【第十話】黒龍
【第十話】黒龍(いまどき超能力なんて時代遅れさ)
「はっ、かしこまりました。黒龍様の仰せのままに」
床に向かって跪き、頭を下げたまま中国語で話す男の前で、玉座に腰を掛けていた少年は、冕冠の下から黒い瞳を覗かせ、不敵な笑みを浮かべて言った。
「君も知っての通り、先の旧政府崩壊から新政府発足に対し僕は深く関与してきた。それ故、僕は新政府の指導者達を自在に操る事が出来る。つまり僕は遂にこの国を手中に治めたんだよ。そして同時に秘密裏に進めてきた米国との関係も順調に進んでいる。あとは君にお願いしている桃太郎と桃源郷の調査が進めば今度こそ青りゅ・・いや、僕の計画は必ず成就する。引き続きよろしく頼むよ。同志、ゴウさん」
それから少年、黒龍は右手に持っていた鶏卵をコンコンと肘掛けにぶつけて割ると、器用に片手で殻を割って生卵を飲み込んだ。
その様子をこれまで床に伏せた顔から上目遣いで見ていたショートモヒカンの大柄な男、郷太郎はスッと立ち上がると一礼し、頭を垂れたまま数歩下がって気を付けの姿勢をした。それから両脇に立つ衛兵の自動小銃に肩を触れさせながら踵を返したゴウは、相変わらず半袖のウェットスーツ状の肉塊が無数にぶら下がっている暗い廊下をしばらく歩き、真昼の日差しが差し込む回廊に出たところで、黒い軍服の詰め襟を外してつぶやいた。
「ふぅ・・なんだよあの雰囲気、息苦しくて堪んねぇ。全く、油断しているとアイツはヒトの心を読むからな。でもここまで来れば大丈夫だろう。それにしても・・」
ゴウは歩きながら、顎に手をやり考えた。
(黒龍・・か。アイツ、以前からやると言ってはいたが、まさか本当に中国政府を裏で操れるようになってしまうとはな。ヤツの軍隊、数年前までは通常の人間を遥かに上回る筋力や予知能力、瞬間移動といった所謂“超能力”を持つ兵士達で構成されていたが所詮百人程度の少数部隊、国を相手に出来るほどではなかったのだが、この一年くらいで急増しているのが高性能なAIと最新鋭の武器を搭載したドローンや超小型戦車だ。扱いにくい、云う事を聞かない超能力者たちを増やすより今の時代、AIで動くロボット兵の方が優秀であり、有効な戦力となるということか。そして奴が実行しているJIGSという計画、富裕層への臓器売買に貧困層への食料供給。これが富裕層にも貧困層にも受けた。それ故、計画当初はアンダーグラウンドで行われていたJIGS計画はいまとなっては暗黙の了解、周知の事実として受け入れられつつある。そしてAIとJIGSで中国共産党を乗っ取った黒龍の計画に興味を示した米国が近づいているというではないか。これまで我が国にとって最強の同盟国であった米国が日本を捨て、中国と軍事同盟を結んでしまった日にゃあ、世界の軍事バランスは完全に崩壊してしまうだろうな)
その頃、先程までゴウと会話をしていた黒龍は衛兵をひとり呼びつけて言った。
「あの男から目を離すな。妙な動きをしたら殺しても構わん。ゴウ・タロウ、いまどき超能力なんて時代遅れさ。彼等が住む小国、日本なんて僕が米国と手を組めば簡単に支配できるよね。で・・次はどうすればいい?青龍」
モモと出会ってから十二年が経過したいま、ゲンジは三十歳になっていた。モモはというと相変わらず二十歳の容姿をしていたがふたりの関係は変わる事なく、お互いどちらが上だの下だということのない対等な関係を築いていた。
またモンゴルの一件以来、ゲンジとモモはゴウに再会することも無く、またゴウの噂を耳にする事も無かった。ましてや自分の母親を殺した黒龍とゴウが接触していることなぞ、少なくともいまのゲンジは知る由もなかった。
一方、世界情勢の中でこのところ最も大きな話題といえば、新型ウィルスによる食糧危機であった。十三年前から中国国内で蔓延しはじめた新型鳥インフルエンザは、その後世界中に拡散し、特に中国をはじめロシアや米国といった大国にも深刻な食料不足を及ぼした。だがシェールガス革命等により中東に並ぶエネルギー輸出国となり経済的にも恵まれていた米国は「無いものは買えばいい」と世界中から鶏肉、鶏卵を買い漁った。結果、世界の鶏肉、鶏卵価格は跳ね上がり、特に対ドルレートが低い通貨の新興国や開発途上国ではそれまでの十倍以上の価格で取引きされるようになる。この“エッグショック”或いは“チキンショック”と呼ばれる食料インフレはこれらの国々の胃袋を枯渇させることとなり米国との関係が急速に悪化する国もあった。一方、食料を買い漁り非難を浴びている米国と、深刻な食料問題で国民の半数以上が飢餓に苦しんでいた中国とが急速に関係を深めつつあったのである。
そんな中、ゲンジとモモはブラジルのリオデジャネイロ沖の大西洋でセーリングクルーザーの甲板の上にいた。ミディアムレアの分厚いローストビーフが皿に置かれたテーブルの上でふたつのグラスにMOETを注いだゲンジは、ひとつをモモに手渡すと掛けていたサングラス、レイバン・ウェイファーラーを額に上げて言った。
「しっかし優雅な事してるよなあ、俺達。そういえば優雅と言えばさ、俺が今通っている会社の先輩で、こないだの大災害に凄い大金を寄付したヒトがいてさ。なんでも、彼が発案したバイオエタノールの国際特許のロイヤリティで、会社から一億円近い報奨金を貰ったんだってさ。で、半分は小学校からの夢だったクルマ、アストンマーティンを買って、残りの半分を“例の大災害”の義援金として寄付したんだって」
“例の大災害”とは。
一年程前のことだ。巨大台風が伊豆半島を襲ったその災害は、五千人を超える死傷者と三万人を超える避難民を数える大惨事となった。この災害ボランティアにゲンジの同級生・藤原陽子が駆けつけていた事を、陽子との電話でゲンジは知る。陽子の話しによると、医師免許を持つ陽子は率先して怪我人の治療にあたり寸暇を惜しんで、通常のヘリの航続距離と速度では命が危ない怪我人を救助する為に配備されたMV–22[オスプレイ]に乗り込み、被災地を飛びまわっていたらしい。それを聞いたゲンジは陽子を称賛する言葉を口にした反面、内心では嫉妬していた。
(俺だって医学を学んでいるし応急手当のひとつくらい出来る。更に俺なら念話の能力を使って行方不明の人を探し出すことも出来たかもしれないのに・・・)
そうは思ったものの、自分の能力の事を話せないゲンジは陽子の言葉にただ頷くだけであった。
だがモモと出会ってから十年間、過酷なトレーニングをこなす事で得られた強靭な肉体や運動神経、そして専門知識を発揮する機会がこれまで無かったことに、このところゲンジは少々苛立ちを覚えはじめていた。そして次第にゲンジは、モモに禁じられている“大衆の前で特殊能力を発揮する”場を無意識のうちに求めるようになっていったのである。
ゲンジの言葉を聞いたモモは言った。
「そうか、そのような立派な志を持つ者が今もいるのだな。それはそうとこの肉を喰ってみろ。ローリーズから取り寄せたローストビーフだ。それともゲンジ、お主は相変わらず肉は喰わぬのか?」
ゲンジは首を横に振って言った。
「肉は大丈夫。実は俺さ、最近何故か肉を見ると鶏や豚や牛、そしてそれだけじゃない、人間が解体されていく光景が頭に浮かんできてさ。それに最近知ったんだけどこの食料不足の中で、牛は1kg体重増やすのに10kgの穀物が必要なんだって。けど豚は4kg、鶏なら2kgで足りるらしい。つまり牛を育てるのに必要な穀物を豚に食わせれば2倍以上の肉になるし、鶏なら5倍になるって事だろ。だったら牛より鶏を育てた方がいいんじゃないかってね」
ゲンジの表情は何処か悲しげで何か憂いているようにみえたモモは頷いて言った。
「左様か。にも関わらず、いまは鳥の丸焼きより5倍も餌代の掛かるこの厚切りのローストビーフの方が遥かに安いのもまた事実・・などと御託を並べるより本音を言おう。儂は儂の心が欲しているものを、つまり喰いたいものを喰う事でこれまで千年以上に渡り来たるべき刻、いつでも戦える身体を維持し続けてきておる」
そう言ってモグモグとローストビーフを平らげていくモモを見ながら、ゲンジは微かに脳裏に浮かぶ“解体されていく人間の姿”を振り払いながら言った。
「それは解るけど・・ところでモモ、さっきの寄付の話しの続きだけどさ、お前ならもっと沢山のカネを動かせるんだろう?こんな立派なクルーザーだって持ち出せるんだしさ。だいたいこのご時世に、俺達ばかりこんな事してていいのか」
そのとき、ゲンジが左手に装着していた腕時計型ウェアラブル端末から声が聞こえてくる。
「ゲンジ、それは“イヤミ”というヤツか?」
声の主は、ゲンジのコンシェルジュ“白龍”だった。
「白龍、おまえも一丁前の事を言うようになったな」
訝しげに白龍に返すゲンジに対し、モモはティアドロップ型のレイバン・アヴィエイターを外すと目を細め、水平線の向こう側に浮かぶ太陽に向かって言った。
「なあゲンジ、お主は少し勘違いしているようだ。儂はこの世界の救世主でもなければ、慈悲深い神や仏のような存在でもない。そして何より儂は金なぞ一銭も持っていない。この船も、この肉も、今までお主が見てきた物はすべて“AMATERAS”から支給されたものだ。故、何ひとつ資産といえるものを持っておらぬ儂は寄付など出来る立場にない。だがもし仮に大金を持っていたとしても何の見返りも求めずに寄付はせぬ。もっと別の方法を考えるであろう」
「別の方法?」
「地震、津波、台風、豪雨、そして伝染病。未曾有の大規模な天災は、殆どの被災した者には一生に一度の出来事となるであろう。だが儂はその“一生に一度”レベルの災害を、これまで両手で数えられない程経験してきた。故に儂は自らの身体の維持と同じように、自らの行為に対しても持続性を求める。例えば寄付する金があるのならそれを元に金を増やし、増えた分だけ与える、或いは手にした金を増やそうとしている者に託す」
ゲンジは苦笑いして言った。
「サスティナビリティ・・か。いつかお前、言っていたよな、『儂は世捨て人だ』ってさ。でも、そう言うお前だってちゃんと色々考えている事を、こんだけ長い付き合いの俺が気付かずにいた・・ということか。スマンな、モモ」
「謝る必要は無い。お主が言う通り、儂は世捨て人だ」
「じゃあモモは何の為にこうして毎日、色んな活動をしているんだよ」
「そうだな、何故儂が世捨て人になったのか・・。その昔、儂は自らの能力を使って此処、葦原中国と常世国と呼ばれるふたつの世界を渡り歩く事で善い者を助け、悪しき者を裁き、泰平な世を創ろうなどと大それた事を考えていた。だが実際にはどんなに生き続けて欲しいと願い、助けようと試みても、ある者は病気で、ある者は自然災害に巻き込まれ、そしてある者は人間同士の争いの中で死んでいった。何百人も、何千人もだ。そしてあるときを境に儂は、目の前で死の危険が迫っている者が居ても見て見ぬ振りをするようになった。つまり、他人の生死に関わるのをやめたのだ」
「確かにお前の場合、人助けしてたらきりが無いよな。でもさ、それでもこうして俺を構ったり、十八年に一度、常世国に行ったりしているのは何故なんだ?」
「十八年に一度、常世国からやってくる大蛇やその他の生物は“その世界に居る筈のない生物”、特異点と言えるであろう。そしてその世界に居る筈のない生物に儂の育ての親、その一族や子孫を食い殺され絶滅の危機に追いやられるのを、儂は黙って見ていられなかった。一方、葦原中国と常世国を跨いで生まれた儂もまた特異点と言える。故に特異点である儂が人の生死に介入するのは相手もまた特異点、或いは特異点に関与する者に対してのみとすべき考えるようになったのだ」
「つまりモモ、お前はこの世界では透明人間みたいな存在だけど、同じ特異点である大蛇の退治には関与する。それがお前の役割、存在意義だって事か」
「如何にも。儂は二つの世界の特異点を処理する為に生まれ、いまも生き続けているのだと考えるようにしている」
「そうだったのか。俺は自分をそんな風に俯瞰的に捉える事はできないな。俺の使命は未だ行方不明のお母さんを探し出す事と、お母さんを連れ去った奴等を叩きのめす事。そしてその相手の名は“黒龍”って事くらいしか知らない。けどその黒龍って奴の能力はとてつもなく強大で、いまの俺じゃ勝てないんだろ?」
「黒龍の能力はお主と同じ瞬間移動だが、奴の瞬間移動はその継続時間が長い。例えばお主なら1秒程度の瞬間移動をせいぜい5回繰り返せばもはや限界であろう」
「いや、5回も出来ないよ。3回・・やった事ないけどせいぜい4回かな」
「それが黒龍の場合は20回、ときには30回を超えた事もある。それ故、ひとりで倒す事なぞ儂にも出来ぬ。此まで幾度となく立ち回ったが、倒せなかったのだ」
「確かに30秒間も相手の動きを止めることができれば、そこいらの爺さんでも持っていた包丁を目の前の殺したい相手の腹に刺す事くらいは出来るからな。でもあれから十二年、いい加減にお母さんを助けないと、死んじゃうかもしれないじゃん」
「気持ちは分かるが今は未だ無理だ。喩えにはならぬが、北朝鮮に拉致された日本人が日本政府の力を持ってしてもそう簡単に帰って来れなかったと云う事実もある」
「国対国どころか、国より大きな組織に立ち向かっているんだって事は分かる。けどそんな奴等をいつか倒す為に俺は鍛え続けているんだ、お前の言葉を信じてな」
「ゲンジ、儂の力が及ばず済まぬ。だが機会を伺って必ず黒龍は倒しに行く」
「ああ、分かったよ。けど、そうは言っても何時になるか分からない黒龍との戦いに備える為に鍛え続ける、怨恨だけを糧に生きていくのは辛いよね。だから明るい未来を夢見ることが出来る目標が俺にも、そしてこの世界にも必要なんだと思う。例えばサッカーのワールドカップのように“命を掛けない戦争”のようなものがさ」
「サッカーも含めたコンタクトスポーツは、これまで人類を苦しめてきた此度の鳥インフルエンザの影響で、このところ国際試合は自粛しているからのう。一方、直接人と人が接することのない自動車やバイクでスピードを競う競技は現在も各国で開催されておるが、自動車レースは世界中の誰もが熱狂する競技ではない。もっと戦闘に近いものの方が分かりやすいのかもしれぬ。そこでお主が言っていたFF‐1(フライングフォーミュラワン)とかいう、アレか」
「そう、スピードではなくシューティングで競う。FF-1、FF-2、FF-3の三つのカテゴリーを考えていてさ、トップカテゴリーであるFF-1のレギュレーション、スペックはほぼ決まりつつある。エンジンは自動車のレースにむかし使われていた6リットルV型12気筒。燃料は自然エネルギーを使って取り出した水素を用い、過給器を付けて2万回転回せば軽く1000馬力を超える。そしてこのハイパワーエンジンに500kW以上の出力のモーターを組み合わせ、300kWh以上の容量の燃料電池と100kWh以上の容量のバッテリーの搭載することで、水素のみの単一燃料でエンジンと電気モーターをつかってプロペラを回すハイブリッドシステムが完成する。更にこのシステムをレギュレーションで義務化することで、ドッグファイト時のエネルギー回生と放出は勿論のこと、万一エンジンストールしてもモーターグライダーとしてしばらく飛行できる性能を持たせる。じゃなきゃ壊れやすい自動車のレース用エンジンを、怖くて飛行機には搭載出来ないからね。どうだ、面白そうだろ?」
「フム、確かに興味深い。その機体、完成したら儂にも操縦させてくれぬか」
「そういえばモモは飛行機の操縦も出来るんだったよな」
「左様。フォッケウルフFW190にTa152、BMWは801、零式の21型を飛ばしたこともある。だがジェットはあまり好かぬし、最近の飛行機は手続きとやらが面倒でのう。それ故いまはいつでも自由に乗れるバイクが快い」
「そうか、それでモモは旧いBMW、ドカやトラ、国産も旧車が好きなんだな」
それからしばらくゲンジとモモが第二次大戦時代の飛行機や旧いバイク、クルマの話題で盛り上がっていたところで突如、水平線の向こうから「ドーン」という音がふたりの耳に響き渡る。
「何事だ。遠くで何か、大きなモノがぶつかったような音が聞こえたが」
モモがそう言った直後という声がゲンジの脳裏に響く。するとゲンジの腕時計型ウェアラブル端末の画面に白龍が現れこう言った。
「ここから南東約2kmの沖合で漁船が“何らかの浮上してきた巨大な物体”に衝突した模様だ」
それを聞いたゲンジが助けに行こうと言うと、モモは「儂らがココに居ること自体、世間には認知されておらぬ故、この海域で他国の船に干渉するのは控えるべき」と言って動こうとしない。
「何を言っているんだ。そんな御託、どうでもいいから早く行くぞ」と吐き捨てるやいなや、ゲンジはクルーザーのエンジンを掛け、音が聞こえてきた方角にむかって走らせた。
(困った奴だ・・だが無理矢理制止するのも面倒だし、若い頃は頭ごなしに抑えつけても言うことを聞かぬもの。能力さえ使わなければよし、しばらく好きなようにやらせてみるか)
そう思ったモモはゲンジの行動を黙って見守ることにした。
それからしばらく船を進めると、ふたりは転覆した漁船の上に立っているひとりの男をみつけた。ゲンジが男に向かって浮き輪を投げてクルーザーの甲板の上に引っ張り上げたところで、男はポルトガル語で何か言った。
はじめて耳にするポルトガル語を聞き取れる筈の無いゲンジではあったが、脳裏に次々と入ってくる心の叫びで何を言っているのかは概ね理解出来た。
「なあモモ、このヒトが言っている“突然黒い影が目の前に現れて船を真っ二つにした後消えていった”ってのは何だ?クジラでも現れたのかな」
「否、潜水艦であろう。そしてその目的はおそらくこの船の監視だ。何処の手の者かは知らぬが」
「それじゃあ俺達のせいでって事になるじゃないか。それからこのヒト、誰かもうひとり助けて欲しいって言っているように聞こえるんだけど」
「ウム、真っ二つになった船の半分は海の中に沈んでいったらしい。そしてその中にはこの男の息子が乗っていたと言っている」
「だったら助けてやろうよ!今ならまだ間に合うかもしれない」
「そうやってお主は目の前で発生する世界中の事故に関与するつもりか?今回は船舶だが自動車やバイクの交通事故なぞ世界中の至る所で、秒単位で起きているのだぞ。それに此度の件は衝突音が聞こえてから既に5分以上経過しておる。故、溺れた者が生存している可能性は極めて低いであろう」
「それでも俺は、目の前で起きた事に目を背けるつもりもないし、まだ可能性はあると思っている」
モモにそう言い残すとゲンジは水中眼鏡ひとつを装着すると海に飛び込んだ。
「ええい、またもや抑えられぬとは・・・ゲンジ!死にたくなければ能力を使うのではないぞ!」
モモの声なぞ耳に届く筈もないゲンジの目に映るマリンブルーの鮮やかな海の色は、その後潜り続けて太陽の光が届かなくなっていくと共に、深い色合いのディープブルーに変化していった。そして水温が低くなると共に上昇していく水圧で、耳が圧迫されていくのを感じたゲンジは鼻をつまんで耳に圧力を掛け、更に潜りつづけた。
(あれだ!)
ようやくゲンジの目に、真っ二つになった漁船の後ろ半分が見えてくる。だがそれは今も沈み続けており、なかなか追いつかない。それでも何とか船尾に手が届いたところでゲンジは首に掛けていたLEDライトを手に持ち船室の中に入っていった。真っ暗な船室の中はまだ空気が残っており、先ほど救助した男の息子と思われる青年が虚ろな目をして船室の壁にしがみついていた。
(よかった、まだ生きている)
船室の中に顔を出し、水中眼鏡を外してゲンジが吸った空気は明らかに薄かった。通常、大気中の酸素濃度は21%程度だが、目の前の青年がいまにも気を失う寸前のこの室内の酸素濃度は10%程であろうか。このような低酸素濃度の空気を吸う行為は非常に危険であるのだが、ゲンジはこの劣悪な環境下で何不自由なく身体を動かす事が出来た。だがこのときゲンジは“自分は何故平気なのか”などと、疑問に思わなかった。もっとも、“それどころではなかった”というのが実情であろう。
ゲンジは青年の手首を握ると(思い切り空気を吸え)と心で叫んでから身振り手振りでジェスチャーし船室を出た。それからふたりは真っ暗な海を上昇していった。みるみる明るくなっていく海の中で、ゲンジは自分の手首を握る男の握力が次第に抜けていくのを感じた。そしてようやく顔の表情が分かる程明るくなった海中で青年はぐったりと身体を弛緩させていた。
(まずい・・・このままじゃこのヒト、死んじゃうよ!)
ゲンジが目を瞑り、へその辺りに向かって全身の力を込めると、海中を上昇していく気泡の動きが止まり、音が消え、辺りがしんと静まりかえっていく。
(瞬間移動・・瞬間移動・・もう一回・・ダメだ、あともう一回だけ・・)
息苦しさに喘ぐ表情をするゲンジと首を垂れた青年の身体はみるみる上昇し、一気に水面に辿り着いた。海面に顔を出し、波の音が聞こえはじめるのを感じたゲンジは、クルーザーのデッキに向かって言った。
「ぷはっ・・ハア・・モ・・モモ!、コイツを助けてやってくれ!」
それからゲンジが手を引っ張ると、ぐったりとした青年の身体が浮かび上がる。
「ゲンジ・・・すまんが其奴はもう、死んでいるよ」
「そんな・・・」
そう言った直後、ゲンジの視界は真っ暗になり、間も無く気を失った。
それからゲンジが目を覚ましたのは、以前モンゴルから帰国したときに入院していた日本国内のとある病院であった。病室の天井を見つめながらゲンジは心の中でつぶやいた。
(またココ・・か)
「おお、気がついたか」
モモは微笑むと、リオデジャネイロ沖でのその後の話しを聞かせた。
甲板に横たわるゲンジの身体に向かって泣きながら何度も頭を下げながら、息子の遺体を引き上げてくれた事に対し礼を言った男は、ゲンジだけは何としてでも助けてやってくれとモモに言ったのだという。それからモモはAMATERASと連絡をとり、気を失ったままのゲンジを連れてこの病院に向かった。このときゲンジの身体は痩せ細り一時はチアノーゼが出ていたものの、三日が経過したいま、ゲンジのバイタルサインは全て正常値に戻っていた。
「俺はまた助けられなかった。また無駄なことをしてしまったんだな・・」
「無駄とは言わぬ。最初から無理だったのだ。出来ぬものは出来ぬのだよ。・・むむっ、ゲンジ!お主、いま“また”と言ったな。まさか、何か思い出したのか?」
「ああ、思い出したよ。モンゴルの一件の事も、そして、お母さんの事も・・・」
死んだ魚のような目をしたゲンジの言葉にモモは念話で返した。
(左様・・か。お主は遂に、母親の記憶を思い出したという事か・・・)
(あぁ、お母さんは死んだ、俺の目の前で。モンゴルでみた女の人のようにさ)
それからボロボロと流れ落ちる涙を拭わず、ゲンジはへの字にした口を震わせた。
「くっ、くううっ・・くっそぉっ!今までの努力は何だったんだよ。お前は知っていたんだろ。つまり俺は、今までお前に騙され続けて来たって事なんだ!」
(儂はお主にひとつだけ嘘をついておった。だがそれも、お主を気遣っての事だ)
「そんな言い訳、聞きたくも無い。お母さんは死んだんだろ。だったら今更黒龍を倒しても意味がない。ましてや来るべき刻なんて俺には何の関係もない。モモ、お前がひとりで行けばいいんだ!俺はもう、この話しは降りる」
(お主の辛さは痛いほど分かる・・などとは云えぬが、儂もあの刻、お主とおなじ苦しみは味わっていたとは云わせてもらおう)
「おなじってなんだよ!目の前で母親を殺された俺の気持ちなんて分かるもんか」
ゲンジの言葉に顔を強張らせたモモは声を荒げて言った。
「それは否定せぬ。だがな・・愛する者の首を拾い!内臓を拾って風呂敷に包み!手足と胴体を背中に背負って埋葬した者の気持ちなぞ・・お主にも分かるまい!!」
常に沈着冷静なモモがここまで感情的になった事に意表を突かれたゲンジがモモに目を向けると、真っ赤な目をしたモモの目尻からは涙が浮かんでいた。
はじめてみせるモモの涙に動揺したゲンジは冷静さを少し取り戻しながら、言葉を選びながら言った。
「それってどういうこと?まさか、お前はお母さんのことを・・」
ハッと我に返ったモモは再び冷静な表情で首を横に振り、遠くを見つめて言った。
「お主の母親を儂が・・か。否、それは・・それは数百年前、当時儂にとってはじめての家族、妻と子供を失った話しだ」
「え?そう・・だったのか。そのひとはお母さんと同じように惨殺された・・」
そう呟いたゲンジにモモは頷くと、再び念話で話しかける。
(儂の話を聞いたところでなんの気晴らしにもならぬとは思うが、それでも聞いてはくれぬか。儂の最初の子供の話を)
それからモモは、ゲンジの脳裏に向かって念話で語り始めた。
実は此度のリオデジャネイロ沖の件、儂の最初の子供の話とつながりがある故、先ずはその話からしよう。
そのむかし、儂は旅の途中出会った瀕死の重傷を負った白人の男と黒人の男のふたりにきびだんごを渡した事がある。その後、例の如く特殊能力を授かった彼等に対し儂は、白人には勾玉を、黒人には鏡を渡して常世国に向かったのだが、勾玉を首にぶら下げ水先案内人の能力を備えた白人の男は、リオデジャネイロのあの海域が常世国の入口になることを早々に突き止めたのだ。
そこで“月の光が収束する場所には他の場所と違う何かがあるのではないか”と以前より考えていた儂は、この機会に白人の男が示した海域を調べる事にした。とはいえ辺り一面に水平線が広がる大海原だ。調査対象は海中、或いは海底ということになる。早速潜ってみるとこの辺りの水深は深く、生身の人間が海底に辿り着けるようなところではなかった。そこでどうしたらより深く潜る事が出来るかを試行錯誤していた儂が、誤って海水を飲み込んだ際に偶然見つけたのが“肺の中を海水で満たして潜っていく”という方法だった。普通の人間なら死に至るであろうこの方法は当初儂も苦痛を感じたが、慣れてくると水深100m以上を楽に潜ることが出来るようになっていった。後で知った事だが、実はこのとき海水で満たされた儂の肺は水圧で潰されにくくなっただけではなく、海水中の溶存酸素を取り込む機能を体得していたのだ。とはいえ海水の水分を吸収し塩分を排出する機能は持ち得なかった故、本物の海水魚のように無制限に海水中を漂う事は出来ぬがのう。
さりとて、その後更に訓練を重ねて水深1000m近い海底に到達した儂は、其処で白銀色に光る金属の塊をみつけた。それを陸に持ち帰って調べてみると、以前常世国で譲り受けた大太刀“フツノミタマ”の材質に非常に似ていることが分かった。それは比重がとても重く、海水にも錆びにくく、そして高温にも溶けにくいもので、日本刀のつくり方に倣って鍛造してみたものの容易に形状を変えることが出来ず、刀の製造を断念した儂はそれでも何とか一本のこん棒をつくりあげた。
その後“来るべき刻”が訪れると儂はフツノミタマを持ち、白人の男には勾玉を、そして黒人の男には鏡と出来たばかりのこん棒を持たせて常世国へ向かった。
だがこのとき辿り着いた地は、以前タケルやヨモツチと出会った場所とは随分違っており、寒々としたところであった。この環境では大蛇や蟲の動きも鈍かった上に、今までの動物達と違って知能の高い白人と黒人は器用に三種の神器を使いこなした事から、このとき二人は無敵だった。一方、低重力下で姿勢をうまく制御することが出来なかった儂は大蛇に右足を食いちぎられてしまう。以前カグヤと出会ったとき、常世国では治癒力が著しく低下することを知った儂はその場で応急治療を施し、カグヤから万病の薬になると聞かされていた柿の実を探し出して命からがら葦原中国に戻ってきた。
戻ってきた儂達が着いた場所は、日本のとある離島だった。島に辿り着いた白人の男の頭には小さな瘤のようなものが左右にふたつ、黒人の男の頭には同じく小さな瘤が真ん中にひとつ出来ており、ふたりの唇からは上顎から伸びた白い犬歯がその先端を覗かせていた。このとき白人の男は人間離れした動体視力と俊敏な動きが出来るしなやかな身体、そしてわずかではあるものの念動力を得た一方で、皮膚が弱いらしく火や日光を嫌った。
黒人の男は驚異的な筋力を得た一方で、その爆発的なエネルギーの開放につり合うだけのエネルギー摂取が出来ず、持久力が無かった。
戻ってきた当初は自分の能力の強大さに喜んでいた彼等だが、面白がって無闇矢鱈にその能力を使っているうちに、小さな瘤はやがて皮膚を破り角となってみるみる伸びていき、唇の両脇から覗かせていた犬歯も牙となって、白人と黒人の顔を鬼の形相に変えていった。ふたりはお互い相手の顔をみて笑ったり馬鹿にしたりしたものの、鏡に映った自分の顔を見ると怒り狂い、儂に襲いかかってきた。だが大蛇に右足を食いちぎられていた儂は奴等と対峙する事が出来ず、フツノミタマを杖にして逃げている途中で偶然みつけた洞窟の中で身体を休めることにした。洞窟に入る前、辺りを見渡して追っ手が来ない事を確認した儂は、懐に入っていた常世国から持ち帰った柿の実で空腹を満たした。すると右足の痛みがすうっと消えて傷口が塞がりはじめたのを感じた。それからしばらく洞窟の中で側臥位になり身体を休めていた儂の目に、ふとキラキラとした金色の砂が映った。手に取ってみるとその砂金は常世国の砂漠の砂に非常によく似ていた。
その後、洞窟の中の砂金の上で三日三晩眠り続けた儂は四日目の朝、右足の痛みが消え再生しはじめていることを確認した。それからフツノミタマを杖にして洞窟を出た儂の前には、洞窟を入る前には無かった筈の柿の木林が一面に広がっていた。早速目の前に熟している柿の実を喰いながら辺りを散策していたところで、現地の住民と思しき者と遭遇した。だが近づいてみると彼等は額から角を生やし、口からは牙を生やしており、儂の姿を見るなり襲いかかってきたのだ。
おそらく以前は“人間だった”のであろう彼等を、儂は躊躇する事無く首をはねた。それから更に進んでいくと、白い肌をした一匹の鬼が村人の首筋に牙を食い込ませているのを見つけた。
それは儂と一緒に常世国から帰ってきた白人が完全に鬼の姿と化した姿であった。奴に襲われた村人達は皆、牙を生やし鬼と化したが、儂と対峙している間にもしばらく暴れまわったところで次々と勝手に倒れていった。この世界、葦原中国には常世国のように儂や彼等が瞬間的に放出する膨大なエネルギーを、桃や柿の実ひとつで補充出来る食材など無い。故、奴等は体内のエネルギーを使い果たして動けなくなったのであろう。だが、いくら弱いとはいえ数十人の鬼と化した人間を相手にしている間に、白人の鬼は次々と姿を消していった。
それからしばらく歩いて隣の町に辿り着いた儂は、村人達に襲い掛かる黒人の鬼を見つけた。このとき村人達の肉を喰って生長した奴の姿は、儂の身体の二倍以上の巨体となっていた。そんな奴とまともに戦ったところで勝ち目はないと思った儂はそっと村人を喰い漁る奴の背後に忍び寄り、フツノミタマを一振りして斬首した。
その後、儂は白人の鬼をしばらく探しまわったものの、結局島の中で見つけ出す事は出来なかった。だが奴を見たという村人の話しによると、奴は満月の夜、波打ち際から海面の上を走り出し、身体を浮かび上がらせて西の空に消えていったそうだ。
後で聞いた話によると、それから欧州まで逃げていった白人の鬼、奴は人の血を栄養にして生き永らえたらしい。
その後、鬼達を追い払った儂に島の村人達は宴を催した。浴びるほど酒を呑んだその夜、ひとりの美しい女が現れ儂の前で服を脱いだ。儂は何も考えずにその女を抱いた。そしてしばらくその女と暮らしていたところで、女が身篭った事を知る。それから女が無事、男の子を産んだのを見届けて儂はこの島を去った。
それから数年後、儂が再びこの村を訪ねてみると、あの女と子供の姿は無かった。
村人達の話しでは、その後儂の息子であろう子供が五歳を迎えた頃、周囲の者が“この子は異能者である”ことに気付きはじめたらしい。それは予知能力や念話、そして念動力といったものだったようだ。そしてそれを気味悪がった数人の村人がつい先日、女と息子の家を襲撃した。突然現れた男達に、女は子供の目の前で強姦された。それを見ていた子供は複数の村人を目を合わせただけで身体中を血まみれにして殺した。だが残った男達に子供は首を絞められ、家には火をかけられたとの事だった。
たった数ヶ月過ごしただけであったが、その女の美しい姿はいまも目に焼き付いている。その女が産んだ儂の息子が生きていたら、いまはどんな顔をしていたのであろうかなどと想いを馳せた儂は悲しみ、怒り、犯人探しをすると、どうやら複数の若者が関与していることが特定できた。そこで儂は若者達を集め、剣を抜いて問い詰めていたところで、突然無数の大きな石が飛んできた。よく見るとそれは家の屋根の上に昇った若者たちが儂の頭に向かって投げた石であり、ひとつふたつと避ける事はできたものの全てを避けきれる事など出来ず、儂の頭、肩、背中に次々と衝撃が走った。
そして遂に倒れた儂の前に、儂が愛した女を連れた男が現れる。
投げ続けられる大きな石が倒れた儂の上に積まれていく中で男は言った。
「俺は子供の頃からコイツが好きだったんだよ。それを突然現れたお前は傷物にし、そしてあの奇妙な子供を産ませた。これから起こる全ては、全部お前が悪いんだよ。もう二度とこの村からあんな子供ができないようにしなきゃな」
脳震盪に頭蓋骨陥没、鎖骨骨折に脊髄損傷という身体の上に石が積まれて動けない儂の前で、男は持っていた包丁を女の腹に向けると深く刺し、子宮をえぐり出した。そして既に死んでいる女の身体を横に向けて男は言った。
「あの子供と同じように妙な技を使うことが出来ないようにこうしてくれるわ」
それから男は女の首と手足を鋸で切り落としていった。
その光景を目の当たりにした儂は血の涙を流していた。そして微かに動く右手でそれを拭ったところで儂の記憶は遠のいていったのだ。それからしばらくして儂が我に返ると、目の前には死体の山が広がっていた。そこには女を殺した男以外にも老人、そして男たちを庇って背中を切られた女、子供の死体も無数に転がっていた。
自らが起こした惨劇を前に、儂は泣いた。どれだけ沢山の人を助けたところで、こうして罪もない者を殺めていたのでは何の意味も成さないであろうと頭を垂れた儂は殺してしまった村人の首を拾い、内臓を風呂敷に詰め、ひとりひとり丁寧に埋葬していった。そして埋葬が終わると逃げるようにその村を去ったのだ。
それまでずっと黙って聞いていたゲンジは、モモの脳裏に話しかけた。
(そうか・・。お前も不死身じゃないし、身体にも心にも痛みがあるのは分かったよ。でもそれが、俺のお母さんは行方不明だって嘘ついた理由だと言うのか?)
(それはのう・・そう、それは、儂は当時、初恋の女ひとり、はじめて出来た子ひとり、護ってやる事が出来なかった。そしてもうひとり・・お主の母親も同じ目に遭った事を、儂はとてもお主に云うことはできなかった。お主は儂の・・・)
そう言ったところで心を閉ざし頭を垂れるモモを横目に、ゲンジは心の中でつぶやいた。
(目の前で自分の母親が惨殺されていくのをただ見ているだけしか出来なかった俺の気持ちを鑑みて、という事なのか。それでも俺は未だ・・納得できない)




