最終話:わたしたちの望み
エリスが玉座への階段を上る。
ゆらめく赤い炎に照らされた竜の女王。
「私を殺しなさい。それが瘴域の終端までたどり着いた者の役目なのです」
「シオンさんがいなくなってキアちゃんもバラードさんも寂しがってました」
「甘い夢はとうに覚めたのです」
彼女はもはやシオンとしてではなく、魔王アイオーンとして振舞っている。
「我が眷属たる魔物は人間の営みを破壊しました」
「それはシオンさんの意思だったんですか?」
アイオーンが指を鳴らしたのに応じて、中空に大きな鏡が出現する。
鏡に映っているのは黒き竜。そして災禍に呑まれる港湾都市。
泣き叫びながら逃げ惑う人々。
猛火の息吹で地上を焼き払う黒き竜。街を破壊していく眷属たる魔物の群れ。
その有様を端的に表現するとしたら――終末。
「わかりましたか。意思がどうであろうと、私が邪悪なる黒き竜、魔王アイオーンである事実は覆りません。私は人間の脅威なのです」
「……よかった」
エリスは希望が残されているのを確信した。
エリスの問いかけに「はい」と単純に答えられたら、エリスだって未練を断ち切れた。なのにシオンはあえて演繹的な言い回しをした。ゆえに彼女は真に邪悪なる存在ではないと証明されたのだ。
「やっぱりあなたはシオンさんですよ」
自然とはにかむエリス。
彼女のやさしさがかえって苦しみ与えたのか、シオンはもどかしげにかぶりを振り、口調も荒々しくなる。
「覚悟を決めなさい。さもなくば」
黒き霧を取り込み、女王は漆黒の竜へと変幻した。
高い天井に触れかねない巨竜が翼を広げて威嚇する。
蛇に酷似した、皺の刻まれた腹部がゆったりと脈動している。体内に溜まっている灼熱の炎が赤く透けている。呼吸のたびに口から火焔の吐息が漏れ出ている。
まさに魔王の呼び名に相応しき熱。
彼女と比較すれば、先ほど戦った悪鬼など人形も同然の幼稚さである。
「我が灼熱の息吹があなたを灰燼と化すでしょう」
顎の上下に応じて、おぞましき悪魔の声が火焔をまとって広間を震動させる。
中空の鏡が砕け散る。
天井から砂埃が降ってくる。
竜のオブジェの角や牙といった先端が震動で折れる。
たいまつが倒れ、床で燃え上がる。
空間全体が魔王の降臨におののいている。
シノノメがエリスを背中にかばい、抜刀する。
半ばで折れた刀身が姿を晒す。
「シオン。お前がやっているのは思いやりだとか献身からは程遠い、単なる身勝手だ。お前もクラウスも、どうしてそう極論に走りたがるんだ。俺たちはほんの少しずつでも前進してたじゃないか」
「シオンとしての意識が時間の経過にしたがって薄まり、アイオーン本来の獰猛な人格がよみがえりつつあります。私は、あなたがたの住む世界を破壊したくありません……シノ先生、あなたなら私の望みを叶えてくれると信じています――命を賭して!」
長い首を床に垂らし、大口を開けた魔王アイオーンが火焔を吐き出した。
シノノメが折れた太刀で空を斬り、魔法の風を起こす。
玉座の間を端から端まで駆けて焼き尽くす灼熱の息吹。
太刀から発動した強風の魔法が炎を相殺し、二人を守護する。
視界が真っ赤に染まる。
身を焦がす熱風が髪をかき乱す。
急速に乾く眼球をまぶたで覆い、エリスは耐える。
風の魔法が魔王の火焔を完全に退けると、エリスたちの足元を残して周囲の壁や床、竜の彫像が無残に融けていた。
融解した壁と床が崩れ落ちる。
白と黒が混じってうねる異次元空間が崩れ落ちた隙間から覗ける。魔王アイオーンの創造した物質空間の崩壊が始まりだした。
燃え盛る炎、凍てつく冷気、貫く雷撃、巻き起こる烈風――アイオーンの魔法が繰り出されるたび、玉座の間は崩壊を加速させていく。
「たとえ折れていようとも、英雄の霊剣なら私の急所も穿てるでしょう。瘴域の黒き霧を吸収し尽くして完全体になる前に、さあ、早く」
「嫌だね」
シノノメはキザな笑みで彼女の要求を突っぱねた。
「家族にそんな真似できるかよ」
「家族……私が家族?」
黒き竜の感情の乱れによって魔法が暴走し、でたらめに周囲を攻撃していく。電撃が竜のオブジェを粉々にし、烈風に煽られた炎が床や壁を舐めて溶かし、氷のつぶてがエリスの頬をかする。
「過ごした日にちはほんのわずかでも、あなたはわたしたちの家族です」
「私は魔王アイオーンなのですよ!」
「あなたはシオンさんです」
「私は……私は……ッ!」
「シオンさん」
「何ゆえその名で呼ぶのですか!」
「あなたがシオンさんだからです」
「解放しなさい! 私を、苦しみから!」
アイオーンの苦悩に比例して暴走した魔法の嵐が激しさを増していく。
アイオーンがどれだけ否定しようと、エリスは真なる名で彼女に呼びかけていた。荒れ狂う嵐の中で果敢に立ち、呼び続けていた。
竜の咆哮で壁がはがれて飛んでいく。
崩れ、崩れ、崩れ、残る足場はエリスたちの足元のみ。
それでもエリスたちは黒き竜に刃を向けようとはしなかった。
残っている足場を飛び飛びに渡っていって、竜の至近距離まで近づく。
「シオンさん、帰りましょう。あなたの望む、みんなが幸せに暮らせる場所に」
「私の、私の望みは……」
竜が自問にもだえる。
声に出して高らかに叫びたい願い。しかしそれは許されざる禁断の願い。彼女のその葛藤こそ、魔王アイオーンをなおも星の王女さまシオンたらしめている最後の楔であった。
全身を支えていた脚が限界に達し、太い胴体の腹を床に打ちつけて竜は倒れた。
寝そべる竜にエリスが腕を伸ばす。
目を細め、口元をやわらかくする。
帰ってくるべき人を出迎えるあたたかな笑みを浮かべる。
業火をたくわえた顎を開けて拒絶していたアイオーンは……
やがて顎を閉ざし、穏やかに目をつぶった。
猛り狂っていた四属性魔法が鎮まる。
「どうして、どうしてあなたがたはこうも――」
諦め。
喜び。
正反対の性質二つの感情が竜の声にこもっていた。
最後の足場が崩落する。
襲いかかる急激な重力。
エリスも、シノノメも、アイオーンも、黒と白の渦巻く異次元空間に飲み込まれた。
物質がことごとく消えうせ、無に等しき空間だけが残された。
◆◆◆
白と黒が混じった異次元空間をエリスは遊泳していた。
上下左右の感覚があやふや。
白と黒の筋がうねるばかりで遠近感が狂う。
音がしない。シノノメやシオンを呼ぶ声が、喉から外に出た瞬間に消えてしまう。
現実世界からいくつかの概念が欠損した不安定さを感じる。もはやバラードたちのもとに帰るのはかなわない。このまま延々と無の空間を泳ぎながら、白と黒に抱かれながら消滅していくのだろう。エリスはそんな気がした。
自分が物語の主人公とは違うことくらい、百も承知していた。
叶わぬ願いや届かぬ想いがあることも覚悟していた。
ただ、それでも、大切な家族を取り戻せなかったのがたまらなく悔しかった。泣き叫びたいほど悔しかった。待ちわびているはずのバラードやキア、ヴリトラたちに謝りたかった。
目に涙がたまっていく。
溢れかえってこぼれ落ちかけた涙の海。
それがエリスの頬を濡らす前に、誰かが拭った。
星空にたとえられる、黒く艶やかな髪。
豊かな肉体。
息を呑むほどの美貌。
感極まったエリスは、その女性――シオンの胸に飛びついた。
シオンはエリスの頭を愛しげになでる。エリスもシオンの胸に顔をうずめて存分に甘えていた。求め続けていた、母性的な甘い匂いを堪能していた。シノノメ、バラード、キアたちと狭い部屋で暮らした、短くも幸福な日々の懐かしさがどっと押し寄せてきた。
聞こえてくる。
音色が。
ピアノの音色が。
「ありがとう、エリス。私を家族として迎えてくれて」
シオンの指が髪を梳く。
「以前、バラードさんが私に教えてくれました。夜空を流れる夏の星が人々の願いを叶えてくれるのだと」
抱きしめられ、抱きしめ返す。
「私にとっての夏の星はエリスだったのですね」
黒と白の空間に突如、巨大な物体が出現する。
黒い霧を漏らしている、竜の首。
それは、瘴域を生み出している元凶、魔王アイオーンの肉体の破片に他ならない。
シオンが銀に輝く細身の剣をエリスに握らせる。
「魔王の肉体が滅んだら、シオンさんは」
「心配には及びません」
剣の柄を握るエリスの手に自分の手を重ねる。
「私はシオン。あなたたちが愛してくれたシオンなのですから」
重なった手からシオンのまごころが伝わってくる。
「約束します。きっとあなたのとなりに帰ってきます」
エリスの手が自然と持ち上がる。
剣を掲げ、
振り下ろす。
銀の刃が竜の首をまっぷたつにする。物質的な概念ではないのか、驚くほど手ごたえもなく、空気を切るように断ち切ることができた。
破壊された瘴域の元凶が黒い霧となって霧散し、完全に消滅した。
同時に、白と黒の空間も消えた。ランプの火がふたをされて消えるときのように、音もなく、ひっそりと、一瞬で。
不思議とエリスは怖くなかった。
シオンとの再会の約束が、とこしえの夜を乗り越える勇気を与えてくれたのだろう。




