第17話:海の魔物はむさぼる
爬虫類の姿をした小型の魔物がついに甲板に上がってきた。
床に張り付く両脚を躍動させ、エリスとシノノメに攻撃をしかけてくる。
小型といっても、あくまでも海面から長い首を出している海蛇型の魔物と比較してである。漆黒のトカゲは、遠目から見れば軍用犬と見紛う影をしている。しかも、鉄鞭に等しき威力を誇る長大な触手を隠し持っているため、柔肌の人間など一撃で貫通させられる。船室に残っていた船員はこの魔物に全滅させられていた。
「海に落ちて!」
エリスが杖を振る。
爬虫類型の魔物は、飛びかかる向きを中空で直角に『転換』され、海に転落した。
「ドアを閉めろ!」
シノノメが叫ぶ。
「中にまだ人がいるかも!」
「もう『いない』さ。早く閉めろ。少しでも足止めしたい」
耳を覆いたくなるような悲鳴と断末魔はもはや船内からは聞こえてこない。それが人間と魔物、どちらのせん滅を意味しているのかくらいエリスにも理解できた。
甲板の扉に杖の先を向ける。
船の傾きにつられて開閉を繰り返していた扉が、魔法の力で完全に封じられた。
内側から衝撃音が断続的に響いてくる。鋭い触手が何本も鉄の扉を貫いてくる。
海が爆ぜる音。
二人の頭に水しぶきが降り注ぐ。
海蛇型の魔物が海面に頭を突っ込み、生き残りの救命ボートをまた一隻喰らっていた。
上下の激しい波に煽られて船が盛大に傾く。
船員の遺体が血糊の痕を引きながら甲板の端まで滑っていく。人形みたいに抗いもせず転がっていき、首や手足を変な方向に折りながら奇妙なポーズをとり、挙句は海にまっさかさま。
滑落する最後の一瞬、生命の光を失った双眸とエリスの目が合ってしまった。エリスはぶるっと身震いした。
シノノメの拳銃が火を噴く。
銃弾はむなしくも青空と海原の果てに消えたが、彼の思惑は達成された。
海蛇型の狙いがシノノメに向く。
「そうだ、お前の相手はこの俺だ」
脱出した船員の時間稼ぎを少しでも――この期に及んでシノノメは身を賭しておとりとなるつもりであった。
海蛇型が鎌首を振り上げて突撃の構えをとる。
シノノメが呪文を唱え、光の壁を張り巡らして船体を守る。
「来るぜ。うろたえるなよ」
エリスは歯を食いしばる。
魔物の頭が船体に急接近する。
すべてを喰らわんと最大限まで開かれたあぎとには、鋭利な牙が一列に生え揃っている。万が一にでも呑み込まれたら死は免れない。肉体は牙に噛み砕かれ、唾液で消化され、咀嚼されて血肉となるであろう。
海蛇型が突撃してきてから光の障壁に弾き返されるまでの刹那、エリスの脳裏にそんな残酷なる死の妄想がよぎっていた。滑り落ちていった血まみれの死体と自分の姿を重ねてしまっていた。
突貫の衝撃で船体が前後に激しく揺れる。
踏ん張って耐えようとするも、あっけなく足を取られて転倒する。揺れる甲板の上で散々もてあそばれた挙句、最後は鋼鉄の壁に背中をしたたかに打ちつけられてしまった。
海蛇型の二度目の突撃が船体の側面に間髪いれず繰り出される。その一撃も、シノノメが張った光の壁によって弾き返された。
前後の次は左右。
軍艦ニンバスは転覆の瀬戸際で危うげに揺さぶられる。
エリスは壁の出っ張りにしがみつき、海に放り投げられないよう懸命に耐えていた。
執拗にも海蛇型は再度頭を振り上げ、三度目の突撃体勢を取った。
「どんだけ来るってんだよ!」
おり悪く、攻撃の許容量を超えた光の壁に亀裂が走る。
次の攻撃はいなせない。
数秒後の結末を悟ったのか、シノノメはエリスを抱きしめた。
男らしい、頼りがいのある厚い胸と広い背中。程よく筋肉のついた両腕を精いっぱい使って彼女を包み込み、ほんのわずかでも衝撃から庇おうとする。
「エリスは俺が守る。絶対に守り抜くからな」
背中まで回されていた両腕がぎゅっと強まった。
恐怖していたはずのエリスは師匠の匂いを鼻いっぱいに嗅ぐ。
不思議と意識が凪いでいく。
自分にできること。
今すべきこと。
やるべきこと。
己に課せられた使命すべてを理解でき、実行に移すのを可能にする冷静さがエリスの中によみがえっていた。
「シノノメ先生。わたしも先生を守ります」
「……エリス」
「わたしだって結構、がんばるんですよ」
おどけた調子で笑ったエリスがシノノメの胸を押す。
力強く抱きしめていたはずの両腕は容易くほどけた。
杖の先を地面につけ、エリスは立ち上がる。
たっぷり力を籠めた、魔物の三度目の突撃がニンバスに襲いかかってくる。
エリスが保有する魔法の力が杖の先に集中する。
「逸れて!」
海蛇型の巨体が船体に激突する寸前、エリスが唱えた。
杖から放たれた魔法の光が放射状に走る。
直線的だった魔物の突貫の軌道がふいにくねる。
バランスを欠いた魔物は制御不能に陥り、あらぬ方向に突撃の向きを変えてしまい船体を逸れた。
横っ腹のうろこの模様がとてつもない速度で視界の端を流れていく。
狙いが外れた海蛇型の頭はニンバスの側面を擦りながら海に突っ込んでいった。
「あんなでかい魔物の動きまで『転換』するなんて」
「ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ魔物の向きを変えただけです」
致命的な攻撃を紙一重で回避して揺れが収まる。
魔物に異変が起きていた。
海蛇型は海面から再度頭を出してから大人しくなっている。鎌首をもたげた状態で呆然としている。体当たりの連続のせいで昏倒しかけているのか。
「生き残った船員は全員逃げたか」
救命ボートは魔物の攻撃範囲から安全区域まで脱出している。
「なら、次は俺の番だな」
シノノメが助走をつけて甲板から飛び降りる。
そして、自ら巻き起こした魔法の風に乗って上昇、飛翔した。
夏の青空を舞い、うなだれる海蛇型の頭上に着地する。
軍刀を逆手に持ち替える。
剣の切っ先を足元――海蛇型の魔物の脳天に突き刺した。
うろこ状の皮膚に刀身が中ほどまで沈む。
海蛇型の魔物はけたたましい叫び声を上げて悶絶する。
注連縄のような胴体がめちゃくちゃに暴れ、海が激しく波立つ。
散々のたうちまわった海蛇型は、最後は海面に横倒しになって霧に還った。
多量の黒い霧が海面から青空に立ち昇っていった。
ボートのスクリュー音が近づいてくる。
「シノノメ! 無事か!」
救助にやってきた警察のボートがニンバスの船体に横付けされた。
茶色のスーツを着た警部、クラウス・コルネリウスがボートに乗っていた。
エリスたちを乗せたボートが離れると船は爆発を起こした。燃料に引火して加速度的に炎上する鋼鉄の巨体は二つに折れ、魔物と魔王の心臓もろとも海底に沈んでいった。間一髪であった。
「クラウス、お前にまた貸しをつくっちまったな」
「俺は助けにきたのではない」
「どういうことだ?」
安堵していたシノノメに緊張が戻る。
「お前に助けを求めにきた」
警部の言葉の意味はすぐにわかった。
陸地に栄える港湾都市アクア。
繁華街から、否応なく胸騒ぎを掻き立てる黒煙が立ち昇っている。
化け物の怒り狂った雄叫びが陸から届く。
大気と海面が震えた。




