から成った桃を腐る前に調理して保存することは出来ないか」と思い立ち、おばあさんと相談して保存食を作ることにした。それから何度も失敗を重ねた後、遂に団子づくりに成功したところで最初の桃の木は枯れた。
「そう、その団子こそが、いまお主が喰ったきびだんごだ」
それまでモモの話しを黙って聞いていたゲンジは首を傾げ、眉をしかめて言った。
「うーん、そうか・・なんとなく分かった気がするけど、でもやっぱりよく分からない。じゃあお前は月からやってきた、月の民の子供ってことか?そしてお前は生まれてからたった三日でいまの姿に成長し、桃を食って以来ずっとその成長は止まったまま、つまり老化しない体になったということ?で、さっき俺が食った“きびだんご”ってのは、その桃から作った“保存食”ってことなのか?そしてそれをお前は俺と会うまでずっと、何十年も何百年も持っていた・・ってそんな馬鹿な」
「フム、いまはそこまで理解すれば十分だ。詳細はまた次の機会に話す」
モモの言葉にゲンジは不満そうに言った。
「なんだよ。言うだけ言ってそれかよ。でもたしかに、こんな妙な会話を続けたところで直ぐに終わる訳ないし何だかどっと疲れたからやめよう。でもさ・・・これだけは約束してくれないか」
「なんだ?」
「もう二度と他人の記憶を操作するのはやめてくれないか。でないと俺はこれから先、どんなに説得力のある言葉をお前が口にしたところで、お前を信用することはできないと思う」
モモは頷いて言った。
「成る程、相分かった。約束しよう」
ゲンジは小さく頷いた後、少し首を傾げて言った。
「ところで二年前のあのとき、確かお前は足を恐竜に食われたんじゃなかったっけ・・」
モモは少し苦笑いの表情を浮かべると着ていたスーツの裾を摘んで右足の脛を出していった。
「左様。見ての通り此は義足だ」
ゲンジが視線を向けたモモの右足は、履いていた靴下の上から10センチ程度の黒い綾織カーボン柄のケースがスネ毛の見える肌を覆っていた。そして足首を動かす毎に微かに“キーン、キーン・・”という音が聞こえてくる。
「すごい・・その義足、足首が動くんだな」
「此度の義足はよく出来ておる。だが、此もそのうち要らぬようになるがのう」
「そう、なのか?もっと高性能な脚を開発中とか・・」
「そのうち教えてやる。さあ、行くぞ」
首を傾げたままのゲンジを背にさっさと歩き出したモモを、ゲンジは早足で追いかけた。それから間も無くふたりは樹海を後にした。
しばらくしてふたりが姿を現した富岳風穴の入口の脇にある駐車場には、ゲンジが此処まで乗ってきたCRM80の隣に、グリーンメタリックの日産GT-Rが停まっていた。
「あ、GT-Rだ。コレ、まさかお前の・・・」
「ゲンジ。お主、クルマは詳しいのか?」
「コレって、ひと昔前のR35(アールサンゴー)だろ。俺もいつかこんなすげえクルマに乗りたいって思ってたんだよね。でもこんな色あったっけ?それにヘッドライトやバンパーもちょっと違う気が・・ひょっとして、中身は別物だとか・・」
「人もモノも、その立ち姿を見ただけで内に秘めたる潜在能力を見極める能力・・。古今東西、クルマやバイク、飛行機や馬。それらを操ることで得られる大きな能力を人は求めてきた。そしてその想いは文武両道を極めた者ほど強い。歴戦練磨の武将は名馬を求め、撃墜王と呼ばれる戦闘機乗りは名機を求めたものだ。そしてお主もまた、彼等と同じ資質を持っているという事なのかもしれぬ」
「そうなのか?高校んとき俺のクラスに、勉強が出来て野球部ではピッチャーやっていたヤツが居たけど、クルマやバイクには全然興味なかったし、うちの大学のサッカー部で主将やってるヒトなんかも学年トップクラスの成績だけど、クルマはさっぱりだけど・・」
「フム、最近の若者は強さに対する憧れや支配欲、或いは物欲が薄れているのかもしれぬ。だがお主は違うようだ。ならばお主にこのクルマを授けるとしよう」
「はあ?そんなこと突然言われてもさ、CRMはココには置いていけないし」
ゲンジがそう言った直後、GT–Rの運転席のドアが開きティアドロップ型のレイバン、アヴィエイターを掛けた黒いスーツ姿の男が降りてきた。
「橘様、お帰りなさいませ」
「待たせたな守山。早速だが此奴にこのクルマをやる事にした。名は源という」
「ではこの御方が・・承知致しました」
そう言ったあと守山という名の男はゲンジに向かって深々と頭を下げ、持っていたGT–Rの鍵をゲンジに渡して言った。
「源様。早速ではありますが、この車両のことにつきまして少々お話させて頂きます。この車両は我々“AMATERAS”の試作車で、モーターとバッテリーが追加されておりますので、少々通常のものとは異なる点が御座いますが、アクセルやブレーキ、ハンドル操作等といった基本的な運転の仕方はノーマルと変わりません。ですから何もお気になさること無く、お使い頂ければと思います」
ゲンジは目を丸くして言った。
「“アマテラス”って何?それに“バッテリーとモーターを追加”ってさ、ガソリンエンジンのR35をベースにハイブリッドカーを造ったって事?」
(コイツ等一体何者なんだ?大学の研究室にでもいるのか)
首を傾げるゲンジに構うことなく、GT–Rの助手席に乗り込んだモモはドアを閉めた後、サイドウィンドウを下げて言った。
「ゲンジ、あまり深く考え込むな。さあ、早く行くぞ」
「あぁ・・でも俺のCRMもこのヒトも、此処に置いてけないだろう?」
ゲンジがGT–Rに乗ってきた黒いスーツの男を指差すと、男は微笑んで言った。
「ご心配には及びません。源様の車両は後ほどご自宅までお届け致します。それから私の心配も無用で御座います。先程、源様のお連れ様をご自宅にお送りした者がこちらに向かっておりますので、間も無く到着するかと」
モモはGT–Rの助手席のウィンドウから顔を出して守山に言った。
「いつも済まぬ。右足の調子は良いと、AMATERASの皆に伝えてくれ」
そう言うとモモはサイドウィンドウを閉めて、運転席のゲンジに言った。
「よし、出してくれ」
「いやいや、いきなり『出してくれ』って言われてもこんなでかいクルマ、いままで乗ったこと無いし・・・えっと、シフトレバーは・・コレか」
それからゲンジがそっとアクセルを踏み込むとGT–Rは音もなくゆっくりと加速していった。
「キュウン、キュウゥゥン、キュウウーン、キュウイイイーッ・・」
ゲンジは驚いて言った。
「なんだ?この電車みたいな加速音は」
モモはニヤリと笑って少し自慢げに言った。
「この車両にはエンジンと、プロペラシャフトで連結されたデュアルクラッチ式6速トランスミッションの間に、CVT式トランスミッションとモーターを追加してある。発進時はモーターと6速ミッションで加速し、エンジン稼働後は追加されたCVTで通常の変速をリニアに行い、大トルクが掛かる加速時になると再び6速トランスミッションできめ細かく変速を行うシステムだ。これにより如何なる速度域でもエンジンとモーターふたつの動力源をそれぞれ最も効率のよい回転数でコントロールする事が可能となり、更に加速時には数回シフトアップできるギアを予め選択しておく事が可能となる。結果、大トルクの制御を高効率で行うシステムが完成するという訳だ。そしてもうひとつ、このクルマは乗っていて気持ちが良いものだ。アクセルを軽く触れただけで上り坂が下り坂になるからのう」
「うーん・・何言っているのか全然分からん。けど、お前クルマの最新の技術とか詳しいんだな。じゃあ坂道シリーズだったら乃木坂と欅坂、どっちが好き?」
「なんだ、その坂とやらは何処にあるのだ?」
「え・・ほら、知ってるだろ、AKBとかさ」
「AKB・・KGBでは無いのか」
「まさか・・お前ホントに知らないのか。AKB48」
「む、さてはAK47の後継機か。カラシニコフめ、まだ生きているのか」
「辛子煮昆布?食いもんじゃねえよ。SKEとかNGTとか、知らない?」
「おおそうか、軸受製造会社の事であろう。NSK、NTN、NMB、ちがうか」
「モモ・・・おまえ、知識人だとは思ったけど、こういうのは苦手なんだな」