第四章
何十件目の不採用告知と、お祈りメールが届いた夜から生活習慣が変わった。就活することを恐れ、日中に働いている人を避けるように夜に行動するようになった。
自転車で夜の道を通るとき、必ず車の走る向きと反対車線側の歩道を走っていた。そうすれば、自分の影を見なくて済むし、なにより車が追い越していくこともない。それは、車に追い越されてしまうと、まるで自分一人だけが取り残されているような錯覚に陥ったからだ。
落ち着く……。
反対車線側を走ることによって、車の放つ二つの光が、俺にある気持ちをもたらしていたことに気づく。
いままでだと、前を向けば赤いテールライト。思い出すと、渋滞の道を通るとき、地獄の門まで続いているような列が視界にあった。ヘッドライトは神聖な光のようで、広範囲に照らすその導きは、体の中に潜む悪を滅しているようだった。
まあごたくを並べてみるが、本当のところは自分の弱い一面を認めたくないだけなのだ。一人でペダルを漕ぐ夜は、感情がついつい溢れてしまう。極度に感情が高ぶり、思ってもないうちに涙が零れ落ちてきた。
信号が赤になりそうなときも、俺は急いだりしない。ギアは一か二でしか走らなかった。いつものように二で走っていると、後ろから高校生らしき二人組がすぐ横を勢いよく通りすぎていく。元気だなと胸で一言つぶやく、それが鍵となって心の記憶を開けてしまった。俺にもああいう頃があったのだ。ついこの間までの、学生時代がしみじみと思い出す。
額に汗を浮かべながら立ち漕ぎ、目的地へと風を切って走る、肩が軽かった頃。いつからだろう、ときらめく昔を思い出したついでに、俺は肩が重くなった日を検索しはじめた。就職活動を始めた頃か、彼女と別れた頃だろうか。はたまた上京して一人暮らしをしてきた頃に、荷物とともに肩になにか重いモノをしょって来たのだろうか? だが、答えはどれも違っていた。
404 Not Found 思い出せませんってか……。
時間をかけて出した答えは、人に備わっている防衛本能の一つで、嫌なことを無意識に忘れさせるってなにかの本で読んだことがあった。まあ思い出して悪くなるのなら、初めから思い出したくないものだ。
プレイリストの曲が中盤に入る。凄くこだわりの強い俺は「始め盛大、途中安らぎ、締め適当」というプレイリストしか作らない。自転車を漕ぎ始めたときは気分を最大限に上げ、寄り道をしながら流し、帰りは大抵のことに対して投げやりになる。さらにその決めごとに俺はテーマを必ずつける。だから、友だちが俺のプレイリストを見たとき、「お前の感性がわからない」と笑われた。
いま聴いている曲は〈ノスタルジックなるそよ風〉というプレイリスト。このリストは、小学生から中学にかけての歌をよせ集めた。近頃起きた変化の影響で、このリストにまた頼る羽目になってしまった。しかし、それもペダルを漕ぎだしてから二〇分後に後悔する羽目になった。耳に流れ込んでくる、聴きなれたハイトーンボイスが俺に嫌気をもたらす。
歌詞は爽やかな春をイメージさせる内容で誰にでも好印象を与える曲だ。喜びの出会い。悲しみの別れ。いまは逢えないが、次逢うときには笑っていてほしい、僕は君のことを考えると空でも飛べる気になってしまう。
癒しの効果を得るため、中盤に選曲した曲が逆効果だった。先程に通りすぎた、外まで漏れたコンビニの光が脳を叩き起こす。冴えた頭に流れる曲が思考を無駄に働かせた。
中学のころから訪れた淡い青春の日々。二年に転校していった密かなアイドル。みんなでふざけて体育の先生を怒らせた学年集会。若さ特有の虚勢をいつも吐いて、友だちと「早く大人になって」と切り出しては来るはずのない現実離れした未来を語った。そして、一番に信頼していた友だけが、夏休みのお泊まりで、俺が赤面して語る夢を耳にするのだ。
いまの俺は就職浪人。大学受験のときも、早朝から深夜まで勉強して三流大学。いつからか志望したことはいつも外れた。就職、大学、そして恋人までも……。
厳密にいうと、恋人に関しては、少しは良い夢が見られたのかもしれない。なんせ同棲までしたのだから。初恋ではないにしろ、初めての彼女というのは男を〈無敵〉と勘違いさせる。彼女のどんな悪い部分も美化し、常に笑っていてほしくて、本人も驚くほど熱量を引き出してくれる。
まさに歌詞のごとく、空までも飛べる気になってしまうのだ。魔法がかかっているとも露程も考えずに。
ユイカとは〈にゃんこ同好会〉という大学の片隅で知り合った。
俺は異常なほどの猫好きっぷりを中学高校と、六年間で周囲に猫への情熱は打ち明けられなかった。いや、本音を言えば周りに打ち明ける程の勇気を持っていなかった。よほど仲の良かった親友と呼べる存在にでさえ、猫好きを伝えて引かれてしまうのを恐れた。
だから、弱い一面をユイカにだけはサラサラと溶けていくように口が動いていった。
「あの猫の前足と後ろ足を揃えた座り方、やばいよねえ」
「わかるわかる。あと猫のお腹とか背中とか吸うのも良いよね」
「そうそう、猫独特の匂いが堪らないよね」
初めてだった。他の会員には少し引かれたけれど、会長と副会長の清水さんと高野さん、何より同い年の本島由衣香と気持ちをわかち合えたのは嬉しかった。警戒心を忍ばせた飲み会で、飲めない酒の力のせいもあるのだろう。ちょろちょろと漏れていたダムが決壊したように俺は饒舌に捲し立てた。
同好会の会長と副会長だけあり、猫好きな気持ちは同じくらいだったが、どこか視点が違うように感じられた。その点、ユイカの細かい着眼点は俺と似ていてなにを言っても、すこぶる良い反応を見せてくれた。おかげで孤独だった氷の自尊心は、見事に消化していった。
ユイカと仲良くなって、猫についての話題を避けていたのが不思議なほど、猫に囲まれた日々を送っていった。
彼女行きつけの猫カフェ。満喫のバイト後、帰りの路地裏で見つけた野良。同好会のメンバーが撮ったベストショット。同好会に行くにつれ、地元のことを思い出すことや独りで都会の中で生きていく、という地元を離れるときに決意した気持ちが薄れていた。いま考えると、世間が言うところの〈都会の怖さ・冷たさ〉というもの触れていなかっただけなのかもしれない。そうでなければ俺の中の都会のイメージを過大評価していたのだ。
誰もが知っていたようにユイカと恋人になり、同好会を通じて友だちもでき、接客業が苦手な自分でもできる満喫のアルバイトも慣れ、夢のキャンパスライフをすごしていた。
絵に描いたような幸せというのは長くは続かないなんて誰もが知っていて、同棲までこぎつけたものの些細なことで別れてしまった。
その日は朝から二人とも機嫌が悪かった。
夏も盛り、エアコンが効いた大学構内、風通りと家賃が安いだけが取り柄の安普請のアパートから一歩外に出ると、忽ち汗が噴き出す日が続いていた。
「ねえ、冷凍庫にアイスがないんだけど……」
三限の講義を受けたあと帰ってきたユイカは、汗でべたつくシャツを扇ぎながら不機嫌な声を漏らす。
「あーいつものソーダ? ごめん、忘れた」
「また? どうしてちょっとのお願いなのに忘れてしまうの。この間もそうだったじゃない…………はあ」
「暑いからって、俺に八つ当たりすんなよなあ」
次の週に提出するレポートを纏めていた俺は背中で生返事をする。その態度が更に彼女の神経を逆撫でする。
「……八つ当たり? ふざけないでよ!」
金切り声が脳天をぶち抜いた。そこでようやく事態の重さに気付いた腑抜けな俺は、レポートから涙ぐむ彼女に視線を移す。ユイカの叫び声は部屋中を反響せず、隙間という隙間から外へと拡散していった。そして、その声を聴いた近所の人はきっとこう思うはずだ。
あーあ、別れのカウントダウンが始まったな、と。
ストレスが溜まって爆発してしまったユイカは、胸の内で煮え滾っていた気持ちを一つ残らず俺にぶちまけていった。
猫のような性格に惹かれて蓋を開けてみれば、ただの怠惰な人。正論で諭してくれていると思ったものの、思えばつまらない屁理屈。本が多くて知的な部屋は、運動を避けた籠り部屋。毎日欠かさず飲んでいる牛乳は、身長が伸びると信じ続ける幼さ。一緒に眠る度に信じ続けた「愛してる」はバカの一つ覚え。
と、出会った頃から同棲してきた今日までの鬱憤を勢いよく吐きだした。
どうして言ってくれなかったの? 黙っていたのは俺を本気で好きじゃなかったっていうことじゃないの?
例によって、ユイカの吐いた不満に対し、反論する言葉が頭に浮かぶもそれを口にするほど頭に血が上っていなかった。むしろ、怒り震える一面を持った彼女に驚き、口が重たい。なにより後になって考えてみると、口を開こうとすれば、彼女の中で、それは〈つまらない屁理屈〉になってしまうのだから意味がない。
そうして押し黙る形になり、口を真一文字で結び黙る俺を、彼女の瞳は「深刻に反省をする彼氏」という俺の希望を受け入れなかった。ヒステリックに喚く彼女を、内心では嘲笑いながらも冷静に事を収めようとする彼氏。
きっと彼女の心では、そんな風に映っていたに違いない。自業自得だ、と俺は冷めた自分を落ち着かせる。俺が屁理屈ばかりで、彼女に固定概念を植え付けていたのだろう。
彼女は俺を信用することができずに出ていった。それは、俺の都合のいい解釈だ。訂正すると、俺がユイカを信用させずに追いやった。
どうして、俺は本気で人に信用されることを拒んでしまうのか? なにを恐れているのだろう?
これまで繰り返してきた問いは、答えを見つけられず、行き場を彷徨っている。
「自問自答というのは不器用なもので、本当は己の中ですでに解答が用意されている。それを自分の中で整理したい、確認したい、強く思い直したい、とわざと自らに疑問をぶつけているだけなのである」
いつか読んだ本にそういうようなことが書いてあった。もし、著者が正しいのであれば、俺の中で決まった答えが用意されているはずだ。そのように手探りで答えに近づこうとはするも、俺は答えを決めない。なぜなら、いつしか俺の中で答えが薄暗く見えていたのだから。
「信用ということが恐怖なのだ」と。
薄暗く手前に佇む答えに探りをいれて思考を続けると、そう理解してしまったのだ。
〈信用〉もしくは〈信頼〉。誰かを信用してしまって自分が裏切られたときに、自分がどうなるのかを想像すると怖い。それか誰かが俺を信用して頼ってくれているのに、それに俺が応えられなくなって、破滅させてしまうのではないか? そう思うと恐かった。
この二つの恐怖を現実に味わいたくない。強迫観念が俺を縛って、自由な羽根をもぎ取っていった。
人は恐怖を一度知ると強くなりたいと考えるが、俺は恐怖を避けるだけで、味わいたくない。心に根付いて地に堕とす。幼い頃に負った恐怖というのは、俺にそういう印象を後味わるく残していった。それは成長するたびに広く、深く残った。まるで小さな傷が大きくなるにつれ、皮膚とともに伸びていくように。掌に刺さってしまった鉛筆の芯が取れた後も薄黒く残る跡が、脈動とともに身体中を少しずつ侵しているかのように。
子どもの頃を思い出すと、きまって動悸が胸を打った。
「ここで、待っているんだよ」優しくはにかんだ父は、戦隊もののお土産を買ってくる、といって古いタイプの乗用車であっという間に家から出ていった。父親が上機嫌で出ていくのは、外に愛人がいるからで、そんな大人の汚さを知らない俺の目は〈やさしいパパ〉というアングルでしか映らなかった。
あのときの父は建設会社に勤めていて、好景気も重なり自然と父の懐も潤った。
母も父が中古で買ったマンションに上機嫌だった。まさに夫婦円満、完璧な両親だった。
幼稚園から帰ると友だちと公園で遊んで、母と帰り、父の帰りを待った。そうして家族団欒で母の手作りカレーを食べながら週末の予定を決める。
いつもの幸せが続くと当たり前に思っていた白い日々。幼稚園での一日をお風呂場で父に聴いてもらい笑い合う。眠くなるとヒーローのパジャマ姿に変身し、ぽかぽかの一日を母の読む絵本で終える。
幸せな家庭の殻は内側から脆くも壊れた。初めは隣の夫人の噂だった。
「ねえ奥さん、聞いた? このマンションの南側に大きなマンションが建つんですって」
噂好きのおばさんにつかまっちゃって、と母がたまに料理が遅くなると、決まって笑って言い訳をしていた。その日の帰り道もあと少しで家に辿り着くというところでおばさんに捉まった。おばさんは毎度のように、近隣の家庭事情や新しくできた大型ショッピングモールの話を、延々と話し続けた。顔を引きつらせながら苦笑いを浮かべる母をよそに、おばさんは高層集合住宅の話を進めた。まだ4歳だった俺はなにを話しているのかさっぱりだったが、母が眉を顰めたのをいまでも覚えている。
「ねえ、聞いてる? マンションが建つんだって。本当に信じられない話よね、まったくもう。でね、今度集会があって建設会社と管理会社から説明があるらしいの」
そっか、大変だな、とパソコンを凝視しながら父は鷹揚に流した。父はいつも揺らぐことはなく、落ち着いてカッコよかった。友だちはそんなのダサいよカッコ悪いよ、といって変に思われたけれど、俺も変人だったのか気にしなかった。幼稚園のみんなの父は力が強くて肩車をしてもらったとか、お馬さんごっこをしてもらったとかよくある父親像でカッコいいと口を揃えていう。当時の俺は「みんなのパパは変だな」と思っていただけなのだが、変だったのはむしろ俺のほうだったのである。
母方なのか父方なのかは知らないが、俺の血の多くは平成というより、むしろ昭和の方が多く流れていたのかもしれない。そう考えてみると祖父と祖母の顔をどうしても見てみたくなる。お爺ちゃんとお祖母ちゃんは父も母のどちらの方も俺は知らない。だが、きっと偏屈で我が強い人だったのだろう。
黙って冷静に判断する。その姿勢は幼き我が目にも映えていた。父がパソコンを操作し始めると集中して動かなくなる。
「ごめん、今日もコウちゃんのことよろしくね! じゃあ、行ってきまーす」
母が急にマンションがどうのこうのといって、夜に外出することが多くなると、母が出ていった後に父とドライブすることが多くなった。
「ママには内緒だからな?」
父さんとの夜、外で遊べる。そう考えると不思議に「どうしてお外に行くの?」と言葉が出なかった。夜の七時過ぎにドライブに出かけ、横浜スパーランドに向けて車を走るのだった。ここまでは母に内緒で子供に優しい父親、父の裏の顔を俺は知らなかった。
後々聞いた話だと、父は俺を遊園地に連れて行って、俺が夢中になって遊んでいるときに若い愛人と外でデートしていたのだった。そうしてデートに飽きてくるとホテルへ待たせ、俺を家に連れて帰った後で合流する。父にとって前々から家庭なんて取り繕うモノだったのだ。母が新築高層住宅で頭を働かせていたのは好都合だったのだ。俺は俺で遊ぶことに夢中になっていた。家族はうまくいっているようでそうでなかったのだ。
「ねえ、昨日ね、パパが遊園地に連れて行ってくれたんだ。コウ、とっても楽しかった」
この言葉が俺の人生を狂わせてしまったのだ。俺は父と二人で夜出かけて母に内緒で遊園地に行ったといういけない秘密がとても嬉しくて、つい父との約束を破ってしまい、母に自慢してしまったのだった。いつもと同じく公園から帰る夕方、母の顔は薄い西日のせいか、いつもより温かみを帯びていて、目を細めながら僕の話を聴いていた。
「どういうことなのよ!」
楽しい毎日がいつまでも続くと信じていた俺は、いつもみたいに母に寝かせられて深い眠りに落ちていた。突然、どうしたのだろう、とゆっくりと居間に向かう。首を垂らし、肩を震わせて泣く母。母を悲しそうに見つめる元気のない父。さっきまで料理を囲んで笑顔で座り込んでいたテーブルが褪せているように感じた。クリーム色だったはずのテーブルも思い返してみても、二人の雰囲気に飲み込まれ灰色に見えたのか、ただの照明のせいなのかわからない――。
「――――ただ、いま思うのは……あの照明ここにあればいいなってね」
なんでやねん! と話を強引に区切り、俺は一人恥ずかしいノリツッコミをする。それも、ベタベタの関西弁。初対面で過去のことを話すことに、いまさらながら抵抗を感じたのか、それとも核心に触れることを拒んだのか、俺自身でもわからなかった。
「私、初めてこんな熱い話聞いたかもしれない」
一番反対していた派手女がなぜか涙目になっていた。なんだか急に恥ずかしくなって、熱いってなんだよ、と茶化した。
ドロドロとした黒歴史を話すのは少しおいておこうと、ついこの間の出来事をふと思い出した。
自転車に跨り静かな町を目的もなく徘徊している。肌に寄り添う冷気を裂く風切り音と、自転車の錆付いたチェーンがチャラチャラと身体を包み込む。身体の芯に渦巻いている、どす黒いベトベトした苦悩が解き放たれるような気がした。
消えろ。消えろ。消えろ。時間の止まった部屋にいると、感情、能力、知識、そして運さえも太刀打ちできない気持ち悪いモノが日々身体にへばりついて、中に入っていく。
家でジッとしていると、いつまたソレが来るのかわからないので、俺はできるだけなにかに集中した。すでに以前の社会に出るという気力が削がれ、パソコンにしか没頭できなくなっていた。そうして再び現実に気づくと自転車で逃げた。問題は外にないのに、街へ逃げていると少しだけ問題の危機感から意識を逸らすことができる。大きくなる不安と溝を無視し続けた。
それから習慣として、気分転換として夜の道路をサイクリングしている。初めは何度か、パトロール中の警察官に職質をされたことがあった。いまではもう顔馴染みになっている程だ。
「君、ちょっといいかな? こんな夜中に何をしてるの? 何か身分を証明できるものって持ってる?」
初めてのときはこの様な職質が次第にこんな風に変わっていく。
「こんばんは、また君か。今日はどこまで遠出していくの。夜の事件に巻き込まれるなよ」
基本的に俺は外出するとき、必要な物しか持たない。鞄も持たなければ財布もスマートフォンも持たない。それは一種の性格が関係している。
束縛が大の苦手で靴下やベルトをはじめ、リング、イヤリングにネックレスの装飾品から腕時計でさえも嫌いだ。なので時刻を確認したいときにスマートフォンがあればそれで、無ければ代わりにウォークマンを持っているのでそれで確認する。
いつものように、ウォークマンでお気に入りをシャッフルしていると、声が背中にぶつかった。
「こんばんは、そこのお兄さんちょっと良いかな」
黒のフードを被っていた俺は、肩を叩かれるまで気づかなかった。いつもの警察官と違う。軽く会話して身分証を要求されたので、持っていないことを告げると二人の警察官は難色を示した。俺の顔が童顔なら未成年の疑いをかけられる。そして犯罪を起こしそうな挙動不審な不審者の疑いがあれば職務質問で尻尾を出すかもしれない。だが、俺が挙動不審な行動をしている筈もなく(自分で言うのも変な話だが)、身分を証明する物も持っていない。仕舞いには職質された場所から、マンションが近かったので家に帰って運転免許証を差し出したのだ。
「あれって便利だけど、イラっとするよね」
溜まり積もった思いを吐き出した。何が? というような三人の表情に、俺の答えは共感できるのだろうか。
「身分証……カード一枚、情報と顔写真だけで人を判断する。人は外見じゃないのに、ソレだけで一瞬で判断される。確かに警察官とか、そういう立場からしたら、とても良い物だと思うけど」
それこそ何かに酔っていたように、熱弁している自分がいた。そのくせ、世間では人は中身が大事だとか綺麗ごと抜かすよな? とグチをこぼした俺を見ながら、ヤクザ男が、ぷっははと噴き出す。
「なにそれ、めっちゃオモロいやんけ! まるで昔の俺見ているみたいや。ハハハハハ」
え……いまこの人、喋った…………? そのとき、みんなの視線が俺からヤクザ男に移った。
って、俺声出たあ! と感動からハイテンションになる。いままでの男のイメージとは一変して、陽気な強面兄さんになった。
「あの、本当にあなた言葉が喋れなかったんですか」と俺が疑いの眼差しでいうと、彼は一瞬顔を引きつらせてニカッと慣れない表情をした。
「当たり前や! せやへんかったらな、こんな女らしくない奴にええ気にさせるか!」
なによ、と険悪になる派手女を俺はなんとか抑えた。やっとヤクザ男がまともに話す気になったんだ。このチャンスを逃してたまるか。
俺が喋れんようになったんは、いろいろあってな、と関西弁独特のイントネーションが妙に違和感である。ヤクザ男が言葉を話せなかったことに驚愕しているリーマンを俺は黙らせて、彼の話を聞いた。