十話「小さい頃の私は、それはもう人形のように可愛かったものだ」
体育祭を終えてから息つく暇もなく期末テストを迎え、学校中てんやわんやだった七月。学生は勉強、教師は仕事に忙殺される日々を送っていると、いつの間にか夏休みを迎えていた。
音速で終わりを迎えた七月に思いを馳せる今日は八月の半ば────お盆休みだ。
夏休みに入ってからでも教師は仕事があるため、私にとってはゴールデンウィーク以来の大型連休ということになる。
そんなわけで、この休みは寝て過ごすぞー、と気合いを入れていた私であったが現実はそうそう上手くいくはずもなく────────実家から「帰ってこい」と招集令がかけられた。
◇
「ただいまー」
「あれ、さや姉じゃん。おひさー」
「おひさー、じゃないよ彩香ちゃん。パパとママは?」
「パパは会社に呼び出されて出掛けてて、ママはリビングでぐーたらしてる」
ということで帰ってまいりました実家です。
サイドポニーの茶髪を揺らしながら私を出迎えたのは妹の彩香ちゃん。私と違ってスラリと長い手足は小麦色によく焼けている。美味しそう。
リビングに通してもらうと、エアコンの効いた部屋で寝転がる幼女────────もといママがいた。
「おひゃえり、さやひゃん!」
「ただいまママ……何食べてるの?」
「ごくんっ……これね~、いいでしょ~。新しくできた美人ママ友から貰っちゃったの! とっても高いチョコレートなの!」
「へぇ」
口をもごもごとリスのように動かした後、茶髪のポニーテールをぴょんぴょん揺らし、瞳を輝かせて詰め寄ってくるママ。自慢げに話すその姿は四十半ばのそれではない。まあ、衰えを知らぬ美貌のお陰もあって不自然ではないけど。いや、四十を超えて幼女で押し通せそうな若さは不自然の権化か。
「んー、さや姉とママが並ぶと小学生の戯れみたいでイイネ!」
人差し指と親指でフレームを作った彩香ちゃんが軽い調子で茶々を入れてくる。カメラマンよろしく上から下にフレームを動かす彩香ちゃんは「きゃわぃ~」と口笛を吹き、したり顔で頷いていた。
姉として何か言い返しておこう。
「……ロリコン」
「あっはっは~! それパパに言ってあげなよ!」
「だ、ダメだよ! 優さんにロリコンって言ったら泣いちゃうよ!」
ママが涙ながらに訴える。優さんというのはパパの名前だ。パパは結婚の際に知人友人その他もろもろからロリコン扱いされてトラウマになってしまったらしい。だからパパをロリコン呼ばわりするのは我が家の禁忌である。でも彩香ちゃんとパパが喧嘩したときは、彩香ちゃんは平気な顔をして「ロリコン野郎ッ!」って罵倒しているけどね。パパはそれでいつも負けるから可哀そう。
さて、約五か月ぶりの再会を果たした家族と適当なところで会話を打ち切り、自室へと荷物を置きに行く。短い帰省だから持ってきているものは仕事用のパソコンとお気に入りの夏服数着のみ。実を言うと実家から私の住むアパートまでは僅か五駅程度しか離れていない。忘れ物があっても取りに戻ればいいだけだ。
「せっかく帰ってきたし、部屋の掃除でもしようかな」
長らく手入れされていなかったのか、少々埃が目立つ。また、ここを出ていく時はかなりのハードスケジュールだったため、本棚や引き出しの中を引っ掻き回した覚えがある。ついでに整理整頓もしておこう。
掃除を始めてから一時間がたった頃、私は一つのアルバムとにらめっこをしていた。
タイトルは「沙耶香 八〜十歳」。
こんなものが私の書棚に隠されていたとは。アルバム類はパパの書斎に保管されていた記憶があったけど、何かの拍子に紛れ込んでしまったのだろう。
それにしても、八歳から十歳の時の記録か……覚えていない。断片的な記憶だと、近所の公園で遊んでいたような、いないような。
このアルバムは私にとってまさしくパンドラボックス……開くために少々勇気を要する。
「ええい、ままよ!」
表紙を勢いよく捲ると、若干色あせて時代を感じさせるカラー写真が現れた。
「あ、普通に可愛い」
童女時代の私は今よりもさらに小さく、よく「人形さんみたいだね」なんて近所の人から言われていたことを思い出した。成人した今でも同じようなことを言われるが、子供の時の方が愛嬌があって可愛い。自画自賛しちゃうくらいにはね。
面白いものを見つけた、とアルバムを持ってリビングへと戻る。掃除は一時中断ということで。
「わぁ〜、さやちゃんも、あやちゃんも可愛い〜!!」
「昔は私より彩香ちゃんの方が小さかったんだね」
「当たり前じゃん……」
ママと妹と肩を並べてアルバムに見入る。私がメインのアルバムのようだが、大体の写真は彩香ちゃんとのツーショットだ。
昔はお姉ちゃんに甘えてくれるいい子だったのに……。
「さや姉から『失礼の波動』を感じる」
彩香ちゃんはアーモンド型の綺麗な目を細めてジトっとこちらを睨みつけてくる。勘のいい妹め。
私は無視を決め込み、誤魔化すようにペラペラとページを捲っていく。
その繰り手は、とある見開きで止まることとなった。
「ん、何これ」
私が手を止めたページ。そこに写っていたのは二人の少女。
ヒマワリのように眩しい笑顔でピースをする私と、はにかみながら力のないピースをする黒髪の少女。私がこの写真で十歳だとすると、この女の子は四、五歳くらいだろうか。
「この黒髪の子、彩香ちゃんじゃないよね」
「まっさか〜、私こんなにお淑やかじゃないでしょ」
「確かに」
「たははー、そんなにあっさり肯定するんかーい!」
写真の中の娘は美しい黒髪にパッチリした大きな瞳、鼻梁の通った美しい顔立ち。大人しそうな表情は、ともすれば物憂げとも汲み取れる。小さい頃から元気の塊だった彩花ちゃんとは似ても似つかぬ別人だろう。
「アレ、じゃあこの子は誰?」
「さやちゃん覚えてないの?」
「えっ、さや姉本当に記憶にないの?」
「え、逆に知ってるの? 知らないの私だけ?」
ママと彩香ちゃんは一様に驚いたような顔をする。どうやらこの子のことを知らないのは私だけらしい。
「小さい頃、夏休みの間だけだけど、私も交えて三人でいっぱい遊んだじゃん」
「ぅーん……」
「何その自信ありませんみたいな返事……ってことは本当に覚えてないんだ」
彩香ちゃんは困ったような怒ったような気難しい顔をした後、しょうがないと一息吐いて、私の目を見据えてこう言った。
「この子の名前は『しーちゃん』だよ。お婆ちゃん家の近くの公園で出来た友達」
「しー、ちゃん」
どこかで聞き覚えがあるような。そんな懐かしい響き。
しーちゃん、しーちゃん、と何度か口の中で反芻してみる。何か取っ掛りがあれば、すぐにでも手繰り寄せられそうな存在。
────────たぶん、私が忘れてはいけなかった大切な人。
「ま、十五年も経ってるし、さや姉が忘れちゃうのも仕方ないかな」
「もう少しで思い出せそうな気がするんだけど……!」
結局その日、記憶の靄が晴れることはなかった。
◇
「おばあちゃんの家に行くの?」
「ああ、墓参りのついでに顔を出しておこう。暫く会っていないだろう」
「ほぇー、なるほど」
帰ってきたパパから告げられた言葉に私は素っ頓狂な声をあげた。このお盆休みにわざわざ招集をかけた理由がこれという訳だ。
ということは────────
しーちゃん。
折よく私にチャンスが降って湧いた。
いっそ運命的でもあるこのタイミング。利用しないわけがない。
時間が許してくれれば、探しに行こう。
私にとって、大切な宝物だったはずの思い出を。
「よし、頑張るぞ!」
「お、おいおい、墓参りに行くだけだぞ?」
闘志を燃やす私を、パパはどうどうと宥めるのだった。




