【第一話】源太郎
【第一話】源太郎(巨大怪獣対巨大昆虫って、特撮かよ?)
「ふぁーぁっ・・・面倒くせぇなあ、もう朝かよ」
水色のカーテンの隙間から朝日が差し込むベッドの上で、目覚まし時計代わりにしているiPhoneから流れる音楽、Mr–Chidrenの“幻聴”が盛大に鳴り響く中、掛け布団の中から右手が現れ、ひとつの独立した生命体のように動き出す。
しばらく曲が鳴り続けたところで、それまでベッドのシーツの上を動き回っていた右手がようやくiPhoneを掴むと、身体を180度回転させて仰向けになった寝惚け眼の青年は画面に表示された現在時刻をみて口惜しそうに言った。
「げっ、もうこんな時間かぁ・・」
小さく呟いたその声が聞こえたかの如く、階段下から大声で呼ぶ母の声が響く。
「太郎っ、はやく起きなさい!遅刻しちゃうわよ。朝ごはん、お茶漬けでいい?」
iPhoneを持つ右手を下ろしてベッドの上で大の字になり、白い天井の向こうを見つめた青年は、左手を凹んだ腹の上に置いて呟いた。
「っせぇなぁ・・。あぁ〜、腹減った。朝メシは何でもいいからガッツリ食いたいって、いつも言ってんだけどなあ。昨日の夜食べたカツカレーでもいいし、余ってなければ生姜焼とか牛丼とかさ、豚でも牛でも何でもいいけど、でも一番好きなのは鶏の唐揚げなんだけどな。まあ、鶏肉なんていまどき高くて買えないか」
寝惚け眼をこすりながら立ち上がった青年は、PANTANALのスェットスーツを脱いで学生服に着替えると、そそくさと階段を降りていった。
友人達からは“ゲンジ”と呼ばれている青年の名は源太郎。
いまどき流行りのキラキラネームとは真逆の古風な名前ではあるが、先日十八歳の誕生日を迎えたばかりの、一見ごく普通の高校三年生だ。“一見”というのも実は、とある先天性の病を患っているところが他の高校生とは少し違うところであった。この病気の影響でゲンジは小学生の頃一番やりたかったサッカーをドクターストップにより断念せざるを得なかった。このとき彼は大きく傷つきこの病気を心底恨んだものだが、代わりにはじめたミニバスではキャプテンとしてチームを牽引して県大会優勝を果たし、中学もバスケ部に所属した。それでもゲンジのサッカーへの想いは強く、暇さえあればリフティングやボールタッチといった脚技を鍛えることを続けていた。
だが高校に入ると周囲の友達が購入したのをきっかけにして、ゲンジの情熱はバイク(オートバイ)に傾いていく。そして彼は十六歳の誕生日を迎えると直ぐに普通自動二輪免許を取得し、母親が高校生の頃に乗っていたというホンダCRM80を納屋から引っ張り出してきて自らレストアして乗るようになる。この2ストローク80ccの小排気量エンジンを搭載した小柄なトレール(オフロードバイク)は、はじめてバイクを手にしたゲンジでも簡単にタイヤを滑らせながらオフロードを走らせることができ、また、万一転倒しても壊れにくく「いつかは1000ccを超えるアドベンチャーバイクに乗って世界中を駆け巡る」というのがこの頃の夢であったゲンジにとって、ライディングテクニックやバランス感覚を身に付けるのには実に適していた。
それからゲンジは台所の椅子に座ると、テーブルに用意されたお茶漬けの上に、母がたった今焼いたばかりの豚の生姜焼きを乗せて腹にかっ込んだ。
「あんたねぇ、鰻のひつまぶしじゃないんだから、もっと落ち着いて食べなさい」
傍でそう言う母を横目に朝食を終えたゲンジは「ッチャ、クッチャ・・うん、分かった。じゃあ明日は久しぶりに鶏の唐揚げがいいな。もし鶏肉が安くなっていたら買ってきてよ。・・ゴク、ごちそうさまぁっ!」と言ってそそくさと支度を済ませ、CRMに跨りキック一発でエンジンを掛けると高校に向かって行った。
勉強はというと、特に嫌いなわけでも無くそれなりの成績をとっていた。だが将来なりたい職業があるわけでもなければ、これといって勉強したい目的も無いゲンジは、時折居眠りも交えながら授業を受け、休み時間もひとりでバイクやクルマの雑誌を眺めたりしている事が多く、充実しているとは言えない学校生活を過ごしていた。
それから一旦帰宅するといつものように暫く二階の自室で漫画を読み漁った後、西の空が夕暮れで茜色に染まり東の空から星が瞬きはじめたいま、何故か彼はひとり、青木ヶ原樹海のとある駐車場の前に居たのである。
「何百回、何千回来ても、この時間帯はちょっと怖いよね」
ヘルメットを脱ぎ、グローブを外しながらゲンジは独り言を呟いた。
山梨県青木ヶ原樹海。昼間でも薄暗い木漏れ日が差し込むこの原生林の中を歩くゲンジの顔を、時折夕日が赤く照らし出す。ゲンジの自宅と高校、そしてこの場所は正三角形の関係にあり、自宅からでも高校からでも樹海までは自転車で約20分、バイクなら10分も掛からない程度の距離に位置しており、ゲンジにとって此処は裏庭のようなものだった。一方、自殺の名所だの幽霊話しだのといった話題も絶えないこの場所を日も暮れようとしている時間帯に訪れようとする者などおらず、ゲンジが訪れたいまも閑散としていた。
こうしてどんどん暗くなっていく景色の中、ふかふかの落ち葉が足元に広がる林道をゲンジが歩いていくと、道の脇に巨大な平べったい岩が転がっているのが目に映る。その岩の奥の木々の間から差し込んでいた月明かりがいま、ゲンジの目の前でどんどん暗くなっていった。
「やっぱりそうだ。あれは夢じゃなかったんだよ」
夜空を見上げたゲンジはそう呟いた後、目を瞑り1時間程前のことを思い出す。
食欲をそそるカレーの匂いが漂う家の自室で、ゲンジはベッドの上に寝転がり漫画本を読んでいたところでふと“脳みそをフワリとガーゼに包んで少しずつ絞られていくようなモヤモヤした感覚”に陥っていた。
「いい匂いだな、カレーか。カレーもいいけどホントは鶏の唐揚げが・・ううっ・・痛っ。もしかしてまたシャントが詰まったんじゃないだろうな」
シャント。正式名称を“シャントレギュレータ”という、それは水頭症患者の脳圧をコントロールする為に頭蓋骨に穴を開けて皮下に設置し、脳室が規定以上の圧力になった際には皮下を通して腹膜に通されたチューブから髄液を排出する体内埋込型医療機器のことである。
ゲンジが“ダンディーウォーカー症候群”と呼ばれる水頭症であることは、母親がゲンジを妊娠中、エコー検査により発見された。当時、様々な“最悪のケース”も考えられたものの、出産直後に手術を受けて以来十八年が経過した現在は、一見何不自由ない生活を送っている。しかしながらこのシャントレギュレータは、構造上どうしても物理的に詰まるというリスクを抱えているものであり、ゲンジもこれまでに何度か“シャント機能不全”というトラブルに遭遇している。
“脳みそをガーゼで包まれた感覚”はその後、脳圧の上昇に伴い次第に激しい頭痛に変わっていった。左手を額にかざし、指の隙間から見せる眼差しは覇気がなく、どこか遠くを見ているようにもみえる。
「駄目だ。立っていられねぇ・・」とつぶやきベッドに倒れ込んで目をつぶると急速に眠気が差してくる。眼を瞑りながらゲンジは頭頂部に人さし指を添えて頭皮が少し膨らんでいるところを探り、指の腹で押してみた。
「やっぱ“戻り”が悪いな。こりゃあサイアク、久々の入院かなぁ・・・」
シャントレギュレータが正常に機能している時は、この皮下にある風船のような部品は押し潰しても直ぐに戻る。しかしながら皮下の風船が凹んだままのいまは排液経路の何処かが詰まり、脳内の圧力が正常時よりも上昇しているシャント機能不全の状態となっていたのである。こんなことは今までも何度か経験していたものの、今回はどうもいつもと様子が違っていた。
(これは・・恐竜?俺は幻覚でも見ているのか・・・)
目を閉じ真っ暗な脳裏に浮かび上がったのは、巨大な生物のシルエットであった。自分は奇妙な夢でもみているのだろうか、そんな事を考えているうちに激しい頭痛が徐々に治まっていくと、耳や鼻の機能が回復していくのを感じた。
(風で葉っぱが揺れている。それに木のにおい、土のにおい。此処は・・・)
それからゆっくりと瞼を開いて辺りを見渡すと、其処は見慣れた自分の部屋の中などではなく、未だかつて見た事もない現実離れした光景が視界一面に広がっていた。
(此処は・・巨大な恐竜に巨大なムシ?そんな・・・幾ら何でもデカすぎるだろ)
満月の明かりが暗闇の大地をやわらかく照らしだす森。そこでは皮膚がところどころ紫色に光るティラノサウルスにも似た巨大生物と、身体全体がぼんやりと緑色に光る巨大サソリが死闘を繰り広げていた。そして少し離れた樹々の陰から、小柄な割に頭の大きな人間達が、その戦いを見守っているのがみえる。
(幻覚じゃ無いのか。だけど・・“巨大怪獣対巨大昆虫”って、特撮かよ?それとも最新のプロジェクションマッピングを用いたイベントか何かなのか・・)
現実とは思えない光景が目の前で繰り広げられる中で、掌を額にをあてて目を瞑り、深呼吸を数回した後ふたたび顔を上げたゲンジは、無数の星が瞬く夜空の天頂にひときわ明るく輝きを放つ月をみながらポツリと呟いた。
「今日は三日月・・え?だんだん丸くなっていくじゃん。まさか・・月食?」
それからしばらく、眼の前で三日月から満月に姿を変えていく夜空を見上げていたゲンジの目の前を、ふと人影のようなものが横切っていく。
(なんだ、いまのはヒト・・そうだよ、あれはサムライ・・・)
それから空中で静止した人影は、三日月の前立がついた兜を頭に被り、白銀色に輝く鎧を全身に纏った侍の姿であった。そしてその侍の両肩を掴みながら空中を浮遊している鳥は、満月の光を受けて大きな目を金色に輝かせていた。
「今度は鳥、フクロウ・・なのか?でもあの緑色の光は・・・」
金色に輝くふたつの大きな丸い目の下に緑色の光がひとつ。よくみるとそれは三日月形をしており、鳥の首に掛けられた首飾りが光っていることがわかる。呆気にとられるゲンジの前で、フクロウらしき鳥はそれまで両足の爪で掴んでいた侍の肩を離して上空に舞い上がっていった。一方、白銀色の鎧を纏った侍の身体は落下しはじめると、大きな岩の上に着地した。
「ズシャンッ!」
鎧同士が重なり合う音を辺りに響かせながら膝を深く折り曲げて着地した侍は、5、6歩走ったところで地面を大きく蹴り上げ、ふたたび宙を舞い上がっていった。それからあっという間に二階建ての家を優に超えるであろう高さまで達した侍の跳躍力は、跳躍(LEAP)というより滑空(FLY)と表現するのが相応しいものであった。その後も彼の身体は“海面を飛び続けるトビウオ”のように滑空し続け、三十m程飛び越えたところで背中に背負っていた大太刀を鞘から引き抜いて両手で構え、放物線の描く予測進路の先に居る巨大サソリに対し背後から向かっていった。
一方、堂々と正面から迫ってくるフクロウの姿を捉えた巨大サソリは尻尾の毒針をフクロウに向けて威嚇していた。この尻尾に向かって背後から降下してきた侍は、大太刀を水平に構えて尻尾を切断しながら通過した後、その切先を下ろして落下し、サソリの背中の前方に位置する中眼の上に着地した。
巨大サソリは、異物が鎮座している自分の背中に向かって蝕肢を振り翳したものの侍には届かず、八本の後脚を小刻みに動かして侍を振り落とそうとする。
侍は背筋をぴんと伸ばした中腰の姿勢で、前後左右に動き回るサソリの動きに対し、膝をしなやかに動かして軽くいなしながら、サソリの中眼に向かって大太刀を勢いよく突き刺した。その後もズブズブと突き刺し続けた大太刀の刀身が完全にみえなくなり鍔がサソリの中眼に突き当たったところで、ようやく巨大サソリは脚の動きを止める。そしてその直後、薄黄色い体液を吹き出して全身を弛緩させたサソリは、腹を地面にべたりと付けると振り上げていた蝕肢を降ろして沈黙した。
それまでぼんやりと緑色に輝いていた身体から光が消え、暗闇に同化して動かなくなったサソリの背中から大太刀を引き抜いた侍は、上目遣いでニヤリと微笑して顔を上げると、その切先を次なる標的である恐竜に向け、速歩で近付いていった。恐竜との距離がある程度近づいたところで脚を止めた侍は、背筋をピンと伸ばしたまま大きく腰を落とし、大太刀の切先を垂直上向きにして構え、鋭い視線で恐竜の目を睨みつけた。その様子を伺っていた恐竜もまた、腰を落として構える。それは、互いに一瞬の隙が致命傷を生むであろうことを知っての、間合いと見切りを探る命懸けの駆け引きのように見えた。
そんな状態がどの位続いただろうか。それまで侍の頭上をまわっていたフクロウが「ホウ」と一声鳴いたところで侍は、それまで恐竜と合わせていた目を一瞬逸らし、フクロウが飛ぶ夜空の向こうに浮かぶ月に目を向け頷いた。
「そろそろ“来るべき刻”・・か」
遠くの草むらからその様子を見ていたゲンジがふと辺りを見渡すと、さっきまで月明かりがハッキリと照らしていたまわりの景色、そして紫色をした巨大な恐竜の姿が徐々に真っ暗な闇の中に飲み込まれていく様子が視界に映る。
(これは・・また何か異変が起きようとしているのか)
ゲンジがそう思ったところで侍は呟いた。
「此奴との勝負は明後日までお預けということか。では、そろそろ帰るとしよう」
侍はそう呟くとそれまで深く曲げていた膝を一気に伸ばして大地を蹴り上げた。
「シャリーンッ」という硬い金属同士がぶつかり合う音を木霊させた後、侍の身体はみるみるうちに二階建ての家の屋根を遥かに超えるであろう高さまで達していった。一方、月の光はその波長を整えながら直線光に姿を変え、フクロウと侍の姿を金色に包み込んでいく。そんな中、ふとフクロウに向かって上昇を続ける侍の背後に音もなく巨大な影が姿を現した。侍とフクロウが包み込まれていく光の外で、紫色の皮膚を露わにしたそれはまさに、先程まで侍が睨み合っていた恐竜の姿であった。
(アイツ、何故逃げないんだ?もしかして、気が付いていないのか・・・)
ゲンジがそう思ったところで恐竜は大きく口を開き、光の中の侍に向かってその大顎を一気に突き出した。
(危ない!後ろっ!!)
ゲンジが心の中でそう叫んだ直後、そのシルエットの半分は光の中に溶け込んでいた侍が咄嗟に身体を横に倒して恐竜の攻撃をかわしているのが見えた。だが恐竜が口を閉じる瞬間、右の足首をその巨大な牙が捉え、鈍い音を響かせた。
「ミシ・・バキ、ボキボキ・・・」
巨大な恐竜の口に挟まれた右足の甲冑がひしゃげ、足首の骨が粉砕されていくその音に侍は苦痛な表情を浮かべた後ひと息つくと、大太刀を振り上げこう言った。
「痛うっ・・何処の誰か判らぬが、お陰で命拾いした。それにしても此奴め、性懲りも無くやりおったな。まあよい、冥土の土産にこの右足、くれてやるわ」
それから侍が大太刀を振り下ろすと、その刃は足首を切断し、侍の身体を恐竜から切り離した。不敵な笑みを浮かべる侍に対し、恐竜は侍の足首をゴクリと腹の中に飲み込むとふたたび襲い掛かっていった。
一方、右足首を失った代わりに身体を自在に操れるようになった侍は大太刀を構え直し、急速に近づいてくる恐竜が自分の間合いに入った瞬間、腰を捻り、恐竜の左頬に向かって刃を走らせた。だが軸足を失った侍のその攻撃を読んでいたのだろうか、首を逸らして侍の攻撃を躱した恐竜は、空を斬った大太刀にガブリと噛み付いて首を左右に振り回した。強大な加速度を与えられた侍の身体からは、それまで両手で握っていた大太刀の柄が左手から離れ、残った右手もまた柄の先端まで下がっていった。
「流石に片足では此奴を倒せぬか・・」
右手から大太刀が離れていく中、ポツリと侍が呟いたそのとき、それまで侍の頭上を浮遊していた筈のフクロウが、突然侍と恐竜の間に現れた。
「あれ?なんかいま、時間がズレた感じがしたんだけど・・・」
このとき、ゲンジの目には10mを超える距離を一瞬のうちに移動したフクロウの動きが“流し撮りした映像を切ってつなぎ合わせた”かのように見えた。
恐竜を前にしたフクロウがその大きな眼で睨みつけると、恐竜は「グウウ・・・」とうめき声を上げて大太刀を咥えていた顎の力を一瞬緩めた。すかさず右手の力を込めて柄を握り直し、恐竜の口から大太刀を引き抜いた侍は、全体重を左足の爪先に乗せて恐竜の腹に蹴り込む。すると「ゲフッ」と短く息を吐いた後、背中を丸めながら落下していった恐竜は「ズズゥーンッ!」という大きな音と共に地面に激突し、辺り一面に土煙を上げながら倒れ込んだ。
大太刀を鞘に収めた侍の左肩をフクロウが両脚で掴むと、侍は言った。
「済まぬ、お主にはいつも助けてもらってばかりだな」
それからフクロウと侍の姿を包み込みながら収束していった月の光が小さくなって地面に届いていた光がキラキラと塵のように消えはじめたところで突然「ズズンッ!」という低い音が地面に響き渡る。
「此奴め。まだやるつもりか」
侍の姿が殆どみえなくなった光の中に向かって、巨大な影が飛び込んでいく。その直後「バサッ」という音が聞こえ、光の中から片方の翼が明後日の方向を向いたフクロウが侍と共に姿を現わし、続いて光の中に飛び込んでいった巨大な影がふたたび姿を現した。ところどころ紫色に光る肌、大きな頭に小さな手、たっぷりと筋肉の付いた下半身に巨大な尻尾。先程まで侍と対峙していた恐竜の姿が浮かび上がっていく一方、それまで侍の両肩を掴んでいた脚を離したフクロウは、翼を降ろして目を細め、真っ逆さまに落下していった。そしてフクロウに追いつこうと落下速度を上げていく侍、その侍を上空から見下ろす恐竜の三体を月の光が完全に包み込んだ後、地上に降り注いでいた光の束は金色の塵となって消えてなくなりながら月に向かって上昇していった。こうしてすべての天空の光をのみこんだ月が、自ら放っていた光をも失い姿を消したところで、辺りは静寂な闇と化した。
「平衡感覚が・・無い。目が回る、気を失いそうだ。このまま俺は死ぬのか・・」
まるで刻が止まったかのように静まり返った暗闇の中で、意識が朦朧としはじめたゲンジは、視界はおろか聴覚や嗅覚など全ての五感を失っていった。
それからどのくらいの時間が経ったのであろうか。暗闇の天頂から、針の穴ほどの光が差し込みはじめる。そしてその光はやがて金色の環となって天空に広がり、その環が通った後の夜空にはふたたび星たちが瞬きはじめた。すると何も感じなくなっていたゲンジの五感もまた、少しずつ回復していく。
(あ・・風だ、風を感じる)
涼やかな澄んだ空気がゲンジの前を通り抜けると、月明かりに照らされた辺り一面が次々とそのシルエットを浮かび上がらせていく。風に揺れる木の葉の音、そして虫や鳥達の声、ゲンジの耳に届いたそれらの“音”は、ふたたび刻が動きはじめたことを実感させた。
(此処は・・さっきと違うんじゃないか?)
それからキョロキョロと辺りを見渡したゲンジは目を丸くして言った。
「やっぱり此処は樹海・・じゃない?なんで・・ヘッ・・・ックション!」
背中を丸めて大きなくしゃみをした後、背筋を伸ばして瞼を開いたゲンジの目に映ったのは、見慣れた部屋の天井だった。
「なんだよ、やっぱりさっきの特撮映画は夢・・か。でもやたらリアルな夢だったよな。それにしてもあの景色は・・・」
そう呟いたあと、ベッドの上であぐらをかいたゲンジは、さっきまで見ていた夢のことを思い出して苦笑いした。
(そう、あの景色は見たことがある。それにあのとき俺は風とか匂いも感じたんだ。けど・・あれが現実だとしても“恐竜と巨大サソリの対決”は無いよな。B級映画じゃあるまいし、今どき小学生でも見ないって。でも最後に見た光景は一体・・・)
それからゲンジは側臥位になり、しばらく目を開けたままぼおっとしていた。
10分程経過しただろうか。ベッドに倒れ込む前に感じていた激しい頭痛がすっかり影を潜めたゲンジは、ベッドから起き上がってつぶやいた。
「やっぱりどう考えてもあれは樹海だよ。でも何で?・・・そういえば、いつかお母さん言ってたよな。満月の夜、樹海でどうのって。えっと・・・何だったっけ」
ふと、一階からゲンジを呼ぶ母の声が聞こえる。
「太郎っ!晩ご飯、もうすぐできるけど、今日はカレーでいい?」
ゲンジは一階に向かって大きな声で返事をした。
「悪りい、ちょっと出掛けてくる!晩飯は何でもいいよ。あ、でもどうせなら久しぶりに鶏の唐揚げがいいな。鶏肉が半額セールとかやってたら買って来てよ」
築三十年になろうかというこの少々古びた3LDKの一軒家に、ゲンジは母と二人で暮らしている。ゲンジに父親はいない。写真も見たことが無ければ、名前すら知らなかった。幼い頃に父のことについて聞いたゲンジは「あなたのお父さんは今も何処かで、私たちを護る立派な仕事をしているのよ」と母に言われたものの、その意味はまったく理解出来なかった。それから月日が流れ、高校三年生となった今では、父のことを知ろうとも思わなくなっていたのである。
こうして一時間程前に頭がモヤモヤしはじめたのをきっかけにして奇妙な光景を目の当たりにしたゲンジは、その後夕暮れの空から星が瞬きはじめ、台所からはカレーの香りが漂う家を出ると愛車CRM80を走らせ、夕日で赤く染まる富士の樹海に辿り着いたのである。
「やはり・・さっき夢で見ていた場所って、この辺りだろ」
ひんやりとした風が森林の葉音を鳴らす富岳風穴の駐車場にCRMを停めると、其処から鳴沢氷穴に向かう林道をしばらく歩くことにした。ふかふかの落ち葉が足元に広がる林道を歩いていくと、道の脇に巨大な平べったい岩が転がっているのが目に映る。そしてその岩の奥の木々の間から差し込んでいた月明かりが急に、ゲンジの目の前でどんどん暗くなっていく。ゲンジが辺りを見渡すと、地平線から夜空の星たちの瞬きが消えていく一方で、それまで柔らかな光を地上に放っていた満月は、その向きを次第に整えながら光の柱となって直下にある地上を照らしはじめた。
「この光景は・・さっき夢でみた、あのときと同じだ」
月の光に呼び寄せられるように早足で近づいていくゲンジの前で、地上に届いていた光の柱が金色の塵となって消えていく。と同時に、中から何か蠢くものが浮かび上がっていった。
「バサッ!」
突然、何かが地面に落下した音がした後ゲンジの目の前に現れたのは、緑色に光る何かを首にぶら下げたフクロウだった。
「な・・なんだコイツは。でも待てよ。緑色に光る勾玉、そうだ、コイツは・・」
いま目の前に映る光景と、脳裏に浮かぶ先刻みた光景とを照らし合わせながら、ゲンジはフクロウのもとへ駆け寄っていった。
「やっぱり夢でみたのと同じだ。コイツ、怪我してる」
思わず手を差しのべたゲンジに向かってフクロウは片方の翼を広げて威嚇した。
「痛っ・・・え?お前、いま何て言った?」
突然眼球の奥に痛みを感じたゲンジは米神を両手で押さえながらフクロウと眼を合わせると、目の前のフクロウが何か話しかけてきているように感じた。
「『キサマ、ナニモノダ』って・・・まさか、お前はそう言ったのか?」
ゲンジがそうつぶやいたところで「ズシャンッ!」という大きな音が聞こえた後、フクロウの背後から、ひとりの人影が姿を現した。
「お前はさっきの・・・」
ゲンジの前に立つその姿は紛れもない、夢でみた白銀色の鎧を纏った侍であった。