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第六章

 カキツバタ、アイ、青いエゾギク、アネモネ……。この花たちのメッセージは、まさに私の人生そのものを表していた。湿地に群れを成し、内と外で花の形を変える紫。細長く天に向かって伸びるピンク。空が落ちたような青い花びら。春先に花をつける赤・白・紫などカラフルに咲く風の花。

 私はどの花も実際に見たことはない。小学生のとき、夕方のチャイムが鳴るまで夢中になって、誰も読まないような植物図鑑を何度も(めく)っていた。カラーの写真を見て時間を忘れ、名前を憶えてはテストより暗記していたくらい。たった一冊、少し重くて大きな本を持っているだけで他に居場所を見つける必要はなかったの。

植物図鑑は面白いほど発見を与えてくれたから、他の本はあまり読まなかった。パソコンも持っていなかったけれど、紙を捲るだけで他の国にある花もその世界に行けた。私もいつか同じ場所に立って、レンズではなく同じ世界で見てみたい、と片隅に小さく載った写真家の名前を見つめては何度も憧れた。

どこへでも仕事といっては、世界中の花を見ているんだろうな……。

 友だちが公園で笑いあって汗だくに走っているなか、私は空調の効いた広々とした学校の図書室に入り浸り、ひとりポツンと花を眺めていた。

小学校卒業前、放課後にクラスの誰かが話し声が聞こえてきた。

「ここも想い出あるなあ。ねえなんかさ、時間が経つのってあっという間って感じしない? まるで誰かが時間の針を早めているように」

 三人は小さな声で話していたつもりのようだが、放課後の図書室は遮ることなく、話し声を私の耳に運んできた。卒業する前に学校を回っているようだ。彼らは、お笑いのような三人でボケとツッコミで分かれていた。残りの二人は「そりゃあ、お前のただの勘違いだ」と笑っていた。ボケの人は天然らしく、あ、そっか、といって笑っていた。彼らがふざけていると、司書が(とが)めるような視線を送る。そうして、すかさず三人は図書室を出ていった。

きっと彼らは、今日の出来事も楽しい想い出にして、また未来で笑っているのかな……。

そんなどうでもいいことを、いまでも覚えている。もしかしたら彼らが楽しい想い出にしたように、私もひとりぼっちの切なかった時代として想い出としてしまっていたのかも。

小学生の私の好きな花は『ホトトギス』という花だった。鳥の名前だ、と初めは思ったが、そうではないらしい。誰かに、好きな花は何かと問われることがあったら、私は自慢げに説明していたただろう。紫の斑点が花にあって見た目は気持ち悪い。晩夏から晩秋にかけての長い間に咲く花だった。花弁が六枚と天に向かって咲くのが特徴である花だが、好きな理由は見た目ではなく、やはり花言葉にあった。

ホトトギスの花言葉は『秘めた意志』だった。他にも『永遠にあなたのもの』、というものがあるが小学生の私に心を許せる人などいなかった。

秘めた意志――。当時、友だちも才能も力もなかったから、小さな体で地団駄を踏んで時間が流れるのを待っているしかなかった。いつかは優雅に世界を飛び回り、花のように色んな場所で咲いて生きていたい。いまは小さな心の畑に種を蒔いて育てている最中、いつかきっと咲かせてみせる。そんな風に思っていた。


 学校なんて、場所を変えてもどこも一緒だ。中学高校と代わり映えしない日常が続き、唯一変わったものといえば、学ぶべき教科が増えたぐらい。それに伴って成績の悪さが際立ち、赤点が重なって何度も補習を受けていた。

 高校最後の進路相談でも進学を希望していない。進学、大学というものにフォーカスしてこなかった学校生活だから当然だ。教師もさすがにこの頭で大学に進学すると言われるとは思っていない。もし、私が進学するといって、見合ったところを見つけるとなると苦労したはずだ。そうか残念だ、と心なしのセリフを吐き、ほっと胸を撫で下ろして次のマニュアルに進むだけ。

「就職するん? いっちゃんに(一番に)やりたいことあると?」

 生まれも育ちも福岡の北九州なので、北九州弁を日常で使っていた。

「うち、東京に行くと」

 思いもよらない言葉に先生は眉を(ひそ)め、説得に次ぐ説得をしてくれたけど、私は頑として受け入れることはなく恩師の元を去っちゃった。

 これから私の人生は花ひらくのだ。そう思うと日本の中心に足を運ぶのが待ち遠しく、一日が過ぎるたびに★マークをカレンダーに記していった。目と鼻の先にいままでの運が大きな塊になってゆっくりと通り過ぎようとしていて、それを逃がさないようにって、身の周りと計画を見直す最終確認に費やす時間にしていった。

 計画といっても、頭の悪い私は小学生の頃に思い付いた「世界中を回る」ということに毛が生えたくらいのものだった。

東京で成功して、アメリカをヒッチハイクして横断。ヨーロッパからインド、中国、寒いロシアは最後かな。と、まさに夢物語を一文にしただけなのよ。ほんとガキだった。

 当然東京に行っても当てなんかない。仕事をしては、要領が悪い、態度が悪い、物覚えが悪い。思っているより厳しい環境だと気づくのに時間は必要なかった。悪循環が続くなかで、私にも取り柄というものが一つだけあった。

 それは二十歳を過ぎてから(たしな)むことができるストレス発散法の一つ。

 お酒よね。

 お酒は何杯でも胃に流し込むことができた。両親が特別、アルコールに強いということはなかったけど、不思議にも泥酔したことなんて一度もなかった。馬鹿の治らない私はスカウトマンに感化され、水商売に入った。Club Tinker――。永遠の少年の隣にいる妖精。

顔が特別良いわけでもなかったけど体質的に良かったため、余興がてらに酒を飲まされ客の機嫌を取るという、明るいキャラで席に着くことが多かった。それ以外の指名で入るのは、地味な子が好きなマニアックな人か、貧乏っぽい人ばっかりだった。

 私は奇麗じゃないから脇役でいい。この世界で一番を狙うことは他人がしてくれる。私はただ座ってお酌をして、名刺を渡して空いた時間に営業メール。そしてたまにお酒を飲んでいるだけで高給が保証されている。それだけで満足だった。

あの日までは……。


 梅雨入りして髪が纏まらない、と目の前でゆっくりと歩いて話す女の子たちを(うと)ましく思いながら、(わき)を抜けて駅前に出る。雨脚の弱まる気配のない外をか細いビニール傘で身を包み、店へと足を運ぶ。

客足が普段より少ないのは、悪天候が続いて憂鬱になるのかな。そう思うと、客が財布の紐を締めるのも納得した。

客引きをしてこい、とお姉さんキャストに言われたときは辛かった。キャッチの仕事は基本的にアルバイトだが、うちの店はそんなの雇っていなかった。キャストが直々にお客を呼び込むことなどはなく、先輩に騙され、後で店長に説教を食らってしまった。

基本そんなことをしなくても、ある程度のリピーターは確保しているので必要ない。リピーターの多くは売れだしの芸能人や会社の役員という客層が殆どだった。私の店はキャバクラ激戦区だったにもかかわらず、リピーターが絶えなかったのは、指名トップの天音さんがいたからだ。

一流企業の社長や有名芸能人が多く足を運ぶ六本木エリアではないのだが、天音さんがいるお店は目立たないビルで会員制だったから、お忍びで楽しみに来るという感じだった。

「会員制キャバクラはどこに行ったってあるが、天音ちゃんはここにしかいない」

「そうなんですか? まあ天音さんが居なくなったらお店が持たないので、後藤さん、引き抜かないでくださいね」

「そうだね、そうするためにはおじさん、もっとお仕事頑張らないといけないね。ハハハハ」

以前に天音さんの指名が被ってしまったお客にヘルプ(本指名が他のお客と被ったとき、少しの間にお客さんの相手を務める)として入ったときに世間話でそんな会話になった。天音さんは集客率、リピート率ともに九割を超えるすごい人でね。売れていないキャストは大体天音さんのヘルプについている。つまり天音さんから、お仕事を与えてもらっているということなの。私にとっては感謝感謝でしかない存在だったのよ。

 天音さんはスタイル抜群なのにおしとやかな声で黒を基調としたドレスで大人のオーラを放っていた。和風な顔立ちと艶の入った髪は綺麗な黒髪ロングだった。天音さんがいるだけで、キャバクラとはかけ離れた世界にしてしまう。彼女を指名する男性客の多くは品が高く、ディナークルーズにいるような落ち着いた雰囲気だ。もちろん、私はディナークルーズなんて誘われたことなんてなかったけど、そんな感じだった。以前は天音さんのお客さんをめぐり、揉めごとがあったみたいだ。しかし圧倒的な彼女の魅力に負かされ、退職した先輩キャストは何人もいるらしい。

私は彼女に対して嫉妬も怒りも感じることなく、ただ先輩を怒らせないように挨拶とお礼、敬語は忘れなかったのだが、彼女は私なんか眼中になどなかった。出勤準備中の彼女は無口で、誰とも親しく会話している気配もなく、ただただミステリアスな人だった。

 特別な彼女は一本の指名額も高く、同じエリアでも破格だった。それだけ人気があったという証明だったが、人気のある先輩はやはり悔しがっていた。しかし売上トップの彼女になにもできないため、()け口は当然売れていない私たちや新人が対象となっていた。

 その日のキャッチもそうだ。一人でも多くの客を取ろうと先輩は私を外に出したのだ。

どうして私が……?

一つの疑問を、頭の中で延々と回転させたまま水割りを作っていると、グラスを置くときに誤ってこぼしてしまった。当然、お客は怒りをぶちまけずにはいられなかった。

「なにやってんだよ、ブス! アルマーニが酒くせえじゃねえか、どう責任とってくれんだよ!」

 自分がしでかした事の重大さに頭を白くさせていると、天音さんが頭を低くして謝罪していた。

「土田さん、この子の不注意で土田様の大切なスーツを汚してしまってごめんなさい。もし土田さんがよかったら、こんど都合が良い日に、私が土田さんに似合うアルマーニのスーツを選ばせてもらえませんか? もちろん、使命料はいただかなくて結構ですので」

「それ本当か⁉ 天音ちゃんが同伴してくれるのか、そりゃあいい。もっと天音ちゃんが好きになったよ。おじさんどーしよ、ハハハハハハハ。それにしても、どうしてアマちゃんがそこまでしてこのブスを(かば)うんだい?」

「それは決まってるじゃないですか。後輩の失敗は、先輩の教育がなっていないからですよ。私は後輩の失敗で、土田さんに不機嫌なままで帰ってほしくないだけです」

「アマちゃん、やっさしい。よしこれから天ちゃんって呼ぶことにする! そして私のことはツッチーって呼んでいいよ。天ちゃん限定で許す!」

「本当にユーモアがあって面白いですね、ツッチーったら、さっきから私のこと天ちゃんって呼んでますよ。フフフ。ツッチーはもう酔いが回ってきたのかなあ? いつもより早いですよお」

 天音さんがお客様の見えない角度で「席を離れろ」とサインを出す。

 さっきまでBGMに負けないほどに怒鳴り声をあげていたお客様は、天音さんが謝罪をしてすぐに機嫌を取るどころか、まるでマタタビを与えらている猫のように骨抜きにされてしまった。

「指名が入りましたので、失礼します」

おう、もういいよ、とハエを振り払うように手を振るしぐさを作り笑いで「指名が入った」と嘘をつくのは心苦しかった。

私が謝罪の言葉を口に出すこともなく事が収まってしまった。これがトップと底辺との違い? やっぱり天音さんは特別過ぎる。この世界にいなくてはならない人なのだ。重い気持ちを抱えたままボーイに次の席へと案内を受ける。先ほどみたいに失敗はしないもののチョットした騒ぎにしてしまったので、付いたお客さんに気遣われ自己紹介する前に「大丈夫?」と優しく声をかけられてしまう。見た目は普通のリーマンだったが、身なりは上々だった。腕時計、スーツ、靴……洗練され職人が手間暇かけて作った逸品を揃えるだけで、男は生まれ変わる。顔も大事だが、すべての男性に対して、好条件を求めるなんてできない。天音さんのような美人ならまだしも、私のような可愛げのない女は、引っ込んで裏方に回るほうがいいのだ。

「たまにいるんだよ……ああしてわざと問題を大きくして、少しでも天音ちゃんの隙間に入ろうと茶番を演じる輩が。気にしないで、確かにミスしたことはダメだけど、天音ちゃんと店長には後で話しておくから」

その男性は、私が閉店後に怒られると予想して、裏で話してくれるという。初めてのお客さんなのにどうしてそんなことをしてくれるのか気になった。自己紹介がまだだったので慌てて済ますと、ああ、ありがと、と少し頷くだけだったが大人の佇まいを感じた。

「すみません、以前にお会いしたことありましたか?」と訊くと男性は不思議な顔をしたので、初対面の方にこんなに優しくされたの初めてなので、と訳を話した。

「いや会ったことないよ、ただ髪が綺麗な子がいると放って置けなくってさ。ほら君って他の子と比べて髪質が良いでしょ? 俺、凄くそういったところに惹かれるの。えーっといまでいうフェチだっけ? 髪フェチなんだよね」


 確かに私は顔や身体にそこまで気にしてこなかったが、髪だけは昔から細心の注意を払っていた。顔や身体は元々決まっている、どうせ変わりっこない、と諦めていたのだが髪は女の命というように、気にかけないということなどなかった。単にそれだけでなく確信的な理由はあるが、いまは順を追って話すわね。

 男性が言うように他のキャストと違って、髪には物凄く時間とお金を使っている。そのため、水商売の世界に入るときも、キャバ嬢のイメージである盛り髪について店長に食いついたとき、店長は笑っていた。

「ウチの店は大丈夫だよ。盛り髪とかは個人の好みで盛り髪とかは無理強いもしてないし、それにウチは知り合いの美容院と契約しているから、プロが髪を取り扱うので心配しないで良いよ。でも、肌の露出やメイクの仕方とか気にする子はいるけど、髪にこんなに食いつく子は君が初めてだよ。ハハハハハ」

 しっとりとした十代からの潤いの髪を維持し、何種類ものシャンプーとリンス・コンディショナー、トリートメントを駆使して髪を守る。枝毛は論外で髪が傷まないように陽の出る日は、つばの大きな帽子を被り、髪への負担をかけないため染髪はしたことのない純粋な黒髪。ロングヘアーのストレートで、手触りの良い艶のある綺麗な髪を保った。髪だけは誰にも負ける自信はなかった。

勉強な苦手な私でも学校で聞いたことある、井の中のナントカ(確かヘビとかカエル辺りのツルツルした生き物だった)を思い出すなんて考えもしなかった。天音さんは指名トップだけでなく私の髪より綺麗なのだ。

 怒りと嫉妬はないっていったけど、嘘だったわね。初めだけ、屈辱的で憎たらしく思った。あんたなんなの? 美貌もお金も名誉も手に入れてなんなのよ、強欲な女。髪まで取ることないじゃない。私は髪のためにどれだけ頑張ってきたと思っているの。あんたさえいなければ、こんな思いなんかしなくて良かったのに。いままで馬鹿やブスと言われ続けても笑い飛ばして乗り越えてきたのに。あんたさえいなければ、あんたさえ……。

 他のキャストはお客に指名されなかったり、あの子だけ特別扱いされるのが気に食わないだとかで目の敵にする。私は一々そんなことで嫉妬はしなかった。自分に期待していない分、嫉妬や怒りの沸点は超高温。高いからずっと乗り越えてこられたのだ。何をいわれても平気な顔をしてやってのけたのに、私から最後の髪を奪うなんて無慈悲なことがあるのだろうか。

 お酒に強く髪だけが武器の醜い私でも、何度か天音さんと会話したこともそりゃああって、ぐいぐいと髪について話した。

「そうね、髪にはメイクや衣装より気を遣うなあ」

「そうですよね、私は髪しか武器が無いので、凄く大切に扱ってるんですよ。天音さんみたいに綺麗な髪を維持するには、こだわりとかあるんですか?」

「うーん、シャンプーとかリンスはお気に入りの物を使ってる。あとは特にかな? でも咲ちゃん(私の源氏名)も凄い髪綺麗じゃない、私、敗けたなあ」

 そんなことないですよ。そうやって作り笑いを浮かべたけれど、内心ではドロドロとしたマグマを抑え込んでいた。


「な、なんなのよ、その顔は」私はニート男のブサイクな顔で現実に引き戻された。

 いや、あの、とニート男が情けなく口を開けていた。私の顔を指して、もう片方の手で自分の顔を触っている。意味不明だったが、古い思い出が過ぎ去ってやっとわかった。

 いつから……。どのくらいの時間話していて、いつから頬を濡らしていたのだろう。人前で泣くなんて。泣くなんて思いもしなかった。

こんなにも弱かったのだろうか。見ず知らずの男どもに、それも私の客でもない奴らに、心なんか開いちゃって。バカみたい。バカ、バカ、バカ、本当に私はバカだ。金に縁の無いニート男なのか、臭い青春を送っていたヤクザ野郎か、それとも糞ダサいリーマンのガキのなにかに感化されたのだろうか。わからない。なぜ私が?

 そのとき、外から何かが近づいてきた。その音は近づいたり遠くなったりしながら、少しずつ確実に私たちに向かっていた。

 ヒッううーヒッヒッ……ヒッううーヒッヒッ……。

 がらがらがら、とサッシから入ってきたシルエットは、後ろの街灯に被さって真っ暗だった。顔は見えないが、その場にいたみんな『酔っ払い』が入ってきたとわかった。

 私たちは逃げるでもなく、驚きも声も出さず、その男をただ見つめていた。本当は逃げたかったはずなのに。みんな動けなかったのだ。

 男はどうやって巻き付けたのだろう、腰のベルトから酒瓶を一つ取り出すと、グビグビと飲みだす。街灯の光を通した、緑の酒瓶がみるみるうちになくなり、透明な緑の光を運んできた。

「おまえらあヒッ……るぅういいいヒッ……いっすぅ、をいじめるんじゃヴぇえええ」

 男はそういうと、酒を床に投げ捨て、腰から黒い何かを握った。細長く鋭利なそれが、ナイフだとわかるのに時間はいらなかった。滑らかな曲線の柄を逆さに持ち、ユラユラと手元が揺れる。

 ぼんやりとうつる狂気に満ちた眼差しで、ユラユラと左右に揺れた身体を怠そうに、おぼつかない足取りでゆっくりと私に近づいてくる。その様子を目で追いかけることしかできなかった。

 まだ身体が動かない。みんなも同じだった。筋肉が固まったまま、動かすべき力を流すことができない。金縛りというものを経験したことはないけれど、こういう状態をいうのだろうか。じわりと嫌な汗がこめかみを撫でる。

 いや。いや。いや。まだ死にたくない――。そういくら思っても声にならない。苦しい。

 高く振り上げられたナイフを持つ男は、もう目の前にいた。いったい私がなにをしたのだろう。どうして、こんな仕打ちを受けなければいけないのだろう。歪んだ視界のまま、みんなに助けを求める。しかし、そんなことしなければ良かった、とすぐに後悔が襲う。

 情けない。頼りない。救えない。最後に見た男どもの顔は、そんな顔だった。儚く散った目を男が振り上げたナイフに移す。ナイフが光沢を出さなかったのは、単に黒い影からではなかった。なにかを刺したのだろう、血に染まっていたのである。

次は私の血に塗り替わるナイフが、私に降りかかった。最後にあの人を思い出した。


 肌寒い風に目が覚める。辺りはまだ真っ暗な闇に包まれていた。夢か。長い夢だったな、と寝違いを起こしたのだろう、痛む首をさすりながら体をおこす。ゲームの中では慣れているが、あんな臨場感のある悪夢の中で殺されるのでは、休んでいるのかわからない。

「さて、次のゲームでも探すか」そう独り言をもらしながら、トイレに向かうと、そこにあるはずのない壁があった。いや、正確にいうならば古臭い本棚である。

「痛えな……」

 どこか聞き覚えのある声が、闇の中で彷徨った。「誰だ」と怒鳴りながら、声の主を思い出す。

 まさか、まさか、と不吉な思いをよそに、記憶に残る映像から、俺は身体をある方へと向けた。暗い中、壁伝いにゆっくりと歩いて、突き当たったボロボロの布切れをおもいっきり引く。そこには夢と同じ街灯が、ぼんやり灯っていたのである。

 どうして? 確かに殺されたはず、と鈍痛で働きの悪い頭を使う。

「この野郎ぉ!」

 怒鳴り声と同時に俺を取り押さえた男は、夢で見た紛れもないヤクザ男だった。

「俺が殺されるのを黙って見やがって」

 それは私のセリフよ、と後ろからキャバ嬢の声が通った。

「待ってくれ。俺も酔っ払いに殺されたんだよ」

 俺のあとに、その話詳しく聞かせてください、とヘタレリーマンも加わる。ヤクザ男の怒りを収めたのちにそれぞれが同じことを言いあった。

「やはり俺らがいるのは夢なんだって。だからいっただろ」

「なにかの間違いじゃないの? 現実的にあり得ないじゃない、そんなこと。そうよ、みんなで集団幻覚でもみているのよ」

 どっちが現実的じゃないんだ。みんな殺されたが生きている、これが集団幻覚で話が済まされるのだろうか。ヤクザの声が戻ったこと、俺が知らない外国語がわかること、そしてあの酔っ払いの殺人。馬鹿げていることも、一つ一つ並べていくうちにキャバ嬢は黙った。

「こいつの話……俺は信じる。なあ、兄ちゃんもそう思うよな?」

 ヤクザ男がドスをきかせてリーマンに問うと、「え、ええ、ああまあ」と彼は(ども)った。キャバ嬢も反論は無いようで、先ほどよりも神妙な顔をしている。

「じゃ、じゃあ、また共通点を探す」

 俺はもう一度、自分の名前(柴崎洸太)とニートであることをいった。今度はヤクザ男のメモ帳に情報を書き込むことにした。薄暗く街灯が照らすなか、なんとか文字は見える。書いた後で、ヤクザにメモ帳を渡した。

 高野恭介――用心棒。相浦そよ――新宿№1キャバ嬢。宮良真司――新入社員。ヘタレリーマンは本当のことだろうが、高野はヤクザを柔らかくしたのだろうか。相浦に至っては人気があるのか、確認しようがないので単なるキャバ嬢ということにしておく。

「さて、今度は宮良さん、あんたの番だよ」

俺、高野、相浦と続いて、まだ自身のことを話していないのは彼だけだった。みんなが話の途中で終わっていたけれど、ここは彼がまず話さないと前に進まない。が、その視線を集める彼は、豆でも食らったような顔をしている。

「僕の話はさっきの自己紹介でしたじゃないですか。名前は宮良真司、更に付け加えると愛知県出身で、十九歳の新入社員です。まだ事態の収拾がつかず混乱しています」

「おい、それじゃあ、なんもわからへん。お前いまの状況わかってるん? 俺らの共通点を見つけへんと助からへんねん。やからみんな初対面だけど腹括って話したんよ。それがわかったらさっさと話さんかい! それともあれか、頭はたかれんと思い出さねえのか? それなら付き合ったるで」

時間を気にしたのか、高野がイラつき始めた。奴が手を出したら元も子もないので、すかさず俺は止めに入る。

「ちょっとぐらい待ってみようよ、高野さんもそう怒らなくても気持ちはわかるじゃないですか。自分のことを誰かに話すのって凄く難しいことでしょ。それも初対面で、怖い年上の先輩ですよ」

 チっと舌打ちを鳴らした高野は、腕を組んで壁にもたれこんだ。一方的にボコボコに殴られる宮良を見ずに済んだ。俺も気が短いほうなので「宮良もふざけてないで真面目に話せよ。俺たちだって混乱しまくってんだ。なに話すかわからねえなら、幼稚園でも小学生でもいいから俺たちと共通点がありそうな部分を思い出せ」と少し強めにいった。

はい、わかりました、と聞きなれた言葉で答えると「この優等生が」と高野がせせら笑う。

「やめてください!」

彼は初めて怒鳴り声を張り上げた。まさか宮良が怒るなど誰も予想していなく、宮良に目が固まった。怒らせた張本人の高野も宮良を凝視している。

「その言葉一番嫌いなんですよ。みんながみんな僕を『優等生』という言葉で一括りにする。僕が善意ですると(うと)まられ、しないと期待を裏切られたという。僕は自分のペースで成長していたいだけなのに勝手に未来を予想されてしまう。それだけならまだいいさ。予想に反した答えを僕が行動に示すとダメ。なぜなんだ⁉ 僕が僕らしくいられない。本当はゆったりとしたいときだってあるのに。気を抜くことができない環境にどっぷりと首まで漬かっている。いつからなんだ。ああ、そうだ、昔あったことを思い出しましたよ」

 どうやら一人だけ浮いていた彼にも黒い過去があるらしい。機嫌を取るような口の軽さはなく、表情も硬く重かった。

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