つまらない人生だったと思うんだ。
トラックが突っ込んで来ていた。それを、何も考えずに見つめる。道行く人の悲鳴、怒号が聞こえた。それから、助けようと走り出す人が視界の隅に映る。別に避けることも出来た。それほど運動神経が悪いわけではないし、驚いて動けないということもなかったから。でも、避けなかった。それは何故か。単純な話だ、俺は死にたかったのだ。
この世に生を受けて十八年が過ぎた。高校も卒業を間近に控え、対して給料も良くない中小企業に就職が決まっていた。十八年だ、十八年も生きた。さすがに産まれてすぐの記憶は無いが、幼稚園頃の記憶ならうっすらと残っている。赤いジャングルジムで遊んで、緑色のブランコに乗って。桃色の服を着た女の子といつも遊んでいた。青色の筆箱は、結局小学校になっても使い続けた。
小学校に上がって、初めてバスケットボールを見た。中学校の部活でしているのを見ただけだったが、幼い心は簡単に惹かれた。母親に言うと、最後まで続けることを条件に(小学校のバスケチームは六年生で卒業だったのだ)許可して貰えて、すぐに習い始めた。黒色のバッシュもオレンジ色の大きなボールも新鮮で、楽しみだったバスケが出来る喜びしか無かった。楽しくて楽しくて、家でもずっと練習していた。バンッバンッとボールが床を跳ねる音が好きだった。キュッキュッとバッシュの擦れる音が好きだった。
中学校に上がっても、当たり前のようにバスケ部に入った。顧問は厳しかったし、練習も辛かったけどただ楽しかった。そう、楽しかったはずなんだ。成長期なのに全く背は伸びなくて、レギュラーになれなかったけれどそれでも練習が好きだったから。勉強は苦手だったけど人並みには出来たし、何も不満はないはずだった。
ただいつの間にか、死について考えるようになっていた。
小学校低学年の頃、大好きだった先輩たちが卒業してしまって、なんだか一気に楽しく無くなってしまった。もちろん、それだけなら辞めようとは思わない。そんなのただの我が儘だと、当時の俺ですら分かっていた。他のチームから色々な子が移ってきて、しかもその子たちは妙に上手かった。俺なんかより、ずっと。だから俺は万年ベンチ温め役だった。監督も、それまでただ楽しくやろうって感じだったのが一気に厳しくなった。ミスしたら走らされる。怖い、嫌だ。そんな思いが俺に芽生え始めていた。殺伐としたチームの中で笑っているのは、俺だけだった。小学生の精神力はそれほど強くない。だから、辞めたいって親に溢した。父親は何も言わなかったけれど、母親は激怒した。両親は仕事が忙しくて練習にも試合にもほとんど来なかったから、チームの様子などは何も知らなかったんだ。泣きながら辞めたいって言っても怒られたから、終いには諦めることにした。
そんなある日、本当に何時だったか思い出せない。ただ俺は昔から本が好きで、意外って言われること多いけど結構読んでた。その本の中で、人が死ぬ描写があった。もちろん、死ぬことは辛いことだと知っていた。それでも、死んだら、終わりなんだって妙にはっきりと俺の中に残った。それから、俺は毎日のように死にたいと思いながら生きてきた。
小学生の途中から急に、得意だった国語が分からなくなった。それまでの解き方は、主人公の気持ちを一度自分に置き換えるという物だったのだが、急に何も分からなくなってしまった。何を考えているのか分からない、何を聞かれているのか分からない。感情が分からない、思考が分からない。想いが分からない、気持ちが分からない。結果、成績はどんどん落ちていった。いま考えれば、当然だったのかもしれない。一度自分に置き換える、ということは自分の感情とする、ということなのだから。常に死にたいと思っていた俺に、それが出来るはずがないのだ。分からない分からないと頭を抱える俺に、母は「可笑しな子ねぇ」と溢すばかりだった。可笑しな子、そう俺は可笑しな子だった。死にたいと思うのも、人の感情が分からないのも、可笑しな子だからだ。
結局、可笑しな子のまま中学生になった。バスケ部に入部したのは、俺の周りの人はまだ俺がバスケ好きだと思っていたから。俺は確かに楽しんでいた。楽しいという感情すら、分からなくなっていたけれど。歪な思いを抱えて育った俺は歪な塊のようになった。友人はたくさん出来た。白色の上履きが目に眩しいあいつと、紫色の手提げを毎日持ってきていたあいつ。部員の中で特に親しかったのは、黄緑色の少し変わった鞄を持ってくるあいつだ。どれも名前は、思い出せないけれど。桃色が好きだった女子とは、疎遠になってしまった。中学生なんてそんなものだろう。
田舎道、一人で自転車を漕いでいてよく思っていた。この橋から川に落ちたら、死ねるだろうか。トラックが俺の横を通り過ぎたとき、轢いてくれないだろうか。試合で電車に乗るためにホームで待っているとき、今に風が吹いて俺を線路に叩き落としてくれないだろうか。どれも結局、実践なんて出来なかったけど。
それは高校生になっても同じだった。地元の商業高校に進学した俺は、元から進学する気なんてさらさらなかった。相変わらず自分は可笑しな子だと自覚していたし、死にたいと常日頃から思っていた。さっさと無難なところに就職を決めて、残りの高校生活を変わらず過ごしていた。変わったことなんて、歳と身長くらいだ。
さて、話が長くなってしまった。走馬灯のように流れていく記憶を追っている内にトラックはもう目の前だ。そう言えば、親より先に死ぬことは最大の親不孝なんだっけ。…まあ、いい。親不孝なんて数えきれないほどしている。一つ二つ増えたところで何も変わらない。目を閉じて、その時を待つ。耐え難い痛みと衝撃を感じた瞬間にはもう、意識は無かった。