第11話:深淵からの呼び声
魔物の巣窟――瘴域。
光の遮られた邪悪なる領域は黒く濃い霧に覆われている。きらめく明け方の世界で、ここだけがなおも夜の闇が満ち、草木は萎れ、木漏れ日で温まるはずの地面は冷たく湿っている。打ち捨てられた砦は腐食し、葛が絡まって自然に取り込まれている。
陰鬱な空気に毒されたエリスとキアは顔色を悪くしている。
シオンは平然と黒い霧の中を歩いている。
「懐かしい心地になるわ」
「シオンさん、ここは魔物の住む場所ですよ」
「彼らだっているわ。ほら」
草むらから飛び出してきたリスが四人の前を横切った。
朽廃した砦の外壁で翼を休ませる小鳥が歌をさえずっている。正門に隠れてエリスたちを見張っている動物の影はキツネかタヌキか。見捨てられたそこは動物たちの住処という第二の生を与えられていた。
「暗くて怖い」
「あら、私たちだって夜の暗い時間になったら眠るでしょう? それって私たちが本能的に暗い場所に安息を見出しているのよ。闇はね、みんなにとって大事なの」
「でも、ここはボクの――」
黒い影が視界に飛び込んでくる。野生動物にしては大きい。
影の正体は昨夜遭遇した、獅子の姿をした魔物だった。
シノノメが腰を深く落として太刀の柄を握る。エリスも杖を両手に。
赤い両眼を光らせて人間たちを睨んでいた魔物は、ふと唸るのを止める。何の前触れもなく敵意をなくして黒い霧の奥に帰ってしまった。
エリスたちの後ろでシオンが魔物に手を振っていた。
「シノ先生。もっと奥へ行けませんかしら。呼んでいますの」
「呼んでいる?」
「ええ。黒い霧の奥で、私を知る誰かが」
瘴域の奥にあるのは、黒い霧を無尽蔵に生み出し続ける魔王の肉体の破片である。
瘴域を生む元凶を浄化する目的で、これまで幾度も軍の調査隊が派遣されてきた。富や名声を得んとする冒険者も数多挑戦してきた。しかし、瘴域が発生して十五年、黒い霧は未だ晴れていない。
「こんな場所に『誰か』なんているわけないだろ」
シノノメはシオンの予感を信じていなかった。
「俺とクラウス、キアの父親は昔、調査隊に志願した。瘴域の中心部は魔法の力で空間が捻じ曲がって迷宮と化していた。魔物も山ほどいたぜ。軍人と市民合わせて二十人いた調査隊は、帰るときにはたった二人になっていた」
「そんな恐ろしいものが……目と鼻の先あるんですね」
「みんな忘れたふりをしてる。キライなものを」
瘴域と街を隔てているのは木と廃材でつくられた申し訳程度のバリケードだ。せいぜい人間の侵入を拒む役割しか果たせない。瘴域の魔物たちが一斉に街に侵攻したらどうなるのか……エリスは身震いした。
「仕方ないさ。どうすることもできないのなら、いっそ忘れたほうが心をすり減らさずに暮らせるんだからな」
当面は瘴域に近寄るのを禁ず。
シノノメはシオンに再三釘を刺した。
瘴域を立ち去るとき、シオンは後ろ髪を引かれる思いで名残惜しんでいた。
◆◆◆
雑木林の訓練場でエリスは日課の素振りに励んでいる。
樫の杖は案外重い。
温室育ちのお嬢様は三十本目の時点で早々にくたびれていた。杖の重さに負けて前のめりになっており、白くてか細くやわらかい腕も小刻みに震えている。目標の百本どころか五十本に届くかも怪しい有様である。
「魔法使いも魔動師も、基本は体力と根性だ」
「ろっ、六十七……六十は、はち……」
息絶え絶えになりながらエリスは奮闘していた。
暇を持て余していたキアは、見繕った丈夫で水平な木の枝にぶら下がり、逆上がりをして遊んでいた。小さな体は枝を軸に軽やかに回転していた。
くるんと一回転するたび、シオンが「すごいわあ」と瞳を輝かせながら拍手して褒める。得意になったキアは遠心力に身体を乗せて宙を舞い、華麗な着地を披露した。
「逆上がり。お父さんが教えてくれた」
興奮冷めやらぬシオンは意気揚々、いざ自分も、と手近な枝を握る。身体を浮かせて体重を乗せると、枝が軋んで危うい悲鳴がした。
「私も挑戦するわ。キアちゃん、コツを教えてくださいな」
「えっと……代わりに草笛、教える」
ちぎった木の葉を口に当てたキアは息を送り、甲高い笛の音を鳴らした。鳥のさえずりに似た音色が木立に響き渡った。
シオンも両方の頬に空気をたっぷりと溜め、唇に当てた木の葉に息を吹きつける。いつまで経っても音は鳴らず、膨張していた頬がしぼむばかりであった。
◆◆◆
どうにかこうにか百回、杖を振り終えたエリスは、もはや腕の感覚を失っていた。
キアとシオンは切り株のそばで寄り添ってうたた寝している。
「シオンさんが何者なのかも不思議ですけど、おとといの夜に降ってきた隕石も何だったのでしょう。わたしの召喚術やシオンさんと関係があるのでしょうか。シノノメ先生」
「そうだな……」
眉間にしわを寄せ、腕組みし、うーんと唸りながら考え込むシノノメ。思案を続ければ続けるほどエリスの期待が高まっていく。長い長い熟考の末、彼はこう言って彼女を落胆させた。
「わからん」
「ええー? 散々もったいぶって、まさかその一言だけですか」
「わからんものはわからん」
非難するエリスに頑固親父の態度で対抗した。
ただ、と意味深に続ける。
「あれは隕石じゃない。別の何かだ」
「隕石じゃないのですか?」
「少なくとも、宇宙から落っこちてきたものじゃないのは確かだ。視認できるほどの隕石が宇宙から飛来したら、おとといの夜の時点でアクアは名前にふさわしい水の都になってたろうよ。あれは水柱が立ち昇る程度の比較的小規模な物体で、比較的低い上空を飛翔して降ってきた代物と考えられる」
「飛行船の墜落……流れ星に見えたのは、水素に引火して炎上した船体だったとか」
「だとしたら、徹底的に軽量化が図られた飛行船があんな派手な水柱を上げるのはおかしい。乗員の姿が見当たらないのも不自然だ」
しばし考え込んでいたエリスは「あっ」と閃いた。
「そういえば新聞に書いてありました。軍と警察が外国や武装勢力の兵器の可能性を視野に入れて調査している、って。まさか――」
「ああ。武力で大陸を制覇してきた俺らの国だ。味方が多ければ敵だって多い」
「戦争になっちゃうのでしょうか」
「回収されたブツ次第だな。いずれにせよ、今すぐどうこうとはいかんだろ」
世界を恐怖に陥れていた魔王が滅ぼされたからといって、諸外国との軋轢までは解消しなかった。むしろ共通の敵を失って以降、国同士の摩擦が浮き彫りとなってしまった。
宗教、貿易、移民、領土、人種……争いの火種には事欠かない。
平和の裏側で世界各国は虎視眈々とけん制しあっている。
一件華やかな港湾都市アクアでも、目を凝らせば暗部が浮かび上がってくる。
英雄たちが命をかけて戦争を終わらせたのに、人間同士のいざこざが始まるなんて愚か極まりない。純粋で素直すぎるエリスは心底そう憤っていた。
「っていうか先生、やっぱりわかってたんじゃないですか」
「あくまで想像だっての。案外、あのおとぼけ王女さまが乗ってきた星の船なのかもしれないぜ」
怖がらせるだけ怖がらせた分はそんな冗談で帳消しにされた。
「そんな心配よりもエリス、お前は自分の目標にまい進すべきだな」
「シノノメ先生を倒せば、って約束ですか? 本当に先生と戦うんですか?」
「殴り倒す以外にも俺を『ぎゃふん』と言わせる方法なんていくらでもある」
「倒す以外の方法……」
「あっと驚かせてくれる魔法、期待してるぜ」
――お前ら、風邪引くぞ。いい加減起きろ。
――……ん、特訓、終わった?
――うふふ、おいしいご飯がいっぱいあるわ……。
シノノメがキアとシオンを揺すり起こす。シオンがなかなか目を覚まさなくて、あまつさえ寝言まで言い出して彼を困らせた。
◆◆◆
くたびれながら帰宅したエリスは、すきっ腹をくすぐる匂いに誘われて台所に赴く。
彼女を待っていたのはバラード特製、白身魚のトマト煮だった。
「おかえりなさい。今日もがんばったわね」
エプロン姿のバラードが鍋をかき混ぜながらエリスを労った。
「ごめんなさいね。今日はおイモないの」
「い、いえ、わたしそこまでおイモ好きってわけじゃないので……」
あらそうなの、とバラードに意外そうな反応をされてしまった。例の不名誉なあだ名のせいで、知人らにイモの偏執狂だと勘違いされているのかもしれない。エリスは危惧した。
「あの、今日はバラードさんたちとご飯、食べていいですか?」
上目遣いでおずおずと尋ねる。
バラードは「お母さんが恋しくなっちゃったのかしら」といたずらっぽく言った。
快諾を得たエリスはさっそくシノノメを階下の食卓まで引きずってきた。スプーンを取る瞬間まで、彼はバラード親子と同席するのを渋っていた。嫌がっているというよりも、恥ずかしがっているように見受けられた。
エリス、シノノメ、シオン、バラード親子。
狭い台所の一角の狭い食卓。更にその小さなテーブルに五人が集まると随分と狭苦しい。五人分の皿が並んだテーブルはいっぱいいっぱいになっていた。フォークを動かすだけで隣の人を肘で押してしまう。
なのにエリスは、口に運ぶ料理が昨日までの何倍もおいしく感じた。
――ねえ、シノくん。二十年も前だったからしら。私とシノくんとクラウスさんの三人で蜂の巣をつついたの憶えてる? お魚を釣ろうとしてシノくんが溺れたのとか。そうそう、工場でかくれんぼして閉じ込められたのは?
――レア、こいつらの前で余計なこと言うなって……。
――あっ、それわたし聞きたいです。
――ボクも。
――私も聞きたいわ。
エリスたちにせがまれ、バラードは幼馴染三人との宝石のごとき青春時代を順々に語っていく。宝石箱にしまっていた宝物のうち、魔物に襲われた自分をシノノメが助けてくれた思い出は特別大事にしているようであった。饒舌になる彼女とは真逆に、思い出の主役は露骨に口数を減らしていた。
隔たりのない場所に皆が集う。
エリスが望んでいた理想の団らんであった。




