第5話:瘴域へ
シノノメ宅の家政婦レア・バラード。
その娘、キア。
彼女が今朝から郵便配達の仕事に出たきり帰ってこないのだという。普段なら日が暮れる前に帰ってくるはずが。あてどなく街中をさがしても見つからず、途方に暮れていたところにエリスとシノノメがやってきたのだった。
バラードを一旦帰し、エリスとシノノメはキアの捜索に奔走した。
まずは西区の郵便局でキアの所在を尋ねた。局員の話によると、キアは配達に出たまま一度も戻ってきていないらしい。局員も不思議がっていた。
キアの配達区域が記された地図を借り、該当する場所を重点的にさがした。
キアの配達区域は繁華街のある西区半分と、三等市民の住居や工場が立ち並ぶ第一北区全域。だいぶ傾いていた太陽は、捜索が終わるころにはすっかり沈んでしまい、地平線の際に名残をとどめる程度となっていた。
駆けずり回った二人の努力もむなしく、キアの姿は影も形もなかった。
シノノメの指が地図の端に滑る。
「あと心当たりのある場所は……第二北区か」
「シノノメ先生、第二北区には何があるんですか」
「四等市民が暮らすスラムだ。嫌な予感がするぜ」
四等市民は市民階級のうち最下層に位置する。一定の住居や財産を持たない者、犯罪者など、いわゆる社会からつまはじきされた者たちが大多数を占めている。彼らが暮らすスラムは靴を履いているだけでも追いはぎの対象となる治安である。
シノノメが懸念していたのはそれだけではなかった。
「第二北区の奥には『瘴域』がある」
「瘴域って、もしかして魔物の巣の!」
「冒険者や軍の魔物掃討部隊ならともかく、普通の人間が入って無事で済むはずがない」
先ほどまでとは真逆の願いを胸に抱き、第二北区を訪れる。
第一北区の更に北方に位置する第二北区は、ゴミ山の集落と表現して差し支えなかった。そこは発展の代償全部を押し付けられ、表舞台から隔絶された、見捨てられた世界だった。
廃材やガラクタを積み重ねた長屋が不均等に建ち並ぶ集落を、シノノメは堂々と歩く。彼の後ろをエリスは恐るおそる追従する。ボロ布を着た住人たちの奇異のまなざしがつらかった。
――おや、シノノメ先生。お久しぶりじゃないですか。
白ひげを蓄えた老人がガラクタの陰から現れた。
「そちらの身なりのよいお嬢さんは?」
「俺の姪だよ。じいさん、緑色の帽子をかぶった女の子を見かけなかったか。キア・バラードって名前の、郵便配達をしているちっこい娘でさ、迷子なんだ」
「ふむ、緑色の帽子の娘ですね」
「心当たりがあるんだな」
「ヴリトラとあちらのほうへ歩いていきましたよ」
白ひげの老人が指差した先には――邪悪な黒い霧が立ち込める地『瘴域』があった。
◆◆◆
十五年前、シノノメたち七人の英雄が魔王を打ち倒したとき、砕け散った魔王の身体の破片は大陸全土に降り注いだ。破片が降り注いだ場所から邪悪な黒い霧が発生し、黒い霧は魔物を生み、そこは人の住めぬ魔物の巣窟『瘴域』と化した。
瘴域は現在も大陸各地に存在する。
エリスとシノノメが足を踏み入れているこの第二北区の瘴域も、もともとは軍の砦だった。魔王の破片が落下して瘴域と化した際に砦は放棄され、人が寄り付かなくなったその周辺にいつしかスラムが形成されていった。
エリスは息を止めて呼吸の回数を抑えながら薄暗い砦の内部を歩く。黒い霧が人体に影響を及ぼすものではないと知っていても、やはり無造作に吸うのは抵抗があった。
先頭のシノノメは腰の太刀に手をやりながら神経を研ぎ澄ましている。瘴域には魔王の力で生み出された邪悪なる魔物が多数、潜んでいる。魔物は本能的に人間と敵対する。魔物と遭遇しても即座に対応できるよう身構えていた。
「ヴリトラは昔からたびたび瘴域に入っていた。まるで何かに吸い寄せられるみたいに」
「キアちゃんもですか?」
「スラムには近寄るな、って俺とバラードさんが固く言いつけてる」
「ならどうして瘴域に入ったんだろう」
「俺にもわからん」
ただあの娘は、とシノノメは困った口調で続ける。
「普段は物静かなんだが、ときどきすごい爆発力を発揮するんだよ。俺もバラードさんも驚かされてな。とにかく自分の意志を頑なに貫く性分なんだ」
どこからともなく響いてくる獣の雄叫び。
同時に大きな横揺れ。
砦全体が震動してエリスは足をふらつかせる。三つ数える短い時間、エリスは壁につかまって震動をやり過ごしていた。
瘴域のどこかで異様な事態が起こっている。
二人の焦燥が募る。
「下にキアちゃんたちが!」
ガラスが外れた二階の窓枠からエリスは身を乗り出す。
草木や蔦が好き放題に生い茂る屋外の射撃訓練場に、二人の人間と一体の魔物がいた。
人間の一人はハンチング帽の少女キア。
もう一人は褐色の粗野な青年ヴリトラ。
二人と対峙する魔物は黒い狼の姿をしている。ただし、その体格は本物のそれより何倍も大きい、猪か象かと見紛う巨体だった。
魔物の咆哮で砦が揺れる。最後の威嚇をした魔物は、頭を低く下げて突進の構えをとった。恐怖に青ざめるキアがヴリトラにしがみつく。ヴリトラは怯える彼女を背中にかばった。シノノメが走った。
「待ってください、先生」
階段を降りかけたシノノメをエリスが止める。
「窓から飛び降りてください。そうすれば一気に二人のところに着けます。だいじょうぶです。わたしが魔法で先生を助けます」
「そうか、転換術があれば……エリス、できるか?」
「やってみせます!」
――ちょっと、ほんのちょびっと不安だけど。
――でも、やるしかない!
シノノメが窓から飛び降りる。
エリスが樫の杖を地面に立てる。
意識を集中させて、己が臨む魔法の結果を思い描く。
体内の魔法エネルギーが熱を帯び、循環が加速する。焦燥は消えうせ、凪いだ海辺のごとき精神に到達した。
「少しずつ上に上がって!」
エリスが魔法を唱えると、落下するシノノメの速度が緩やかになった。重力による下方向への落下はエリスの上方向に対する転換術で和らげられ、ちょうどよい具合の落下速度まで低下したのだった。
無事に着地したシノノメはヴリトラとキアを遮って魔物と対峙した。
「シノノメ先生、どうしてここに」
「先生、言いつけを破ってごめんなさい」
「お説教はとりあえず後回しだ。ここは俺に任せな!」
二人を後方に下がらせ、シノノメは抜刀する。
寒々しいほど研ぎ澄まされた刀身が空を斬る。
太刀に帯びた魔法の力が発現し、逆袈裟に薙がれた軌跡に沿って空間に風の刃が生じる。
風の刃は魔物を狙って飛翔する。
切り裂かれて一刀両断された魔物は、苦悶の叫びと共に倒れた。
しかし、死する際に黒い霧に戻るはずの魔物は、なおも実体を保っている。
すると、切り裂かれた身体の断面が意思を持ったかのように動きだした。
魔物の傷口がみるみるふさがっていく。
まっぷたつにされた魔物は、最終的に上半身下半身別々の、二つの魔物と化した。
下半身だった一体はシノノメに襲いかかる。
残りのもう一体、上半身の部分はヴリトラとキアに向かって駆けていく。
「二手に分かれただと!」
まさかの事態にシノノメは驚愕した。
「ヴリトラ! キア!」
自分を狙ってきた下半身の魔物を一太刀で切り伏せる。絶命した魔物が黒い霧になると、彼はヴリトラたちのほうを振り返った。
魔物は二人に接触するのにあと一呼吸といった至近距離まで詰めていた。
彼があらゆる手段を尽くしたとしても、もはや手遅れに終わる位置だった。シノノメは声にならない声を叫ぼうと口をむなしく動かしていた。巨大な絶望に押しつぶされて声を枯らしていた。
獰猛な魔物の牙がヴリトラの喉首に喰らいつこうとする――その刹那、鼓膜を震わす発砲音が轟き、跳びかかってきた魔物が真横に吹っ飛んだ。立て続けに発砲音が三発して、同じ数だけ胴体に風穴が空いていった。
脳天に一つ、胴体に三つ。
絶命した魔物は黒い霧となって消滅した。
「シノノメ、やはりここにいたのか。俺の勘も捨てたものじゃないな」
茶色のスーツを着たコルネリウス警部が拳銃を握っていた。
銃口から硝煙が立ち昇っている。
肝を潰して冷や汗をどっと流すシノノメは声を震わせ、引きつった笑い方をしていた。
「クラウスか。間一髪だったぜ。ハハハッ」
「レアに泣きつかれたときは何事かと焦ったぞ。詳しい話を聞かせてもらおうか」
「んなもん俺が聞きてーよ。しっ、心臓が爆発しそうだ……」
「ボクたち、あれをさがしてた」
キアが廃屋の屋根の上を指差す。
錆と苔にまみれたそこには鳥の巣。
日差しを反射する小さな金属の光が、巣の中で見え隠れしている。
蔦につかまって木をよじ登り、屋根に飛び移ったキアは、巣の中から小さな金属を拾い上げた。
光る金属の正体は銀の指輪だった。
シノノメとコルネリウス警部が「あっ」と互いに目配せし合う。
「レアの結婚指輪」
「死んだお父さんがくれた大事なものだって、お母さん言ってた」
キアは銀の指輪を大事に両手で包みこんだ。
罪を問い詰める警察の表情をしていたコルネリウス警部は、それを聞くなり急速に覇気をなくす。拳銃を腰のベルトに戻して踵を返した。階段を駆け下りて皆と合流したエリスに「また会ったな、魔法使い」とぶっきらぼうにあいさつした。
「ここは立ち入り禁止区域だ」
「わっ、わたしたちまた逮捕されちゃうの?」
「安心しろ。今日は非番だ」
クラウス・コルネリウスはエリスたちを置いてきぼりにして去っていく。
「だから魔法使い、それにキア。シノノメと一緒にすぐ帰れ」
◆◆◆
無事にキアを連れて帰ると、月が飾られ星が夜空にまたたく時刻になっていた。
バラードは涙を流しながら愛娘を抱きしめた。
嗚咽を漏らす母とは対照的に、娘は力強い抱擁を窮屈そうにしていた。
ひとしきり抱きしめてから指輪をはめたバラードは、エリスとシノノメ、そしてヴリトラに何度も何度も感謝を述べた。
ヴリトラは夕食のご馳走に誘われたのを丁重に断った。
シノノメが彼の背中に「ありがとよっ」と言葉を投げる。
「お前、一人で瘴域に行こうとするキアについていってくれたんだってな」
「こいつ、俺がいくら言い聞かせても聞く耳持たなかったんで」
感謝され慣れていないのか、彼はむずかゆそうに頬を掻く。
「財産も学もない俺だって、義理くらいは心得てます。シノノメ先生の恋人だった女性の子供を助けられるならこの程度、お安い御用です」
「ちょっ……なっ」
シノノメが絶句する。
バラードも頬を赤らめている。
「元恋人とか、んなデタラメどっから出てきた」
「こいつが言ってましたよ」
指をさされたハンチング帽の少女。
元凶の彼女は悪びれもせず首をかしげている。
「違ったの?」
「俺はお似合いだと思ってます」
「あっ、わたしも似合ってると思いますよ」
「違うに決まってんだろ! 俺なんかじゃ全然似合ってねーし。俺らはただの古い幼馴染だっての。バラードさんを困らせんなって。あーあ、白けちまったよ。メシ食っていかないならとっとと帰れ」
おとなげなく取り乱したシノノメは強引にヴリトラを追い払った。
「一等市み――いや、エリスとかいう魔法使い」
帰り際、ヴリトラがエリスを名指しする。
「昨日は馬鹿にして悪かった。お前の意志は本物だった」
魔法は人を幸せにするためのもの。
彼が自分の志を憶えてくれていて、エリスは感激した。
「ヴリトラくん。わたしたち、今日から友達だね」
「は? なんでそう飛躍すんだよ」
「ダメかな?」
「ダメなんて言ってねえだろ」
エリスが予想していた未来は、案外早く訪れたのだった。