栞の行方
「これ、想像以上に面白かったよ。ページ数多いから……最初の方は結構大変だったけど」
「そう? 私は最初から最後まで面白かったと思うけどな。だってほら、あたりまえのことだけど最初の内容が後半に繋がってるんだから」
「それもそうだけど、やっぱり半分を超えた辺りからの展開がいい。だって前半の方を読んでるときは、本を閉じては休憩しての繰り返しだったけど後半からはノンストップだったもん。お菓子をつまむ手も止まってた」
「お菓子食べながら本読んでたの? 部活で帰りが遅いんだから本を読んだのは夜でしょ、太るよ」
「失礼な、太らないよ私は。なんてったって部活をやってるからね。カロリーなんて気にしませーん」
「そういうのホント羨ましいよ」
放課後の図書室には滅多に人が来ないので、貸出返却をするカウンターに座る図書委員とその友人らしき人が二人で話をしていると、一人でイスに座って本を読んでいる俺が必然的にその会話を盗み聞きしているような感じになってしまう。これは仕方がない。俺に罪はないから二人とも誤解しないように。
そんなことを考えてみたけども、もちろん俺は二人の会話を盗み聞きしたくてこの図書室に来たわけじゃない。実のところ、放課後始まって早々、部活に行きたくないのでここで本を読みながら時間を潰しているというわけだ。
「てことで、これ返却ね」
カウンターに置いた深緑のハードカバーをした本に図書委員の娘がバーコードリーダーを当てて、カウンターの端に置く。
「はいオッケー」
「あっ、自分でその本置いてくるよ。あった場所はちゃんと覚えてるから心配しないで」
「ごめんね、助かるよ。それも図書委員の仕事なんだけど」
さっきの本を手に取ったその女子は部活をやっているというだけあってか、活発さを表すかのようにポニーテールを揺らしながら俺の横を通り過ぎて行った。
知らない人な上に、上履きに赤いラインが入っていることからして先輩なので、俺が話しかけられるわけないのだが、それが俺の存在に気づいていないように思えてしまい、自分の存在感が本格的に心配になってくる。
透明人間化しているであろう俺を見向きもせずに、カウンターに取って返したポニテの女の子は「じゃ、私今から部活だから」と手を軽く上げて、カウンターの友人に別れを告げると図書室を出て行った。
数十分後、読んでいる物語が佳境へと続く伏線を匂わせるような部分に差し掛かってきたころ、一人の女子が入ってきた。一号館の四階にあるこの図書室まで走ってきたようで息を荒げている。
座る俺の横を、急ぎ足で通り過ぎて行ったその女子をそれとなく目で追うと、奥の棚から一冊の本を取り出した。そしてその場に片膝をついて、やや乱暴にも思える動作でページをめくっていく。一通りめくり終わると、今度は本の後半あたりを重点的に、さっきに比べてかなり慎重で緩慢な仕草でめくり始めた。ある程度の厚みに深緑をしたハードカバー。数十分前にポニテの女の子が返却したばかりのあの本によく似ている。
うなだれるようにして本を閉じたその女子はいきなり立ち上がってこっちを見た。俺は慌て視線を逸らす。俺が見ていたことにはきっと気づいただろうけどそんなことに構うこともなく、俺を通り過ぎて早足でカウンターまで向かい図書委員の娘の前に立った。
少し上がった息を整えて平静を装い、半ば問いただすような口調で訊いた。
「私が借りた本、誰かに借りられましたか」
図書委員の娘は気圧されてカウンターから少し距離を取る。
「えぇ……と、借りた本と言われても……」
「『鈍色の砂』です。結構厚くて緑色のハードカバーの」
「それならさっき返されて本棚に……」
俺からはカウンターに詰め寄る女子の表情は見えないが、動揺の色を見せる図書委員の娘的にその女子はかなり真剣な形相なんだろう。
「その人、青くて薄い長方形の布でできた栞を持ってませんでしたか」
「栞……? 持ってなかったと思うけど、どうかしたの?」
「ないんです。私の栞が」
「もしかして、前にその本を借りた人が盗んだと疑ってる?」
「まあ、今のところは。なんて名前の人か分かりますか、その人」
一歩下がって話していた図書委員の娘はイスをカウンターに近づけて目の前の女子に断言する。
「その人は、人の物を盗むような人じゃない。これは私が保証する」
図書の娘の表情は怒りを含んでいるようには見えない。むしろ柔和に微笑んだ気さえした。でも、その眼光からは正面の女子を射抜いて押し鎮めるような、そんな説得力を感じた。そして今度は栞を探す女子が逆に一歩後ずさりそうになる。
会話の中から感じる図書委員の娘とポニテをしたあの女の子との信頼関係。友情っていいなと思いながらも、もし二人がグルだったらと考えてしまう俺は性格が歪んでいるのかもしれない。
「それじゃ……もし、栞が見つかったら取っておいてください。お願いします」
結局、押し負けてしまったような状況に立たされたその女子は、不満そうに会釈をして図書室から出ていった。
二人の会話があったせいかさらに自分の存在感が薄くなってきているように感じるのは俺だけだろうか。なんか、段々居た堪れなくなってきた。
たしかに、そろそろ部活に行かないと本格的にまずいことになりそうだし、本もちょうど内容的にキリがいいので、ポニテの女の子みたく俺も部活に行くとするか。
元あった棚に本を戻して、ため息をつく。
あの栞を探していた女子がさっき向かって行った棚を一瞥して、傍目八目とはまさしくこれだなと思いながら、その奥の本棚へと向かった。
深緑のハードカバーでやや厚みのあるその本は、ちょうど目の高さのところに入っていた。俺はそれを手に取り、適当に真ん中あたりで開いてみる。ページを左に送っていき、
―――青い栞を取り出した。
取り出したはいいけど、なんて説明してあの図書委員の娘に渡そうか。……と、考えているこの瞬間、現在進行形でカウンターからの視線をひしひしと感じるので、なんだか見咎められているような気分になってくる。
とはいえ、ここで他人の栞を持ったまま立ち尽くしている方が怪しいので、栞を見つけることができた経緯をどう説明するか考えながら、栞を貸出返却カウンターまで持って行った。
「これ、そこに落ちてましたよ」
「落ちていた? 私は本から取り出したように見えたんけど」
そうだよね。さすがに見てたよね。白々しい嘘だよね。
「あっ、いや、心配しないで。いくら君が手品みたいに本から栞を出したといっても、べつに君を犯人だと疑ったりはしてないから」
「それなら、これ、あの女の子に渡しておいてくれませんか」
「たぶんまた来ると思うから、それはいいけど……どうして分かったの、この栞の場所が」
図書委員の娘は受け取った栞を指で挟んで矯めつ眇めつしてから、俺に視線を移して栞をひらひらと振る。
「さっきの会話の流れ的に、何となくです」
「そこを詳しく教えてくれない? さっきの子がまた来たとき説明したいし」
説明とは言ったが、ポニテの女の子を慕っていた彼女にとって、栞泥棒という濡れ衣を着せたあの女子をギャフンと言わせたいのだろう。
「まあ、こうして栞があるので、栞を盗んだ泥棒はいないわけですけど、加害者なら一応います」
「それっていったい誰?」
「名前を知らないんですけど、あのポニーテールの先輩です」
目の前の彼女は一瞬だけ唖然とする。反芻するように数回うなずいてから、栞を置いて目線で更なる説明を俺に促した。
「あの先輩は、栞を盗んではいませんけど、もとから挟まっていたこの栞を使ってたんだと思います」
「どうして、そう言えるの? 美咲はそんなこと言ってた?」
「えぇ……美咲先輩は、本の後半の方はいっきに読み切ったような口振りでした。だから栞は前半の方に挟んだままです。対して、栞を探していたさっきの女子は本を開いて栞を探すとき、全体的にざっとページを開いてみてから、栞を最後あたりのページに挟んだと記憶しているのか、本の最後らへんを集中的に探していました。たぶんあの女子は後半の方を一気に読んだわけではなく何回かに分けて読んだんだと思います」
「栞を挟んであるのが最後の方じゃなくて、前半の方に移動してることから言えるわけか。それでさっきの女の子は栞をあの本から見つけられなかった、と……」
半信半疑なのか目の前で考え込むように俯く図書委員の娘。数秒の黙考の末、まだ納得しきれていないような表情で顔を上げた。
「でもそれっておかしいよ。だって栞が挟まってるのであれば、全ページをざっと見た時に気づくはずだし」
「栞の挟まっているページがざっとめくったくらいだったら開かないようになっていたんです」
俺の説明に図書委員の娘はさらに状況を理解できなくなったようで、唇を歪めて困惑の色を露わにする。
「美咲先輩は夜にお菓子を食べながら本を読んでいたと言ってましたよね。きっとそのお菓子の食べかすとか油を指に付けたままページをめくったので、ページとページがくっついてしまったんです」
事実、さっき栞を取り出す時にページ同士を剥がすような感覚が微かにあった。美咲先輩も故意でしたわけではないだろうが、美咲先輩が加害者であることには変わりない。まあ、咎めるようなことではないけども。
「そういうことだったか。悪かったね、説明させちゃって」
合点がいったようで、図書委員の娘は嬉しそうに笑う。こういう地味そうな子のふっと緩んだ笑顔は結構可愛い。
「でも、こうして説明できるってことは、説明できるくらい私たちの会話を盗み聞きしてたわけだよね。君には気を付けないと」
冗談めかしたその口調に俺は少しだけ安堵する。実質的に盗み聞きをしてしまっていた俺のことを不審には思っていないみたいだ。
「それじゃ、俺はこれから部活なんで」
「今から? 結構遅いんだね。なんの部活に入ってるの?」
「写真部で―――」
「ここにいたんだねっ、葵くん」
いきなり開いた図書室のドアからよく知っている先輩が現れる。……写真部の加賀先輩だ。
「あれ? 加賀ちゃん。図書室に来るなんてめずらしい」
「そうだね、図書室に来るのは久しぶりだよ。今週は詩織ちゃんが図書当番なんだ」
毎度思うけど、加賀先輩は顔が広い。おそらく顔見知り程度の間柄も含めれば、この高校で加賀先輩を知らないという人の方が少数派だろう。目の前の図書委員の娘、詩織先輩とも砕けた口調からして、友人と言えるほどの仲らしい。
加賀先輩は図書室の中を見回してから、俺と詩織先輩に一度ずつ視線を送り、一歩後ずさる。
「もしかして私、二人の時間に水を差しちゃった? それだったらすぐに退散するよ。放課後の図書室に男女二人きり。逢瀬の邪魔者にはなりたくないからね」
――ガタッ、バンッ!
「ちちちちちち違うよ、全然そんな状況じゃない! こんな盗み聞ぎ魔となんかっ! ありえない! 絶対にない!」
勢いよく詩織先輩の後方にイスが滑っていき、倒れる。先輩は直立したまま、顔を真っ赤にしてぶんぶんと首を振り懸命に否定の意を示し始めた。盗み聞き魔という単語が聞こえた気がするが、あれはきっと動揺による一時的な錯乱だ。うん、そういう事にしておこう。
「ごめん、ごめん。てっきりそうかなーって思っちゃって」
加賀先輩は悪戯の成功に満足したようで、にやつきながらも詩織先輩を宥めるように言葉をかける。
「まったく、加賀ちゃんはたまにそういうこと言うからなぁ。もっと慎みとか恥じらいとかないの」
「本当にごめんね。ちょっとした冗談だよ。そういう関係じゃないのなら私は安心」
加賀先輩は意味深な視線を俺に送って、逸らす。とてもわざとらしい。
「それじゃ、今から部活だから葵くん連れてくね」
「うん、じゃあね。それと、葵くん」
詩織先輩は俺に向き直る。
「本当に助かったよ。ありがとう」
その言葉に、俺は軽い会釈を返して、図書室を出た。
読んでくださりありがとうございました。
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これを書きながら、ポニテの女の子と図書委員の娘の百合展開を妄想できて楽しかったです。