Loup-garou
拙作をお読み頂くに当たって、手元に辞書を置いておくことをお薦め致します。
辞書使わずに読み切れたら、すげぇわ。
というわけで、読みにくいとは思いますが、どうぞお手柔らかに。
この街ネウロイでは年に一度、約七日間、住民全員が一歩たりとも自宅から出ないことがある。それは自治体からの勧告だけが理由ではない。そもそもこの勧告も、住民が自主的に外出をしない理由の前には些細なものだった。
この時期に外に足を踏み出せばどうなってしまうのか、それを見た者はいない。ただ、了然と、どうなってしまったのか、それを悟るのみである。怯え、恐れ、ひとえに彼らがいなくなるのを祈ることしかできない。何処からか現れる彼らが立ち去るのを、ただ一心に願うことしかできない。家屋内が絶対的に安全だと、そう信じ込んで閉じ籠もる。目を瞑り、耳を塞ぎ、時が過ぎるのを待ち続ける。
ずっとこうしているのが果たして正しいのか否か、という疑問は、とうの昔に放棄されてしまった。勇んで抗ったその末路は、想像に難くない。街の中に蔓延る彼らは、最早我が物顔で跳梁跋扈し、住民を脅かしている。この現状を打破する為の何かをも持ち合わせていない住民は、皆一様にして諦め切っていたのだった。
「……」
彼、リュカオンもその内の一人だった。
今よりもまだ彼が幼かった頃、友人達とこの時期に街を出歩こうとしたことがあった。好奇心旺盛な子供にとっては咎められようもない、ごく自然な欲求ではあっただろう。しかし、実際に彼らと対峙し、睨まれた時、幼年期の彼は己の愚行を激しく悔いた。悔いて、一目散に逃げ出した。必死に家に帰り着き、安堵したところで、彼はようやく友人達を思い出した。そして、凄まじい膂力を誇る彼らから無事逃げおおせたのは、その友人達の犠牲あってこそのものだということを思い知った。彼らの放つ威圧を受け、脚が震えた。恐ろしく、鋭い彼らの眼光に射竦められた時の、あの戦慄が蘇った。そして、声を殺して漣々と噎び泣いた。
扉一枚隔てたその向こう側に、彼らが徘徊している。彼は押し黙って、災禍が通り過ぎるのを切望した。彼らにとっては、こんな木製の扉を引き裂くのは容易だ。彼が背をつけているこの扉が、未だ扉たりえているのは、彼らが貪欲に無差別な略奪や陵辱を目的としていないためである。では、彼らは何の為にネウロイの街を彷徨うのか。それは、リュカオンを始めとする住民の中でも、知る者は一人としていなかった。
彼らが通過し、胸を撫で下ろしたのも束の間、隣家から絹を裂くような悲鳴が響き渡った。頭の中に、阿鼻叫喚の様相が明瞭に浮かんでくる。彼は膝を抱え、十字を切った。そうして目を瞑り、耳を塞ぎ、逃避するのだ。次に残虐な殺戮の餌食となるのは自分だと、悪魔が嘲笑う。
彼らに襲われた人は、四肢を捥がれ、腹を切り開かれ、腸を剥き出され、血を啜られる。
この惨酷極まりない殺人は、殺人を殺人と思わず、彼らが本能的に単なる遊興として捉えているが故に惹起する。運動能力は我々を圧倒的に凌駕しており、腕節で挑むなど愚の骨頂である。次いで知能も侮れず、言葉のような規則性のある音律を用い意思疎通を図って、効率的に葬らんとする。無為無策に逃げ惑えば、袋小路に追い込まれ、大通りでは囲まれる。攪乱を試みても執拗に追随してくる。猟銃で彼らを迎え撃とうとした者もいた。しかし彼らは、器用に射線から逃れて間合いを詰め、やがてその者を惨殺の対象として痛めつけ、屠るのである。
いつの間にか隣家は静まり返っていた。リュカオンは戦々恐々としながらも、物音を立てないよう細心の注意を払いながら立ち上がる。台所の傍にある窓から隣家の様子が窺える。リュカオンは自室から台所に移動した。彼らは非常に獰猛かつ好戦的である。一度でも視界に映ってしまえば、それは死の淵に立たされたも同然だと覚悟しなければならない。そして彼は、警戒を念頭に置いていたが故に、油断していた。もしくは、浅慮だったとでも言おうか。
「――ッ!」
自らを真紅の返り血で染め、爛々とした月色の瞳がこちらの存在を捉えた。熟考すれば、いや、僅かでも思案すれば、こちらから見えるということが即ち、あちらからも見えるということだと気付けたはずだ。畢竟、確認するという行為自体が、他ならない、愚行だったというわけだ。
己の短慮を慙愧の念で押し潰し、己の浅薄を瞋恚の炎で焼き尽くす。硝子窓越しでも、その純粋な殺気が彼の背筋を凍らせるのには充分だった。
すぐさま窓から離れ、理知を総動員して安全で確実な次の手を練り上げる。瞬間、硝子の破砕音が静寂と緊迫した空気を切り裂いた。彼らの殺意が、さながら硝子の破片の如く背中に突き刺さる。それだけで喉が渇き息が詰まる。しかし、湧き出す生存欲求の暴れるがまま、それとは対照に奇妙なほど冴え渡る頭脳の導くがまま、ただひたすらに、作戦の成就と、存亡を賭けて、その因子を摑み取っていく。
彼がやがて辿り着くは、自宅の廊下の行き止まりだった。息を荒げ、全身から滝の汗が噴き出す。廊下の幅は大柄な男性の肩幅ほどで、彼らは一列に並んでリュカオンの元に躙り寄って来る。
彼らの瞳は、澄明な情動が刻み付けられ、深々とした激情を湛え、抑え難い欲望を孕んでいた。この状況でさえも美しく感じる、その炯々とした月色の輝きに吸い込まれそうになる。神秘をすら内包しているかのようなその目が僅か細められるのと、彼が半身になって腰を入れるのとは、ほぼ同時だった。
驚異的な跳躍力を以てして彼の喉笛を噛み千切らんとするその肉迫に、一瞬怖気が走る。背後には壁。逃げ場など何処にもない。
リュカオンは腰を据えたまま、回収しておいた得物を力任せに振り抜いた。頭部にそれが直撃し、目の前に崩れ落ちる。滔々と傷口から血液が流れ出し、床が紅く染まっていく。身体は力無く痙攣していたが、やがて動かなくなった。
リュカオンは、今し方敵の脳天を穿った凶器に目をやった。この行き止まりに来る前に父の部屋から持ち出した、今や血で鈍く輝くツルハシは、威力、長さ共に申し分無く、彼らの迎撃に有効であるという予想、それ以上に役立った。
そして、この行き止まりに来たのは、単純に逃げてその先だった、というわけではなく、作戦の内である。それは背水の陣に近いだろう。背後には壁があるため前方に意識を傾倒でき、廊下の幅の狭きは各個撃破の面で容易になる。
だが、彼ら個体それぞれが人を殺すのに長けている以上、慢心はその身を滅ぼすことに繋がるだろう。それでもまだ、思考が現実に追いついていないというか、目の前の景色が半ば信じられなかった。
眼下に横たわる肉塊に目を落とす。これは、確かに自分がやった。これと同じように、残りも排除できるだろうか、それだけが、甚だ疑問だった。
仲間が斃れ、彼らはより一層敵意を増大させていく。次が亡骸を飛び越えて襲いかかってきたのは、忘我の境地にあった彼が自我を取り戻した瞬間だった。
反射的に両手で握ったツルハシを振り上げ、顎と頭を縫い付ける。それだけで息の根を止め、足元で死体が重なる。次は右の眼窩に切っ先を突き立て、その次は喉笛を貫き、その次は口腔内の奥深くに突き刺し、見る間に死体の山が築かれる。
脅威全てを鏖殺した彼は、念の為に、死体の心臓の場所をツルハシで突き通していく。全てが死んでいるのを確認してから、彼はようやく緊張を解いた。
生き残れたのだ。その実感が、徐々に彼の身を満たしていく。生の実感、というものがかくも充足感に溢れたものであるとは、思いもしなかった。少なくとも、部屋に閉じ籠もり、逃げていた時の怯懦な自分とは、一線を画した存在になれたと思えた。今なら、今までできなかったことが、成し遂げられるような気がする。彼は、血に濡れたツルハシを眺めながら、そう思った。
その時、壁から異質な音が聞こえた。まるで、硬い物に亀裂が走るような。その音は、右側から、段々と大きくなっている。
咄嗟に身体が動いたのは僥倖だっただろう。もしそうでなければ彼は、突如壁を破壊して現れた彼らの餌食となっていただろうから。
なんということだろう。彼らの力が、家の壁を壊すほどまでに発達していようとは。
現れた彼らは、闇の中から月色の煌めきをこちらに向ける。彼らは瓦礫を踏み砕き、隙を窺うように姿勢を低く下げる。かと思うと、迫り上げるようにして、彼らの凶器がリュカオンの鼻先を掠めた。息を呑みつつも、苦し紛れの一撃を放つ。が、すんでの所で躱されてしまい、距離を取られる。こちらから突っ込もうと気持ちが逸るが、ただでさえ俊敏な相手に自分の速度も加えてしまえば、反応できる自信がない。むしろ、飛びかかってくる彼らを、後退しつつ迎撃するのが最もやりやすい手だった。
現在、行き止まりだった場所は彼らが陣取り、リュカオンは家の内部に向かう廊下にある。この位置なら前述の戦法が使えるが、背後から別の群れが奇襲してくる可能性も考慮しなければ、その先に待つのは惨たらしい死のみだ。しかも、彼らが壁を破壊できるとなると、壁に背をつけて殺す戦法は意味を為さなくなる。
万事休すというのはこういう状態を指すのだろうか。このままでは、先人と同じように屠殺されるだけになってしまう。唯一の救いは、屋内が、彼らが持ち前の連帯を遺憾なく発揮できるほどの広さを有していないことである。狭ければ、数での圧倒や翻弄もままならず、多少の利はこちらに傾いてくるはずである。万が一、壁を悉く破壊されれば、それこそ詰みである。そうなる前に手を打たねばなるまい。早急に彼らを始末しなければ、こちらの身が危ないのだ。そして、またどこかで安全を確保すれば、このような危険極まりない戦いに身を投じずに済む。
彼は両手で握ったツルハシを中段に構える。彼らは両手に有した凶器で地を摑む。寸分の間断なく、先頭が飛びかかってくる。それを一歩退きながら冷静に対処し、次の襲来を一瞥して再び得物を振るう。憂慮で動けなくなるよりも、ひとまず目の前の障害を排除することが先決と判断したのだ。幸運なことに今のところはまだ無傷だが、今後負傷して動きが鈍らないとは限らない。自分の身を最優先に考えねばなるまい。
そして、彼らは、リュカオンの同胞を大量に嬲り殺した。年に数日のみであるが、その被害は、彼に暗澹たる憎悪を植えつけるのには充分すぎた。復讐の衝動に駆られそうな自らを、辛うじて抑えつけているのは、理性の箍だ。これさえ外れてしまえば、果たして、どうなってしまうのか、それは彼にも想像できない。理性と衝動の境界線上に位置する彼は、憐れなほどに脆弱だった。そしてその彼が、確固としていたはずの自我を喪失するのは、いとも容易かった。復讐に呑み込まれ、忸怩とした思いを忘却してしまうほどに衰退してしまう。
屋内に侵入した彼らを殲滅し終えた時、リュカオンは、己が内に湧き上がる、どうしようもない飢えと渇きを覚えていた。
「はぁ、はぁ、……は、はははっ、ひひっ……」
そしてその飢渇を満たす為に、彼は遂に、夜の街へと繰り出した。
時折、静寂を切り裂くように彼らの咆哮が木霊する。その咆哮が彼の鼓膜を震わせた時、全身にえも言われぬ何かが漲るのを感じるのだ。絶大な何かを得た感覚が、身体の中の管という管を奔り回り、憤懣とした感情が爆裂を起こしかける。それを抑圧するでもなく、ただ欲望の赴くままに得物を振り翳す。
狭隘な路地裏なら屋内と同じように彼らに天誅を下すことができる。爆ぜた理性と、元来より怜悧だった頭脳を駆使し、確実に彼らを屠っていく。彼らは増援を呼び、集団でリュカオンを殺そうとしたが、狭小な場所では彼に太刀打ちなど叶わなかった。次第に、彼らは彼に近付かなくなった。
広い路地に出てしまうと危険だったが、平静を失った彼は、そのような危惧など毛頭なく、表路地に、その真紅に染まった姿を晒した。それでも背後は取られないよう壁を背にしていたが、襲い来る彼らを狂ったように殺し続けた。
やがて、街をうろつく彼らの三割ほどが死滅したかと思われた時、最早狂人と化したリュカオンは、ふと、窓硝子に映った己の姿を見た。後戻りできなくなった地点に来てようやく、この街の真理に辿り着いていた。妙に納得したような、得心がいったような心地だった。
彼は、驚嘆するほどに合点がいくその答えを、誰にも伝える術を持たない。
窓硝子の中の彼は、全身を返り血で真っ赤に染め、口元からは鋭鋒たる牙が覗き、ツルハシを握るその手には凶刃にもなりうる爪が伸び、耳は鋭角に尖り、かつて背筋は真っ直ぐに伸びていたが今や僂佝となり、比較的貧相だったその筋肉は皮膚を押し上げるまでに発達し、白かった肌は灰色の体毛で覆われ、何も無かった腰部にはしなやかな尾が揺れていた。
その姿はまさに、彼ら、人狼そのものだった。
異常なまでに膨れ上がった殺意は、己の姿を、醜悪な人狼のそれへと変貌させてしまったのだ。リュカオンだけではない。この街を徘徊する人狼全員が、元はこの街の住民なのだろう。異種を排斥せんとする意志が人狼となっても引き継がれ、人が人狼を殺そうとするように、人狼も人を殺そうとする。誰かが人狼になり、その人狼を憎み、自分もまた人狼となる。その負の循環は、知らずの内にこの街を侵蝕し、恐慌へと陥れていた。
彼は吼えた。その咆哮は、悲嘆に暮れるこの街に対しての慟哭にも思えただろう。それに釣られるように彼ら、人狼達が集まり、リュカオンを取り囲んだ。人狼達が彼に意識を向けるのは、まだ少しでも彼は人間だからなのだろうか。それとも、単純に、異端の身内を処罰する為なのだろうか。しかし、そのようなことはどうでもよかった。彼の胸中を占めるのは、殺意と、憎悪と、憤怒と、悦楽のみ。本能に限りなく近いその欲望に、実に従順に疾駆する。その様相が人狼達に怯懦と狼狽を植えつけ、四半秒遅れてその生命が摘まれる。圧倒的な技術と膂力を誇る彼に、人狼達は為す術もなくその餌食となった。そして彼は、次の血を求めて彷徨するのだ。
一夜にして街の脅威の大半を戮したリュカオンは、まるで孤高の覇者の如くあった。流血と疼痛により朦朧とする意識を強引に覚醒させ、咆哮と称するにはあまりにも野太く、感傷的な轟音をその口腔から放つ。それは、人狼に畏怖を、住民に恐怖を、それぞれ刻み付けた。聞いたもの全てを震撼させるその存在は、寂寥とした威厳を纏い、ただ天を仰いでいた。
難しい言葉ばっか使って読みにくく書いてすいません。
さて、ここで用語の解説をば。
・Loup-garou
フランス語で、狼男の一種を指す。
・ネウロイ
狼男に扮する祭祀を行うことで知られる部族。
・リュカオン
ギリシャ神話の人物。主神ゼウスの怒りによって狼に変えられた。主にリュカーオーンと表記される。
この三つを押さえて頂ければ、読み味も多少は深まると思います。
それでは、ご読了頂き、恐悦至極に存じます。