第19話:そして竜がよみがえる
嗚咽を上げるバラードをなだめたエリスは、火の手が迫る家から脱出した。
空を黒煙が覆っている。
シノノメたちが猛牛型の魔物『ヌシ』と決死の攻防を繰り広げている。
刺し、剥ぎ、潰し、砕き、壊す。
ヌシは周りの家屋を巻き込んで暴走している。
体内に魔法の力を保有している者――石化魔法に耐性のあるシノノメとヴリトラがヌシと真っ向から応戦し、遮蔽物からコルネリウス警部が銃撃で支援している。市警察と軍の兵士もライフルで援護射撃を浴びせている。戦車も二両、到着していた。
シノノメの電撃魔法には多少なりともひるんでおり、ヴリトラの火炎魔法もこけおどし程度の効果は窺える。警察と兵士の銃弾、戦車の砲撃にはびくともしない。悲しくも、人の叡智が生み出した武器はヌシにことごとく通用していなかった。
ヌシが頭を低くして攻撃の姿勢になる。
コルネリウス警部は横っ飛びに逃げてヌシとの軸をずらす。
ヌシが圧倒的な質量を以って、猛烈なる突進をかました。
地面にあるものを蹴散らしながら一直線に突き進み、正面に構えたツノで装甲車と戦車をひっくり返す。逃げ遅れた兵士が何人か巻き込まれた。
ヌシの突進は花屋に激突して止まった。
ぐらり、建物全体が斜めに傾いた。
「花瓶に挿すお花、いつもあのお花屋さんで買っていたの。シノくんとエリスちゃんたちの部屋に飾るお花……最初は青いお花で、次の日はエリスちゃんに似合いそうな桃色のお花をいただいて、その次の日は黄色……どのお花が似合うかしらってシオンさんとおしゃべりしながら」
憔悴しきったバラードのうわごと。
涙は枯れ、瞳は輝きを失っている。
「行きましょう、バラードさん。避難所でキアちゃんが待っています」
「シノくんたちと暮らしたお家、ばらばらになっちゃったわね」
「長居していたら戦いに巻き込まれます」
「シノくんがくれた、私とキアの居場所……シノくんが私を閉じ込めるために」
「バラードさん!」
バラードに再び錯乱の兆候が表れる。
エリスは力ずくで彼女を避難所まで引っ張っていった。
◆◆◆
避難テントで震える市民たちは誰も彼も怯えていた。
魔王が討伐されてから十五年。戦争で疲弊しながらも人間たちは絶望から立ち直り、復興に励んだ。その結晶が港湾都市アクアと言っても過言ではなかった。
長い月日をかけて築き上げた文明を今、ヌシが蹂躙している。猛火が消し炭へと変えていく。無力さを味わわされた市民たちは失意に打ちひしがれていた。
「どうなるのかな、ボクたち」
衰弱したバラードが手当てを施されて寝ついた後、キアが小声で訊いた。心を壊された母親が落ち着くまで、彼女は健気にも泣き言をこらえていた。
「先生たちが絶対ぜったいヌシを倒してくれるよ」
「倒した後は?」
「……え?」
「ヌシをやっつけた後、ボクたちはどこでどうやって暮らせばいい?」
抱いた膝に顔をうずめる。
「ボクのお父さんを奪って、お母さんを傷つけて、街をめちゃくちゃにして……どうして魔物はそんなことするんだろう。ねえ、エリス」
「わからないよ。ごめん、キアちゃん」
「エリスは悪くない。エリスはお母さんを助けてくれた」
そのときだった。
塞ぎこむエリスとキアの前を見知った女性が横切った。
ウェーブのかかった長くて艶やかな髪が灰の舞う街でたなびく――シオンだ。
うわの空な彼女は二人の前を通り過ぎて避難所から離れていく。
進む方角は繁華街の中央。
封鎖を守る兵士たちに歩みを止められる。
次の瞬間、エリスたちは予想だにしなかった展開に目を剥いた。
シオンが手を彼らにかざす。
閃光が雷鳴を従えてほとばしり、兵士たちを吹き飛ばした。
気絶する兵士たちを尻目に、シオンは封鎖を越えて繁華街へといざなわれていく。
「シオンさんを追いかけよう」
キアが真っ先に避難テントから飛び出した。
◆◆◆
シオンを見失ったエリスとキアは、ヌシと人間たちの戦いに遭遇した。
「いい加減くたばりやがれ!」
ヴリトラが腕を横に薙ぐ。
薙いだ軌跡に沿って発生した火炎魔法が地を走り、ヌシを炙る。続けざまにコルネリウス警部が銃撃を浴びせる。弾を撃ち尽くすと死体のそばに寄ってライフルを拾い、射撃する……使いようのある武器は地面にいくらでも転がっていた。
炎に呑まれようが鉛玉を食らわされようがヌシはびくともしない。シノノメの電撃魔法にかろうじて痛がる程度である。
百貨店のガラス張りの壁が砕け散り、ヌシの真上に雨あられと降り注ぐ。黒き皮膚は分厚く鋭利なガラスの刃すらはじき返していた。
戦いが長引けば長引くだけ消耗の激しい人間側の負担が増していく。シノノメ、ヴリトラ、コルネリウス警部、そして生き延びたわずかな兵士と警察官たちはヌシの圧倒的な破壊力と頑強さを前にし、絶望に青ざめつつあった。
物陰から不意にシオンが現れる。
ガラス片を平然と踏みながらヌシのほうへ吸い寄せられていく。
王女さまの唐突な登場にシノノメが「なっ!?」と絶句していた。
「シオン、離れろ!」
引き留めようとする彼をヴリトラが制する。
「先生こそ離れてください。あの女が現れてからヌシの様子が変です」
異変が起こっていた。
本能からくる人間への敵意に身を任せて暴れていたヌシが、シオンを前にするや動きを止める。しかも膝を折って彼女の前に座ってしまった。シオンは従順なその獣を「いい子ね」と褒めていた。
「牙を折られて怒っていたのね。だいじょうぶよ、私がいるから。さあ、私のもとにお帰りなさい。だって、私たちは一つの存在だったのだから」
ヌシの鼻先にシオンが触れる。
途端、ヌシの体が急速に霧へと還っていく。
黒い霧はヌシに触れるシオンの手に吸収されていく。
ヌシは加速度的にしぼんでいく。
エリスも、キアも、シノノメも、ヴリトラも、コルネリウス警部も、その始終を呆気に取られながら見守っていた。
ヴリトラが胸を押さえてうずくまる。
「くそっ。何なんだよ、この動悸は。身体がうずきやがる……!」
彼は多量の汗をかき、呼吸を乱していた。
最終的にヌシは完全に黒き霧に還ってシオンに取り込まれた。真夏の陽炎が見せたまぼろしだったのかと疑うほどに忽然と消えうせてしまっていた。理解の範疇を超える出来事に、居合わせていた者たちはただただその場に立ち尽くしていた。
「私、思い出しましたの。本当の名前を」
シオンは儚げに微笑む。
無邪気さと大人の美貌を兼ね備えているのが彼女の魅力なのに、そんな笑い方はもったいない。場違いながらエリスはそんなことを思っていた。
「私の名前はアイオーン」
封印を解く呪文をシオンは唱えた。
足元から湧き出た黒い霧が彼女を包む。
彼女を取り込んだ黒い霧はすさまじい膨張をはじめ、ヌシをも超える大きさへと成長していく。不吉の前触れか、邪悪な空気が周囲に立ち込めていく。不定形の黒い塊は徐々に形を固定化していった。
まず、太った胴体と、それを直立に支える二本の脚と爬虫類の尾が形成される。
次に、前足から鋭い爪が伸びる。
そして、胴体の頂点から長い首が生えていく。
最後に、コウモリを髣髴とさせる翼が背中から広がった。
「……竜」
「シオンさんが、竜に」
漆黒の竜が長い首をめぐらせ、燃えるアクアを見下ろしていた。
赤い眼を光らせる頭が灰まみれの空を仰ぐ。
強風を伴う翼の羽ばたきで竜は飛翔する。立ち尽くしていた人間たちは瓦礫もろとも吹き飛ばされた。
燃え盛る街の上空を跨ぎ、北の更に北――瘴域へと竜は飛び立っていった。
残ったのは沈黙と停滞。
アクアを焦がす炎だけが唸りながら猛り狂っている。
「悪意の権化、邪悪なる侵略者、人類の敵対者……黒き竜」
エリスとキアを抱きかかえたシノノメが、堂々たる彼の者の異名を並べ立てる。
「シオンが魔王アイオーンだって? どういうことだよ!」
震える拳で地面を殴った。




