第一章
深く暗い眠りから覚めた洸太は、冷気を含んだ深い闇に蹲っていた。どうやらそこは鬱蒼と生い茂る森が続いているようだ。
……どこだここは。だれかに拉致されたのだろうか。しかし、拉致されるとしてもまったく身に覚えがなかった。ただ、生きていることに対する安堵感はあまり感じなかった。いつからか自分に期待しなくなった。でも、これからどうすればいいのだろう。
自分の人生だけど他力本願。いつも何かしらの疑問が頭に浮かんでは答えが見つからない。幼稚な思考のまま、怠惰に一日を見すごしていく。その生活が拍車をかけて脳が麻痺し、抜け出せない底なし沼にどっぷりと体を沈ませていった。
いつまでも抜け出せない日常。だからだろうか、わけのわからない非現実的な出来事でも、危機感はなかった。狂っていたのだと思う。
洸太はとりあえず森から抜けるための出口を探し歩いた。枝や幹に足をとられながら暫く歩いていくと、ざあざあと森が騒ぎはじめた。風が、ある一方向に吸い込まれていく。不気味な風に従うと森から抜けることができた。
森を出ると、何棟もの団地と紫がかった空が広がっていた。おかしなことに、この団地は横に規則正しく並んでいなくて、時計塔を中心として円を描いて建っていた。まるで砦のような団地は、どこか古いヨーロッパを彷彿とさせた。時計塔はどこからでも見えるように、三面時計となっておりそれを茶色い球体で包まれていた。鉄のところどころに錆が目立っている。不気味に聳え立つ古風な時計塔も、どうやら日本式ではなさそうだ。
ただでさえ異様な光景に加え、窓から明かりが漏れていないことに洸太は、じわじわと不安に駆られていた。街灯が唯一の明かりでそれぞれの団地の前にあり、みすぼらしく痛々しい建物を照らしていた。
どうなっているのだろう。ぼんやりと街灯が照らす、世帯ごとの窓から人の気配は窺えない。
不幸中の幸いだろうか、時計塔は現役らしく八時二七分頃をさしている――。数字はなく、おおよその針の位置でしか判断がつかない。時刻を知ったところで何になるのだ、と洸太は苛つき、ぼさぼさ頭を掻き乱す。
周りを見渡しても、そこには廃れたコンクリート群が繰り広げられているだけだった。
洸太は一番近い家のベランダから中の様子を窺う。目を凝らしてみると微かに家の中が見えた。
誰も住んでいないのか……。
手助けになりそうにない、と塀に手をかけて降りようとした。そのとき、家の中からは何やら鼻をくすぐるいい匂いが漂ってくる。料理、アロマ、石鹸のような匂いでもない。それでいてじわじわと洸太を魅了していくソ(・)レ(・)が気になってしまい、さっきまでの緊迫感が消えた。アルミサッシに耳を澄ませる。中は物音一つしない。誰も見てないことを確認してゆっくりとサッシを開けていく。
「ぎゃああああ!」
遠くから悲鳴が聞こえて、反射的に手を戻した。急速に血液が身体中に巡るのを感じながら、声がした方へと急いだ。街灯の近くでリクルート姿の男が尻餅をつき、何かに怯えていた。
「おい、どうしたん――」
近づいていくと、男の前に何やら小さい黒い物体が震えていた。
「なんだ、そいつは……?」
黒い物体。その正体は蜘蛛と猫の合わさったような化け物だった。黒ずんで毛先の整っていない身体から突き出た蜘蛛特有の足。まるでネズミのように細長い尻尾の根元から、漆黒の闇と同化して、僅かな街灯の灯りに黒光りする腹部。瞬時に姿かたちでは猫とわからなかった。「にゃおぅ……にゃおぅ」低く唸る猫の声と、「フーッ」という威嚇する声がでていたからだ。後ろから見ていたが、化け物は猫の頭が二つに分かれており、耳は千切れて傷口からはどろどろとピンク色の液体が溢れ出ていた。その化け物が男の前で小刻みに震えていた。
転がっていた少し大きめの枝で殴りかかると、掠ったぐらいでほとんどかわされた。掠った先が頭部だったらしく、ジュクジュクとした赤黒い液体が流れている。
「シュー」と威嚇して、化け物は少し離れた茂みに身を隠した。
「あんた、大丈夫か」
「ありがとうございます。あいつは一体なんなんですか」
知らない、と応えて俺たちはひとまず身を隠すことにした。俺が匂いに誘われたさっきのベランダから部屋に入る。
薄暗い部屋で、明かりに代わる物を探した。引き出しにあった蝋燭に明かりをつける。部屋は人が住めるような状態じゃなかった。ボロボロに引き裂かれたカーテン。角が欠けて折れかけた長テーブル。黒カビで変色した壁とその前に並ぶ本棚。本棚は立派なもので、まるで図書館から書架を持ってきたように感じられたが、当然、図書館のような静謐さはない。
「ここって勝手に入っていいんですかね?」
「さあな、とにかくあの化け物から身を守るのが先だろ。おい、ちょっとそこ閉めてくれないか
ベランダの近くにいた男にカーテンを閉めさせる。少しでも化け物が気づかないように配慮しな
ければならない。警察に助けを求めるため固定電話を探す。だが、この部屋の有り様からして期待できそうにない。玄関前に置かれていた珍しい黒電話を手にする。やはり受話器からは「ツー」という音も聞こえない。
ここに来てから、おかしなことばかりだ。
居間に戻って部屋中を見ると、散乱していたのは、どれもこれも古い物ばかりだ。
「あんたも拉致されたのか?」時間を置いて頭を整理すると、男に聞かなければならない質問が浮かんできた。男が口を開こうとしかけたとき、女の叫び声が割って入ってきた。
「ちょっと話聞きなさいよ!」
ベランダから外の様子を窺ってみると、体躯のいい男と派手な女がいた。男は派手女を構うことなくスタスタ歩いている。その後ろで女がギャーギャーと喚き散らしていた。
「あんた、一体誰なのよ!」
女の一方的な話からして、初対面のようだ。コツコツと苛立つヒールの音と近所迷惑なヒステリックな声を黙らせるために化け物に考慮して、最低限の声で俺たちの居場所を教えた。
「おいお前ら、うるさいぞ。とりあえずここに来てくれ。外に化け物がいるんだ!」
『化け物』に反応したのか異様な団地に恐れていたのか、派手女は走りづらそうなヒールをコツコツ鳴らして駆け寄ってきた。俺は再び苛々しながらベランダで待っていたが、ギャーギャーと騒がれて化け物に襲われるよりはマシだ。
玄関側が反対に向いているので、俺らの位置がわかりづらく遠回りなので、そのままベランダから入るように促した。ベランダに上る女を手伝うとき、街灯で照らされた大きな胸に少し顔がにやける。こんな状況でも男は覚醒するんだな、と自分がバカバカしく思えた。彼女に悟られないように慌てて横に向くと、さっきの男がもう一つの手すりからベランダに入っていた。
デケェ‼
男は筋肉質でガチガチの怖い奴だった。吊り上がった一重から覗く眼光はとてつもなく冷たい。暴力団か暴走族。そんな反社会的で生きている人たちのことは知らないが、恐らくこの男はそういった世界で生きているのだろう。
「とにかく中に入ってください。話はそれから」
「だれなの、あんた。中に入って変なことしたら許さないからね」
女は俺に向かって口を尖らせる。彼女も拉致されてこの場所に連れてこられたのか、威勢よく文句を吐いていたが身体はずっと震えていた。
ヤクザ男――見た目から判断しただけのあだ名――は口を開くことなく中にはいる。黙っているだけなのに、俺は威圧感を感じずにはいられない。
「お二人は、その……知り合いなんですか?」
「んなわけないでしょう。この男が私を拉致したのよ。私が寝ているところを突然、襲われたのよ。顔は暗くて見えなかったけど、きっとあいつらの手下だと思うわ。気を失って気づいたらこの不気味な場所にいたの。ほら、ほとんどわかっているんだから答えなさいよ。私をどうするつもりなのよ!」
ヤクザ男に恐れることなく、女は一方的に攻め立てた。だが、もし彼女の言うことが本当でも、リーマンと俺の二人でも敵う相手ではなさそうである。
「彼女や僕を拉致したんですか?」俺は男の顔色を窺って尋ねた。表情を崩さず、彼は首を振って否定する。もしかしてと思い、この男も拉致されたのかをそれとなく聞いてみる。今度は小さく頷いた。
どこから吹いたのか、隙間風が蝋燭の火を躍らせる。火に写し出された俺たちの影も、忙しなく揺らめく。それぞれがなにか考え込んでいるのだろうか、だれも口を開こうとしない。先ほどまでの威勢も過ぎ去って、派手女も黙り込んでいた。リーマンは化け物に襲われた後からずっと、怯えている。まるで映画やゲームの世界にいるような化け物が実際に目の前で人を襲っているのだ。襲われた当の本人はもっと恐ろしかっただろう。
この部屋に訪れたときのことを思い出した。
「そういえばこの部屋、甘い良い匂いがしてこないか?」
「ニオイ? なにいってるのよ、こんなきったない場所で。そんなことあるわけないじゃない! 臭いがないだけでもマシな方よ」
「匂わないだって? おい、からかうなよ。あんたも来たときから感じるだろ、表現できないけど、とっても甘いニオイがするって」
身を縮めて座っているリーマンに問いかけてみても、ニオイ自体しないという。どうやら、みんな同感らしい。どういうことだ。俺以外、鼻づまりということなのだろうか? どうしても納得がいかないので、匂いの出所を突き止めようと深く息を吸いこんだ。
襖で仕切られた別室から、漂ってきた匂いを捉えて引手を引くと、部屋の奥で物音がする。
「グシャッゴキッ……バリバリバリ……」
何かが動いていたが暗闇でよくわからない。蝋燭が漏らす僅かな明かりでなんとなく大きさの見当はつくが、猫の化け物ではなかった。知らずうちに止まっていた息を吐きだすと、ソイツは振り向いた。二つの赤い球が暗闇の中で浮いていた。咄嗟にそれが眼であるのに気づくと同時に俺は逃げ出した。本能かどうかは定かではなかったが、細胞レベルでそいつを拒んでいるような感じがした。
「ちょっとどうしたのよ⁉」
「うぎゃあああああ」
後ろの方でそのような声が聞こえたが、後ろを振り向くのも躊躇うほどに、数秒前の光景が俺の脳内に張り付いて、危険信号を出し続けていた。あいつはヤバい。赤い眼を見つめた瞬間に初めて人間に天敵がいたことを知る。そのような錯覚に囚われ、「逃げねば!」と竦んだ足の金縛りを解く。
あの部屋から離れるため、反対側の団地を目指す。どれも同じ建物だから逃げているのか戻っているのかわからなくなる。目の前まで辿り着いてようやく振り返れるほど、余裕を取り戻した。なんなんだここは。
明かりのつかない窓から外装にへばりついたコケ。ハッキリとせず切れかけた街灯にいつの時代の物かわからない時計塔。
時計塔? 時計の針を見ると頂点を指している。あれから三時間半もたっていたのか。時間の流れが早く感じられ、先ほどの危険信号も忘れていた。ちょうどそのとき、針が一つ進んだ。俺は思わず目を疑った。それまで数字もなく白いだけだった文字盤が、過ぎた一メモリ分、黒くなったのである。
「なに、悠長に突っ立ってんのよ!」
声が急に入ってきて、ふと我に返ると派手女が、走りづらそうにドレスの裾を持ち上げながら息をあげている。どうやら後を追って逃げてきたらしい。その後ろからヤクザ男が顔をゆがめて向かってくる。足を挫いたのか左足を引きずっている。後方を見てもリーマンの姿はなかった。俺は二人の後に続いて同じように部屋に上がり込んだ。
またいつ襲われるのかわからないのでカーテンと窓サッシを開けておく。そうしたことで心地いいほどの外気と、頼りない街灯の光が部屋に上がり込んできた。心なしか、鈴虫の音も聞こえてきそうな静けさだ。化け物などの現実的ではない状況にいるせいだろう。心のどこかで、そういった安心を感じたいのである。
「さっきの化け物は何なんだ?」息を整えつつ途切れながらに吐き出した。
「そんなこと知るわけないじゃない! 大体あんたが驚いて逃げるから、ほとんど見てないわよ。その男が対抗したみたいだけど、その足を見るようじゃダメだったみたいね」
ヤクザ男は壁にもたれかかっていて、放り出された男の足は、屈強そうな筋肉がえぐられていた。光に反射した傷跡は、脹脛から足首まで血がねっとりとしていた。
〈赤眼の化け物〉は俺が逃げた後で、次に目に入ったリーマンを標的にしたようだ。リーマンは化け物にすぐに襲われる。
ヤクザ男の信条というのか曲がったことが嫌いな節があるのか、襲われているリーマンを助けるために体を張って対抗したようだ。返り討ちに遭い、命からがら逃げてきたらしい。
俺は話の顛末を想像したところで、いざ訊こうとしても切り出せそうになかった。
いくらこの男が足を怪我したって、相手はヤクザだ。喧嘩未経験の俺が勝てるはずがない。
仮に、もし男が拳銃なんか持っていたら――。
「それで。あんた戦ったんでしょ。スーツの兄ちゃんはどうなったの? ここに逃げてこないってことは食べられちゃったのかしら」
俺が心の中でいろいろと迷っているうちに、派手女はズバズバと話を進めていた。
「ちょっと、あんたさっきからなんなのよ。一言も喋らないで、口がきけないんですかっ。いまの状況わかってんの? 人が化け物に殺されてんのよっ」
「おい、大きな声だすなよ」化け物に見つかりたくなかったので、彼女の言葉に歯止めをかけると、あんたが一番うるさいと、小さく反論して彼女は口を閉ざした。
一瞬むかついたが、気を取り直す。窓サッシのそばに立って外の様子を確認する。さっきの汗が引いて、ゾクリとする冷気とともに背中を撫でていく。
リーマンが殺された……赤眼の化け物はヤクザ男でも手に負えなかった。いくつもの激戦に手を貸したであろう屈強な身体は、確かに肉がえぐられていた。できることといえば、数分前の出来事を思い出すだけで希望なんて持てなかった。すっかり冷めきった体から血の気が引いていくような感覚に襲われ、立っている力も空しくその場に座り込んだ。
どのくらいそうしていたのだろう。ボーっとしていると、視界に四角い白が入ってきた。それはメモ用紙で、ヤクザ男が俺に差し出していた。読め、ということらしい。
「かのじょの言うとおりだ」…………はあ? 意味がわからない。何がだ。理解できず、そのようにヤクザ男に聞いてみると。再び用紙に何か書き込んでいる。何をふざけているのかと訝しく見ていると、また俺に用紙を差し出した。
「おれは言葉がしゃべれない」
この人はいきなり、何ふざけているのだ、と男の顔をまじまじと見つめる。そこには「笑ったら殺す」とでも言わんばかりの真剣な表情だった。
言葉が……喋れない……? ということは、ずっと押し黙っていたのは、そのせいなのか。勝手に寡黙な性分なのだろうと、決めつけていた。あの無表情に騙された。
〈彼女〉も〈俺〉という漢字も知らない人に俺は、喧嘩が弱いというだけで立場が弱いとは、なんと悲しいことだ。暴力が強いだけで、文章力も無ければ漢字も知らない。おまけに字が汚いとは、救えない人だ。俺の中で彼と自分自身に対するイメージをさらに悪くさせた。
男は俺からメモを取り上げると、また何か書き始める。
「さっきの化け物だが、アイツは刃物みたいな瓜をもっている。スーツの兄ちゃんに龍いかかった化け物は、逃げるおれらを全く気にせずに男に気をとられていた」
乱雑に書かれた汚い文章から内容を読み解くのに苦労する。おまけに誤字までもが堂々としていて、〈瓜〉は〈爪〉で、〈龍〉は〈襲〉と書きたかったのだろう。しかし、それを表情に出してしまうと、拳がとんでくるはずだ。
「それからあなたが隙をみて蹴りを入れたが、化け物は怯まずに鋭い爪に切り裂かれた。そういうことですね?」男のあとを引き継いで話した。彼は頷いた後で、またまた何かを書き込んでいる。それを見ると、俺と同じことが汚い字で書かれている。俺の説明が間違っているならともかく、当たっているのなら何をそう書き込むことがあるのだろう。もちろん表には出さないのだが、メモに書く間中、待っているのが腹立たしいので代弁したのに、これじゃあ意味がない。
ガチャガチャ……。
玄関の方でドアノブを回す音が冷えた部屋で響いた。誰だ、と慎重になって覗き穴から外を見ても誰もいない。隣の玄関ドアが見えるだけ。ゆっくりとカギを回して開錠する。だが、そこからいくら気を遣って音を立てまいとしても、ぎいぎいとドアが軋む。金属特有の冷たいドアノブを握る手に汗が一気に噴き出した。思い切って開いてみたが、そこには誰もいない。
カギを閉めて居間に戻ってみると、ヤクザ男が壁にもたれて立っていた。ベランダの方を眺めている。いつの間にかカーテンが閉まっている。おそらく彼が閉めたのだろう。
「玄関には誰もいなかったですが、ベランダがどうかしたんですか」
「さっき、人の気配がしたのよ」外の方に顔を向けた派手女が、不安を隠せず応えた。
俺は男とは反対の位置につき、壁に沿って徐々に窓に近づく。
あの化け物か? だとすればいま襲われたら逃げ切れない……全滅かもしれない。身を守るために玄関の鍵をかけたことが、逆に俺たちの生死を左右するかもしれない状況を作り出すとは。
腹を括って一気にカーテンを開ける。
「ああっ」
そこにいたのは、化け物に殺されたはずのリーマンがベランダの格子に手をかけていた。リーマンは俺の声にびっくりして、上りかけていた格子からずり落ちた。俺は幻でも見ているのだろうか? 考えてみても、すぐ下の方で「痛ってぇ」と確かにヘタレのリーマンの声がする。どうやら現実のようだ。だとすると俺たちが逃げた後、彼はどうやって逃げてきたのか……とりあえず、いまは下にいるリーマンを部屋で保護するのが先だ。