第21話:分かたれた二人
バラードの見舞いを済ませたエリスは、キアと共に廃墟アクアへと赴いていた。
父に「家で遊んでいなさい」と言いつけられていたので、こっそりと、通りがかりの荷馬車に乗せてもらって。
ロバの歩みは遅い。
舗装された平坦な道路を走る車輪の音が眠りにいざなう。
しばらく経って、太陽がやや西に傾いた時刻になり……。
二人がうたた寝から覚めると、おりよく荷馬車はアクアの西門に着いていた。
競い合うように背を伸ばしていた建築群は影も形もない。
焼け焦げ、折れ、崩れ、重なり合ったその成れの果てが平坦な大地に散らかっている。おもちゃ箱をひっくり返した様相だった。悪夢と呼ぶべき災厄はやはり現実だったのだとエリスは実感してしまった。
生き埋めにされた人々を救うべく、軍の兵士と警察官が瓦礫の上を這いずっている。行方不明者の身内らしき市民も散見される。彼らの懸命な救助活動を新聞記者がカメラで撮影していた。
掘り起こされて担架で運ばれるのはエリスの目に映る限り全部、亡骸だった。
◆◆◆
目的のシノノメ宅に向かうのを断念せざるを得なかった。
建物が片端から倒壊しており、街はガラクタを一面に敷き詰めた瓦礫の海と化している。歩くのも困難である。以前はどこが道路でどこに建物が建っていたのか、面影すら残っていなかった。
かろうじて踏ん張っている少数の建物もヌシの石化魔法を受けて部分的に脆い石になっており、常に倒壊の危険をはらんでいる。市民は立ち入れる範囲を制限されており、危険区域の捜索はもっぱら軍と警察で行われていた。
「先生の家、残ってるかな」
「たぶん、ぺしゃんこ。それか黒こげ」
キアはシノノメ宅があるはずの方角を指差す。
その先もやはり瓦礫の海が漠と広がるばかりであった。
その景色を横切る人物がいた。
ウェーブのかかった美しい髪の持ち主――シオンだった。
儚げな野辺の花を携えている。
倒壊した建物の間を縫って歩いていたシオンは、ある地点で立ち止まって屈み、祈りを捧げる。うなだれた頭からひとしきり大粒の涙を落としていた彼女は、エリスとキアの気配を察するや、早々その場から立ち去ろうとした。エリスたちはなるべく平らで安定した足場を選んで、飛び石を渡る要領でシオンを追いかけた。
「待ってください、シオンさん」
「私はもはやシオンという人間ではありません」
対話に応じてくれた。それだけでエリスは光明を見出せた。
「わたしたち、シオンさんを迎えにきたんです。帰りましょう」
「私の寄る辺は、私自身が壊してしまいました」
「家が壊れたってへっちゃらです。わたしもキアちゃんも、シノノメ先生やバラードさんだって無事なんですよ」
「やはりあなたはやさしいですね」
柔和な笑みを浮かべる。
「ですが」
うって変わって放たれた険しい一言が、油断したエリスを竦ませた。
「私たちは分かたれるべきなのです」
「わたしたちのこと、嫌いになったんですか?」
「因果、あるいは宿命。過去から発ち、現在を経て、未来まで連なる我が罪業に因るものです」
「教えてください。シオンさんのこと」
「我が真なる名はアイオーン。ヒトに仇名する魔王」
つま先を軸に反転してエリスたちに背中を晒す。
悪魔的な黒い翼が二つ、絹のドレスを破って生えていた。
「魔界の貪欲なる主は飽くるを知らず、永久に貪りつづける」
黒い翼がかすんで消える。シオンの意思次第で隠せるらしい。
「陽は昇っては沈み、月も満ちては欠ける。しかし魔王アイオーンは万物に定められた摂理を拒絶し、永劫で在るのを渇望する。ゆえに彼の肉体は英雄の剣がもたらす破滅すら回避した。肉体の破片は黒き霧を吐き、眷属を無尽蔵に生んでいく……私もまた、邪悪なるアイオーンの一部なのですよ」
エリスは肩をいからせて歯を食いしばっていた。憤りと悲しみが心の中でぐちゃぐちゃにかき混ざって爆発しそうなのをこらえていた。
「バラードさんのお手伝いをしたり、わたしと一緒のベッドに入ったり、ご飯を食べたり、キアちゃんと草笛を吹いたりした大事な友達……それも魔王アイオーンだってシオンさんは言うんですか?」
シオンは言葉を詰まらせる。
逡巡の末、彼女は声色を和らげて「諦めなさい」と穏やかに諭した。
「すべては泡沫。すべてはまどろみの中での淡い夢だったのです。エリス、夢に縛られては現を見失います。忘れてしまいなさい。魔王の心臓がアクアの海に落ちてきたあの夜から、この結末は決定付けられていたのです」
黒い霧が肌から生じる。
「さようなら。あなたがたと共にいられた夢、ほんのひとときとはいえ幸福でした」
シオンの姿は黒い霧に変幻し、風に乗って空に流れていった。
透ける真夏の日差しが直視を阻む。
風の向かう先にはゴミ山。
奥に隠れているのは瘴域。
あなたの帰るべき場所はそこなのか――エリスは胸の内で訴えた。
シオンが屈んでいた場所には遺体が仰向けに寝かされていた。
胸の前で両手のひらを重ねられ、目や口は安らかな表情になるよう整えられている。肌にこびりついていた泥も丁寧に拭われていた。
シオンがピアノを演奏していた酒場のマスターだった。
かたわらに野辺の花が手向けられていた。
救助活動中の警察官がやってきて、マスターの遺体は安置所まで運ばれていった。
「おい、帽子のガキと魔法使い……なに泣いてんだよ」
背の高い人影がエリスに重なった――ヴリトラだった。
木箱を抱えた彼は汗だくである。
浮き出る玉の汗が褐色の肌を滑り落ちている。炎天下で長時間働いていたらしく、タンクトップも工場作業用の灰色のズボンも汗に濡れて肌にへばりついている。短く切られた髪も濡れてつやがかっていた。
「その木箱は?」
「シノノメ先生の家から拾ってきたものを詰めたんだ。家は燃えちまっていたが、せめて使えそうなものだけでも、ってな。必要なのがあるなら持って帰れ」
彼は木箱をエリスとキアの足元に置いた。
ガラスの花瓶、曲がったスプーン、すすけた皿、へこんだ鍋、魚釣りに使うウキ、半分こげた王立学校の教科書……かろうじて使えそうな道具から正真正銘のガラクタまで、いろいろある。
「ありがとう、ヴリトラくん」
「ヴリトラ、いい人」
「かっ、勘違いするな! これはお前らじゃなくて先生のためなんだからな」
女の子二人に感謝されたヴリトラはあからさまに紅潮していた。
アクアが崩壊した日から彼はスラムに居続けている。救援を後回しにされている四等市民たちを助けるため、昼も夜も奔走しているというのだ。
エリスが協力を申し出るも「足手まといだ」とすげなく断られてしまった。
木箱を漁っていたキアが、ふちの欠けたコップを探し当てた。
「やっぱりいらない」
すぐさま木箱に返してしまった。
「いらないの? キアちゃんがいつも使ってたコップなのに」
「エリスの家にあるコップ、みんな銀色でぴかぴかできれい。汚れたボクのが混じったら見栄えが悪くなる」
木箱の端に寄せられていたガラクタの山が音を立てて崩れ、コップが下敷きになってしまった。キアはその様子を一瞥しただけで、もはや木箱を漁る素振りはなかった。
何処からか忍び寄ってきた罪悪感がエリスの胸を小さな針でつついて苦しめる。
胸を押さえてうつむいたそのとき、木箱の中に光る小物を発見した。
それを引き金に、災禍に燃える悪夢の日が脳裏によみがえる。
木々の爆ぜる音を背に男女の声……。
――シノくんからもらった指輪。ここに隠しておいたの。
――指輪っていっても銅貨一枚の価値にもならん、俺が工場で鉄を曲げてつくってもらったガラクタなんだぜ。まさかレアがあれを大事にしていただなんてな。
エリスの勘が正しければ、木箱の底で光るそれは『あの人』が大事にしていたもの。聞き分けのない子供みたいに泣き喚いてまで探し求めていた宝物のはずである。
意を決したエリスは袖をまくり、木箱に腕を突っ込んだ。
手首を掻いて木箱の底まで掘り進んでいく。
ガラクタの破片が肌を引っかく痛みを我慢する。
そして木箱の底に到達する。
指を這わせて感触を頼りに目的の品を探す。
――これかな?
指先に金属特有の冷たさを感じる。
触れていたそれを掴み、腕を引っこ抜く。
――これだ!
目的の品をエリスは確かに握っていた。
指にちょうどはまるその鉄の輪っかは十数年の年月を経て錆び、くすんでいる。
「自動車の軸受けか? 工場で加工していた部品が紛れたのかもな」
「もらっていい?」
「機械好きが高じると鉄くずまで宝物になるのか」
「うん、まあ、そんなところかも」
苦笑いでごまかしたエリスは鉄の輪っかを胸ポケットにしまった。
「ヴリトラくんはアクアに残るの?」
「燃えちまったとはいえ、工場を放っておけない。スラムにだって女や子供、老人が大勢置き去りにされている。今はとにかく男手が要るんだ。話によると、王都は貴族と金持ち以外の受け入れを拒んでるらしいな」
するとエリスがしょぼくれる。
消沈した理由を察したヴリトラはばつが悪そうに頭を掻いた。




