第五章
「俺にはアニキがいた。血の繋がっていない、かけがえのない自慢のアニキがな。アニキとは中学の頃からの知り合いでなあ。そのときの俺は、誰に対しても歯向かっていて、気に入らねえことは拳で抑え込んできた。それで自分の壁を乗り越えたわけでもねえのにな」
一度も歯をチラつかせることのなかった男が、初めて白い歯を見せたのだった。周りを見てみると、黙って聴いていた二人も俺と同様の反応をしている。驚きを隠せない。
ヤクザはそれには気づかず、想い出に浸るように熱く話を語った。いまの彼には俺たちの姿は映ってはいない。独り言を自分に言い聞かせるように話し続けていた。まるで尊敬のアニキに届いていると信じているかのように。
「アニキは自分の決めた道をゼッテーに曲げねえ。どんなにどうしようもない状況でも、自分の答えでいつも進んでいくんだ。時には馬鹿丸出しのときもあったなあ……」
アニキは俺と同じくらいガキで気が短かった。それに加えて、体格がデカくて人よりも少し目つきが悪く、おまけに抜群な反射神経を持っていたから、歩くごとに拳で気を静めていた。十七のアニキはケンカの日々を送り続けていたから、小さな町でちょっとした有名人だった。当時十五の俺は高校に行かず、アニキとバイトをして、問題を起こして辞めての繰り返しの生活を送っていた。ホントは高校に行けるだけの頭を、二人とも持っていなかった。
「あー、どっかで簡単に金稼げるバイトねーかなー」
「そんな楽なバイト、ある訳ないじゃないですか。〈まんぷく〉だって、客にラーメンぶっかけなかったら、クビにならなかったのに!」
「わりい、わりい。そんな怖い顔すんなって、な?」
二日前に面接をしたバイトで、「人手不足だから、頼むよ」と呼び出されたその日のうちに働かされた。武蔵新城駅から歩いて四分ほどのラーメン店。アニキと二人で、似合わない黒に赤い文字で〈まんぷく〉と印字されたTシャツを受け取った。
「すまんが、これで我慢してくれ」といわれ、アニキが着たシャツは、とても隆々とした身体を包み込むには小さすぎて、みんなが苦笑いしていた。初めは怒り出すのではないか、と冷や冷やしていた俺は、「いや、いいっすよ。オレ、このシャツの生地好きっす」とアニキの訳のわからない説明のおかげでなんとか回避できた。
店の親父も悪いと思いつつ、「へい、まんぷく特製醤油ラーメンいっちょう!」と野太い声のアニキを遠目で見つつ、笑いを堪えているのを何度か見ている。しかし、それを密かに知っていても怒らずにいたのに、俺が少しでも笑いを漏らしたときには、固い拳が俺の頭を小突いた。
「イッてぇ」
「お前が笑うから悪い! ち、ったくよ、早く発注したユニフォーム届かねえかなあ。まんぷくのおやっさんはしょうがねえけどなあ、客に一々笑われてたんじゃあ、腹立つわあ」
と苛立つアニキに、「だからって、俺に客の分の怒りを乗せんじゃねえ」と胸の内で毒づくも、そのとき歯向かえば、アニキには骨折や打撲くらいは負わせられただろうが、俺は病院でオネンネする羽目になっていただろう。それくらい、アニキは頭に血が上っていた。
前に聞いたのだが、元々アニキは繊細で、初めて人を殴ったのは小学四年だそうだ。相手が「細い目だな、お前の母ちゃんはキツネか」と茶化したのが原因だという。アニキはその話を「人の気にしてることを言うんじゃねえ!」と笑いながらモノマネしてみせた。
言いがかりをつけて、金をせびろうとしていた四人組とケンカをしたときのことだった。相手は赤髪のメッシュ、銀髪のグラサン、髭面の太っちょ、スキンヘッドのガリ。ドンキ裏でちびちびと安い炭酸を飲んでいると靴先に唾を吐いて歩いていった奴がいた。
「だから、ちげえんだって。俺の方がゼッテー早いって」
「そりゃねえな、馬力がたけえんだよ、オレんのは」
スキンのガリと髭面太っちょが、どうやらバイクのことで言い合っていた。それを銀髪グラサンがゲラゲラと笑い、赤髪は終始沈黙していた。
「だろ? バカみてえだよな、ハハハハハ」
アニキは、ハマっていたお笑い芸人のコントの面白さを俺に延々と語っていた。いつもの様に犠牲になっていたのだが、四人組は俺たちの前を通りすぎるとき、なにか勘違いしたようだ。
「あ? いまなんつったお前」
頬が緩んだ顔が俺から逸れ、野太い声を出した勘違い髭男を威圧する声で「はあ」とただ一言返しただけで、アニキはあっという間に四人組を片づけた。アニキはケンカ慣れしているせいか、急所だけを一発ずつ、それぞれに蹴り上げただけで相手に反撃の余地を与えなかった。鳩尾、股間、弁慶、肩口。それぞれ膝蹴り、蹴り上げ、回し蹴り、かかと落としと、目の前でストリートファイターの手本を見せられているように綺麗に決まった。道端に蹲る彼らをよそに、アニキは白けたように歩きだしていった。
「覚えてろよ……」
咳きこむ赤髪メッシュが口にしたが、俺はかまわずアニキを追った。
久しぶりに長続きした定食屋で給与が出た。窮屈な満喫生活から脱して、おんぼろアパートを借り、そこでアニキが横になっているとき、俺は溜まった食器を洗った。ラーメン好きの彼は袋麺二つを毎日のように消費する。そのため洗い物が絶えず、後始末はきまって俺の仕事だった。
「そういえばアニキ、いつもなら喧嘩する前にわかるんすけど、今日はいくら考えてもわからないんっすよ」
「なんだよ、朝早いんだから寝かせろよ。それにガチャガチャ音立てんな」
時刻は午後九時半、いま働いている鮫島食堂は朝九時出勤だが、アニキは十時間眠らないと不機嫌になる面倒な人だ。
「ちょっかい出してきたアイツは、何か気に障るようなことしたんすか? 前にアニキ言ってたじゃないっすか『オレは喧嘩するような子どもじゃない、大人だからな』って。なのに今日はどうして――」
「ああ、それか。アイツ、オレより年下の癖にタメ口利きやがった。社会の常識を教えてやったんだよ。ははは」
なんとなく違うと思いながら、適当に納得した風にしていると、グーグーとアニキはすでに鼾をかいていた。
鮫島食堂で絶え間なく続く食器洗いや、蒸し暑い厨房で作る野菜炒めや餃子定食。ときどき態度のデカい土木作業員にアニキがなにかするのではないのか、とヒヤヒヤしたりもした。忙しい午前も終わり厨房裏の狭い路地裏で休憩していた。休憩は交代制で俺が先に、アニキが後だ。店主の鮫島のおやっさんはずっと中華鍋を離さない。
「おやっさんは休まねえんすか? オレらで店やっとくんで、ちょっと休憩しないと身体ヤベえっすよ」
「なにいってんだ、オメえ。おりゃあ居なかったら特製炒飯を楽しみにしてる客にたいして失礼だろうが!」
料理人根性に圧倒された俺たちは休憩を五分で終わらせ、おやっさんの手伝いを始めた。自ら進んで真剣に料理を手伝うアニキを傍目に、俺は息の吐く間もなく、できあがった料理を運んでいった。餃子定食、親子丼、八宝菜、さんまの塩焼き定食……。いくつもの料理を出している間、気にしていなかったことが一気に浮かんできた。そういえばアニキはどうして俺なんかと一緒に生活しているのだろう?
中学でアニキにタイマンで負けてから、アニキに何度喧嘩をしても勝つことはできなかった。いつも喧嘩をする前のイメージでは大柄の身体(アニキは中三にして一七六あった)が地面に突っ伏している。でも、いざ始めてみると地面に倒れているのはいつも俺なのだ。
何度も倒されているうちに、この男の強さの秘訣が知りたくなった。「どうせボクシングか柔道か何かやっているのだろう」と、馬鹿な頭で考えることは貧しい発想しか出てこない。
相当な負けず嫌いな俺は、バカな予想を抱いてアニキの一日を尾行した。
「朝九時過ぎに、家から出る……と」
馬鹿丸出しを隠せず、探偵気取りで、メモ用の付箋紙を手帳がわり。確認をしないで持って行った百均のボールペンは、インクが途切れた不良品で〈朝〉という漢字も間違えて汚い結果が残った。
「○○時に自販機でコーラを買う」、「○○時ちょうど、ぶつかってきた大人に言いがかりをつけられケンカ。圧勝」といくつもの無駄に思えるようなことを書き殴り、その付箋をぐちゃぐちゃにポケットにしまった。
「さっきから何してんだオメーは?」
やばいと思った俺は、ダッシュで逃げたが、捕まってボコボコにされた。
「人が話しているんだ。無視すんじゃねえ」とそいつは俺の顔に青あざを作っていった。圧倒的にやられて俺は身体を起こす力もなかった。
俺はコイツにずっと勝てねえのかな……。
そんな風に弱気になっていたら、目尻からポツリポツリと熱いものが溢れだしてきた。滲んだ視界に大きな男の黒い影が映りこむ。思い出したくもない屈辱感が甦る。
俺は小学生のときから友だちとあまり馴染めなかった。みんなが鬼ごっこをしていると、「俺も入れて」といえなかった。あと少しで鬼を交代できそうな姿を見ると「手伝ってやるよ」と逃げている奴を捕まえて鬼役に差し出すと全員から非難を受けた。誰もが持っていたゲームを欲しくても買ってもらえず、クラス全員の不幸を俺一人で背負っているような気がした。誰かが笑うと俺自身笑われているような気がして口数が減る。
ある日、あまり親しくなかった奴に誘われて週末にそいつの家に行った。〈ゲーム大会〉と称した集いは俺をダシにした一興だった。ゲームに夢中だった俺は仕組まれているとは露しらず、「どうすればビリから脱することができるのか?」そればっかりが頭の中をぐるぐる回るばかりだった。
「高野、あいつには絶対倒せないのに馬鹿だよな。俺らで高野を負けさせるために結束してるのまだわかってないぜ、あいつ。あはははは」
トイレから戻るとき、ドアの向こうからみんなが笑っているのが聴こえてきた。誘われてからずっと楽しみにしてきたのに……。あんなにみんなで笑い合ったはずなのに、嘘だったなんて……。
しばらく頭が真っ白になり、その場に立ち竦んだあとで、部屋に戻るとみんながニヤニヤしながら冷やかしてきた。
「ずいぶんと長い大便だったやん」ゲームの持ち主の柳木がいった。
「いやあ、どうやったら勝てるかずっと考えてたら、遅くなっちまった。本当アホやんなあ、俺。時間かかり過ぎちまってん」
俺がそう嘯くとドッと笑いがおこった。
それで、攻略法は見つかったか? そう訊いてきた奴に向かって頷いたあと、テレビの前に行くと俺は「こうすれば良かったんだ」とゲーム機を勢いよく倒してぶっ壊した。キャラクターが色鮮やかに写っていた画面は漆黒となり、薄くみんなの愕然とした顔が映りこんでいた。
「これで俺の圧勝だな」
その言葉を最後に、俺はまた独りになった。独りで強くなっていく。バカだった俺は強くなるということはケンカでしか知らず、それだけは誰にも負けないくらい強くなった……はずだった。このデカい男と出会うまで。
なぜだ、と何度も思った。こいつは俺の積み上げてきた全てをぶっ壊していく。知り合って一ヶ月も立たない男にプライドをズタボロにされた……。見下しながら笑うその男は、俺に手を差し伸べていた。
「お前、気に入ったわ。オレと生きていかんか? オレな、思うんよ。人生って勉強ばっかりじゃない。よく先公やら親が、『勉強しろ、勉強しろ』っていうやん? でも、勉強だけが人生じゃないやろ? 人生楽しんでなんぼ、ぎょうさん経験してなんぼだとオレは思う。そんでな、お前はオレと生きろ。生き方を変えたらお前の人生、楽しくなるで」
心身ともにボロボロにされたばかりなのに、腹が立ってきて一発だけ、本気の一発だけ、このふざけた男に食らわせられたらと思っても、倒れた俺は自力で立ち上がることすらできなかった。
「ハハハハハ、無理すんなって、ほれ」
そうしてアニキに無理矢理に起こされた、無様だけれど大事な一日を覚えている。腕を引っ張ったアニキの手は妙に熱かった。とても人を傷つける手とは感じられず、ざわざわと劣等感で漣立っていた俺の心が初めて落ち着いた。
「お前はいったい何者なんや……」
「オレは蒲生悠や。ほんで、お前とこれから一緒に生きていくんや。そんで、お前は?」
「勝手に人生を決めんなや! 俺の生き方はテメエで決める。お前が決めんな」
「じゃあ、どう生きていくん? お前の生き様、見せてみいや」
中学で一度も蒲生にタイマンで勝てず、とうとう卒業する順番が回ってきた。学校に居る間はずっと奴に勝つ方法を考えるも、見つけるどころか、勝機の無さを実感する日々が纏わりついてきた。卒業するとき、誰も祝福してくれなかったが、奴だけが校門から出たところで待ち伏せていた。母は「ケンカだけでも卒業できるのね」といっただけで学校には来なかった。こういうと来て欲しかったみたいに聴こえるが、そうではなかった。母とは元々、気が合わなくて俺のことであの人が気にしたことは、指折りで数えられるくらいだろう。
そうして俺は三年間で蒲生の質問に答えられず仕舞いで、押し切られる様に一緒に生きることになった。
「ほな、やっぱり一緒に生きる方がええってことやん」
そういうと奴は子どもみたくはしゃいだ。その姿はケンカばかりしている不良には見えず、俺はたまらずに笑うと怒って本気の拳骨をされた。次第に蒲生のことも理解できるようになってくると尊敬できる面がチラホラとして、いつしか俺はアニキと呼ぶようになった。
自立して生きていくには、どうすれば良いのか……。
俺たちはそればっかり考え続け、仕事と家を自分の手で掴むことが第一歩だと話し合った。いま思い出しても笑いが込み上げてくる。喧嘩だけが取り柄の男二人が、無い頭を使って真面目に話し込んでいたからな。
「よし、オレらにできる仕事見つけんぞ!」
そういうと早速、求人誌を取り寄せてくるも中卒の二人が働けるものというのは、土木作業員か低賃金の飲食店のアルバイトくらいだ¬¬¬¬¬¬¬¬¬¬¬¬¬った。目星をつけた最初の店は「字が汚い」と履歴書をそのまま返され、二番目は「言葉を直してこい」と電話で断られた。
履歴書の書き方、電話での話し方、ぎこちなく噛み噛みだった敬語。いくつもの試練を乗り越えて、ようやくこぎつけた店は初給料をもらえるまで続かなかった。
初めて味わう試練が毎日のように続き、毎日登校するほうが楽だと思うこともあった。でもアニキは弱音をいっさい吐かず、次々と飲食店に電話をかけ続けて履歴書を書いていた。
前に「なにか目指していることとかあるんすか……たとえば夢とか?」と聞いたときには何も言わずに殴られた。珍しく顔が赤かったので、きっと夢を持っているに違いない。
そんなこんなで、バイト生活を続けて二年間。アニキは相変わらず夢を打ち明けてくれなかったが、どんな形だろうと支えていくと決意していた。自分のやりたいことも特になく、未来や夢を考えても何も思い浮かばなかった。とりあえず、と楽しめる場所がアニキの隣だったので、そうすることにした。
夕方過ぎ、珍しく早上がりという日だった。バイト終わり、アニキは急いで先に帰ってしまい、俺がアパートに着く頃にはどこにもいなかった。
「わりいわりい、ちょっと用事あってな」
アニキは九時過ぎまで戻らず、仕方なく俺だけ先に晩御飯を済ませた後のことだった。年季の入った玄関の扉がギイッと音を立てた。問い詰めようと居間に上がってくるのを待っていても、なかなかアニキは部屋にあがってこない。暗い玄関にへたれこんでいる姿を見て、ビックリして近づくと身体中にケンカの痕があった。
「ぶぇっくしょん‼」
ハエでも鼻に入ったのだろうか。リーマンは大きく身体をくの字に曲げた。彼のくしゃみによって現実に引き戻された俺は、忙しなく動かしていた口を閉ざした。
「それからどうなったんですか」と話を催促するニート野郎。「どうして途中でやめんのよ、男らしくないわね」と人を貶す派手女に、「僕のせいで水を差してしまって、すいません」とヘタレなリーマンを無視した。
また戻ってしまったのか……ふと誰もが思ったのだろう。深い沈黙に包まれていく。
「カキツバタ……アイ……アオイエゾギク……アネモネ……」
しんとした空気に、キャバ女のしっとりと通る声が小さく響いた。
「いまいったのはね、全部、花の名前。……知ってる? 幸せは必ず来る、あなた次第、あなたを信じているけど心配、見捨てられた。あなたは私を女らしくないと言っていたわね。確かにそう見えるかもしれないけれど、前はちゃんとした女の子だったのよ。さっき言った花も小さいとき、ほとんど覚えたの。花言葉もね」
ゆったりとした口調で言い終えた彼女は、一息ついてから語り始めた。その表情にはいっさいの軽さもない、初めて見せた顔はすべてが冷めきっているようだった。