第15話:孤独な彼が秘めるもの
――記憶喪失の美人ピアニストがあの酒場で働いているらしい。
シオンの噂は、週末には街の隅まで広まっていった。
客足も順調に伸びていって、年かさのマスターが切り盛りする小さな酒場は猫の手も借りたい忙しさ。一過性のものだとしても問題は問題。これはこれで店を悩ませていた。
「あれって、もしかして」
シオンのピアノ演奏を立ち聞きしている青年がいる。
陽に焼けた肌、ナイフに似た鋭利な眼。
「ヴリトラくん! シオンさんの演奏、聞きにきてくれ……あっ」
大人びた雰囲気の店内に場違いな少女の声が反響する。ピアノとランチを堪能していた客たちのきつい視線が一斉に突き刺さり、エリスは慌てて口を手で塞ぐ。そして背を低くしてテーブルの影に隠れ、足早に店から退散した。
演奏のさなか、肩越しにウィンクを送る王女さまの背中が視界の端に映っていた。
「うわ……ちょっと暑いかも。くらくらする」
薄暗い地下の店から炎天下の屋外に飛び出したせいで、エリスは立ちくらみを起こす。ふらついたときに石畳の隙間につま先を引っかけて姿勢を崩してしまった。
転倒しそうになったのを誰かに抱きとめられる。
程よく筋肉のついた頼もしい腕はエリスを安心させた。
「気をつけろ。この辺は一等市民や貴族どもの車が頻繁に通る」
「ありがと、ヴリトラくん」
立ちくらみが治るまで彼の厚意に甘えていた。
◆◆◆
「今日さ、蓄音機にシオンさんのピアノを録音するんだって。ちくおんき、っていうのは音を記憶して、いつでも再現できる機械なんだよ」
「魔法の力が宿っているのか」
迂闊にもヴリトラが尋ねる。
「電気と機械の仕組みだけで動くんだよ。特殊なフィルムに音波の型を刻んでおくの。で、機械でフィルムをぐるぐる回したら記憶させた音が流れるんだって」
「口で説明されても俺にはさっぱりだ」
エリスの熱心な解説も甲斐なく、彼は終始眉間にしわを寄せていた。
「人の声も記憶できるのか? 音を留めておけるなんて機械も侮れないな」
「そうだよね! 機械ってすごいよね! 不思議だよね! 侮れないよね!」
「お、おう……」
興奮するエリスは鼻息を荒らげさせてヴリトラに迫り、彼をうろたえさせた。
「蓄音機の中身ってどんな構造なのかな、って言ったらマスターに嫌がられちゃった。あはは。ちっちゃいころ、家の電話ばらばらに分解してお父さんにこってり絞られたのに、反省が足りないなぁ、わたしったら」
「お前の家、電話があるのか。いや、マキナ家なら当然か」
「いやいや、お父さんが新し物好きなだけだって」
エリスと並んで市場を歩いていたヴリトラが、ふいに足を止める。
せき止められた人の流れが二人を境目に分流となる。
足を止めた場所は主のいなくなった露店。
野菜が山積みの状態でほったらかされている。
老若男女が行き交い活気付く、めまぐるしき大都市アクアの市場で、ここだけが時間の流れから孤立していた。
ヴリトラは山のいただきからニンジンを掴み取った。
そして瞳を閉じてうなだれる。
――先輩。
それは祈りを捧げているのか、仇討ちを誓っているのか。
エリスには判別できなかった。
「ほっぺに傷のついたあの露店の人、ヴリトラくんのお仕事の先輩だったんだよね。わたし、あの人におイモをもらったことがあって……」
「俺も恋人ができたとか冷やかされた。きっとお前も似たようなこと言われたろ」
「ご、ごめんね。迷惑だったよね」
「あの人にとっちゃ他愛のない軽口だ」
ヴリトラの返事の仕方はエリスを複雑な心境にさせた。
彼女とて人並みの乙女心は胸に秘めている。
「気さくで面倒見の良い人だと思っていたが、俺も所詮あの人の上っ面しか見えていなかったってわけか」
「どういうこと?」
「スラムにはろくでもない奴らばかりが住んでいる。だからろくでもない最期を遂げる奴も多い。俺はそんな連中を何人も見てきた。先輩も結局は同じだった」
四等市民の中には法を犯して行き場を失った、ならず者まがいな輩が多い。
近年、第二北区が犯罪者の隠れ家となりつつあるのを危惧した国は、定期的な摘発活動を警察と軍に命じている。おかげで治安は改善の兆しを見せつつある。少なくとも、エリスたち女の子が無傷で帰ってこられる程度には。
「おおかた、影でろくでもない取引に首を突っ込んでいたんだろうな。往々にして市場はそういう類の隠れ蓑にされている。暴力的な行為がなりを潜めた代わりにマフィアの『お遣い』が増えてきた」
ヴリトラの声色には、運命に抗うのに疲れきった諦念がちらついていた。
反社会的組織の手先に利用され、幾許かの見返りを得る……あるいは破滅に陥る。最下層民の烙印を押されし持たざる者の犠牲は後を絶たない。
「ヴリトラくんはどうなの?」
「何がだ」
「悪いことをして、お金をもらってるの?」
上目遣いで尋ねるエリス。
ヴリトラは彼女の頭に手をやり、とんがった三角帽子をぎゅっと押しつぶした。それが彼なりの親しみの表現らしかった。
「俺はバカ正直な性格してるからな。シノノメ先生のおかげで」
◆◆◆
ヴリトラと別れたエリスは、シオンと初めて出会った丘に足を運んでいた。
太い樹の幹に背を預け、木陰で涼む。
大海原とそれに寄り添う大都市を一望できる。
横長の集合住宅が対をなして並んでいる住宅街。白い石畳がまぶしい。一番背の高い建物は繁華街の百貨店だ。二番目は警察署だろうか。南区の高級住宅街には一等市民の住む豪邸が輝いている。北区には灰色の工場群とゴミの山。黒い霧が立ち込める砦が隣に。
駅から機関車が発車して、城壁そびえる王都の方面へ走っていく。力強い汽笛の音が風の助けを借りてエリスの耳まで届く。澄み渡る青い海には船がひっきりなしに行き来している。巨大クレーンを上下させるニンバスも相変わらず。
過去、港湾都市アクアは魔王との戦いで散々に破壊された。当時の痛ましい有様を写したモノクロ写真を、エリスは学校の授業で見たことがある。
十五年でここまで見違えるだなんて。
エリスは人間のたくましさを再認識した。
発展していく文明、貧富の格差、魔王の残滓、不穏なる殺人事件……港湾都市アクアは人間の産むもの吐くものもたらすもの、あらゆるものを受け入れて生きている。
「しっかし、今日もさっぱり釣れなかったな。はぁ、なんか釣りってつまん――」
年長者のプライドが働いたらしい。隣で釣竿の手入れをしていたシノノメは、情けない弱音を半ばで飲み込む。がんじがらめになっている釣り糸との闘いを再開した。
「ヴリトラくんってやさしいですよね。なんだかんだで」
「唐突だな」
「しょっ、初対面のときは『怖い人だな』って印象でしたから」
靴紐を結ぶふりをしながらエリスは言い繕った。
シノノメは「まあ、あいつコワモテだからな」と生返事。弟子のことなどそっちのけ。リールのより具合を直すのに躍起になっている。エリスは安堵した。
「あいつは金持ちを嫌っている。とりわけ、恵まれた境遇にいるのを意識していない者をな。そういう無自覚な人間がいる限りゴミ山が在り続けるって信じているんだ」
「それって、わたしのことですね」
「過去の、だな」
学校に通えず昼間から働く同世代の子供がいるのも、ゴミ山を寝床にする人たちがいるのも『現在』のエリスは理解している。誰も彼もが暖炉のある家で暮らし、昼下がりにお茶を楽しむ、そんな世の中なのだと信じていた箱入り娘から三歩程度は遠ざかっていた。
「でも、わたしはヴリトラくんやキアちゃんの境遇を変えられる力を持っていません」
「別にいいだろ。あいつらだってお前に救済なんて求めてねえよ」
鷹が優雅に旋回する青空。
シノノメはそこに向かって釣竿を掲げ、ぶんぶん振る。釣り糸がきれいに張り詰めた竿は柔軟にしなる。手入れはしっかり完了していた。師匠は満足げにうなずいた。
「肝なのはお前が大人に――魔動師になったとき、ここでの経験をどう生かすかだ」
◆◆◆
エリスとシノノメが帰宅すると、バラードが足早に二人を出迎える。
「シノくんにお客さまがね、いらっしゃったの……」
不安げに盆を胸に抱きしめている。
エリスたちが留守にしている間に客人が訪ねてきていた。客人は二階のシノノメの部屋に待たせているという。バラードの様子からしてあまり歓迎できる相手ではないらしい。
二階。シノノメの私室。
狭い部屋の真ん中でイスに座る男がいた。
海軍の制服を身に着けているその男は、イスから立ってシノノメに握手を求めてきた。あいさつのついで程度に彼の過去の功績を称えた。シノノメは握手に応じたが、空々しい世辞は無視する。
男は軍艦ニンバスの船員であった。石にされた艦長の後任が下した命により、非公式にシノノメを訪ねてきたという。イスには頭から足までを覆い隠せるコートがかかっている。晴れた夏の昼にもかかわらず。
思いがけぬ客人の内密の来訪。シノノメは口振りや顔色から彼の目的を注意深く探っている。何かしらよくない報せを届けにきたのをエリスも直感していた。
――至急、ニンバスまでご同行いただきたい。
思いがけぬ客人は簡潔に用件を伝えてきた。




