三語のおもちゃばこ3
「豆腐」「砂」「クラッカー」
課題は「メランコリー」
もともとの原因は先日スーパーで買った豆腐にあったのではないか。料理の苦手なわたしはそう合点した。だれも、悪くない。
一人暮らしをしている彼がいる。家デートをする。自然と夕食などを作ることになる。買い物をする。使わない食材を残して家を去る。後日また冷蔵庫を開ける。買い置きしていたはずの絹ごし豆腐が、白和えに化けて冷えている?しかもおいしそう?浮気疑う。彼否定する。浮気責める。彼逆ぎれる。白和え空を飛ぶ。そういうことが昨晩あったということなのだ。
せめて冷奴が冷蔵庫に鎮座していたなら、女の影を感じずにすんだものの「白和え」である。食べたことはあっても作ったことなどない。「なんだ?その年齢層の高い食べもの!」と口に出しそうになったところで一瞬頭を過ぎった微笑む見知らぬ中年女性の顔。「…やだ、作ったのはお母様?」なーんてわけねぇよ、彼のお母さんは鬼籍に入られているのだ。
で、いじけて海辺にやってきて、お酒を飲んでしまおうと思っているわけ。でもこういうときって悪いことが続くもの。間違えて無塩のクラッカーを買ってきてしまった。味なしクラッカーなんて、ただの口内水分吸収小麦じゃねぇか!と怒っても一人。
ふと、海水が塩っ辛いことを思い出し、きれいそうに見える砂をぱらぱらとふってみた。
日光消毒されているだろうから、へーきだろうとクラッカーにふりかけてみた。
口の中がざらざらざらざら。豆腐なんて買わなければよかった。買ってもその日のうちに食べてしまえばよかったのだ。
波の音を聞きながら、口の中の砂をビールで流し込んだ。
「にげぇよ!」と怒っても一人。怒る相手がいるだけ幸せなのではないか。あの冷蔵庫の白和えを思い出しながら、ビールを飲み続けた。
「ゴム」「シュシュ」「メロンソーダ」
ファミレスのドリンクバーに近い席が好きな男。
友人に彼の特徴を聞かれるたびにそう答える。
すると、友人たちは「は?」と呆れた声を出しながら、間抜けな形に口を開く。
その形は、アイスクリームのピノの形に似ている。もしくは餌を欲しがり水面で口をパクパクする、鯉。
わたしは、少し間を開けて「メロンソーダではじまり、メロンソーダで終わる男」と続ける。友人たちは「そうなんだ」と言ったきり、これ以上に彼のことを聞きたがらなくなる。
大抵、彼はお金がない。
ろくに働いていないのだから、仕方がない。
だからたまに出かける外食は牛丼屋さんやファミレスとなる。以前はラーメン屋さんにもよく出かけたが、昨今のラーメンは意外と値が張るということで、最近足が遠のいている。
ファミレスを彼が好きな理由は、ドリンクバーがあるからに他ならない。そして、必ずメロンソーダが入っている機械が設置してあるお店にしかいかないのだった。
「メロンの味なんて、一ミリもしねーな」と言いながら、細いストローで緑色の炭酸を飲み干す姿を何度見ただろうか。
今度こそ別れようと、毎回そう思っていても、顔を見ると言いだせなくなってしまう。
全てが中途半端な男なのだ。
フランス語の勉強をしたいと言い出し、フランス映画のビデオを古書店街のワゴンセールで買いだめしてきたことがあった。その日から、彼の部屋のテレビの画面の下はマジックで黒く塗りつぶされた。
字幕を見えなくするためだと言いながら、マッキーで液晶を塗りつぶす後ろ姿をわたしは暗い気持ちで見つめた。
フランス語で123も分からないくせに、いきなり字幕を消してしまうとは何事か。
つまり、彼は気持ちが先行してしまう、少し気の毒なタイプの人間なのだった。
ベッドの上でもそれはおなじで、何度ゴムをつけろと言っても、五回に一回くらいしか聞かない。それでも体を許してしまうのは、彼のムード作りが上手いからなのか、わたしがだらしないのかは分からない。
万が一子供ができたらどうしたらいいのかと、以前は悩んだものだが、今ではそんなことを気にもしなくなってしまった。
「なるようになればいいじゃない」という彼の口癖に感化されているのかもしれない。
今日もファミレスで彼はメロンソーダを嬉しそうに飲んでいる。
「なんでアイスを乗せたらメロンが消えてクリームになるのかな。クリームソーダ」と、今さら誰も何とも思わないような疑問を投げかけながら、わたしの目をまっすぐに覗きこんでくる。
今日こそ別れよう。世の中には男性はたくさんいる。今なら引き返せるのではないか。
そう思って視線を逸らしてテーブルを見る。
ふと、彼の右手首にドット柄のシュシュが巻かれているのに気付いた。
「ね、それずっとしてた?」そう聞くと「いや、お前がさっきトイレに立った時から」とシュシュをはずしながら笑った。
「あげようと思って。可愛いだろ? 髪も伸びてきたし、使ったらいいじゃん。シュシュってフランス語で『お気に入り』って意味らしいよ」
わたしは、シュシュを受け取り、手首に巻いた。
「『あの娘、僕のお気に入り』とかね、そういう意味で使うんだって。だから、ぴったりじゃない」そう言って、メロンソーダ色に少しだけ染まった氷を口に含んで、眉間にしわを寄せた。
その顔が可愛くて、ついつい別れ話をジュースで喉の奥に流し込んでしまう。
ろくに働いていなくても、全く働かないわけではなく、ゴムをしなくても、愛がないわけでもなく。安いものだが、プレゼントだってあったりするわけで。
ふと、そのドット柄の隅に新発売の発泡酒の銘柄が書かれているのを発見してしまった。
これは、つまり、六缶セットで買えばもれなく付いてくる的な、おまけ。
でも、仕方ない。喜んでしまったわたしの気持ちは素直な愛、かもしれない。
彼が「最後の一杯を」と言い残しグラスを持って席を立った。
「何か淹れてこようか?」そういう彼に首を横に振り、後ろ姿を見つめた。
ファミレスを出たら、レンタルショップに立ち寄り、吹き替え版のジャッキーチェンの映画を借りよう。酔拳がいいかもしれない。それを観ながら、冷蔵庫にあるであろうシュシュ付きだった発泡酒を全部飲みほしてやろう。
それから、きっと、飲むことに飽きたわたしと彼はベッドに倒れ込む。
おそらく、数回ゴムという言葉を発して、少しわたしは怒り、それでもまあいいかと、致し、眠る。
愚かしい。
しかし、愚かじゃない愛なんてあるんだろうか。
あるとしたなら、いや、あるとしても、わたしはきっと変わらずに、彼の隣にいて、汚くマジックが塗られた液晶画面を憎々しく睨みつつも、楽しく笑っている。
そんな笑っていられる自分が一番好きなのだから、結局のところは「自己愛」の結果が恋愛なのかもしれない。
そんなことをもしも言っても
「んなこと、どうでもいいよ」
きっと彼はそう笑いながら、シュシュでわたしの髪を束ねるだろう。
彼の指先で髪を梳かれる心地良さを思い出し、一人赤面する。
すこしでも早く彼がメロンソーダを持ってきて、一気に飲み干し、店を出て、一秒でも早く二人きりになりたいと、真面目な顔をしながらも実は心底愚かなわたしは考えている。
シーグラス、音楽、判子。
なつみさんが嫁いでから、隣の家からは音楽が消えた。毎日聞こえていたピアノを叩く音が消え、両親だけが残ったその家は、ひっそりと静まり返り、建物自体も急に年を取ったように見える。
僕は、先週なつみさんと砂浜を歩いた。
「慎ちゃん。わたしね、新しいハンコが欲しいの。新しい、主人になる人の姓のじゃなくて、名前の」
そう言ってなつみさんは笑った。
「なつみって?」
「そう」
「……分かった」
僕らは、それから黙って砂浜を歩き続けた。そして、まだ一度も「結婚おめでとう」と伝えていないことに気付いた。きっかけを失っていたし、なによりもそんな気持ちがないのだから、仕方ない。
ビーチサンダルで砂を蹴散らしながら、ただ、夕暮れの海を歩いた。お隣のお姉さんに憧れるなんて話、世の中にはごまんと転がっているだろう。
僕もそうだった、それだけのことだ。
なつみさんが、不意にしゃがみこんで鈍く光るガラスを拾った。
「これだけ、角が取れるまでにはどれくらいの時間がかかるのかしらね」
そう言って、小さなシーグラスを僕に手渡した。
「うんと……かかるんじゃない?」
「わたしが、慎ちゃんのこと忘れるのと同じくらいかしら」
そう言って、泣き出しそうな顔をした。
だったら、結婚なんて止めたらいいじゃないか。お見合いなんて、しなければよかったじゃないか。そう言いたいが、大学を卒業したものの定職にもつかず、実家で暮らし、たまに知人を介して入ってくる原稿の校正などをして食いつないでいる立場としては、口にできないのだった。
「名字はね、女性の場合は結婚や離婚で変わっちゃうけど、下の名前は、ずっと変わらないから」
そう言って、小さく笑った。
「好きじゃないなら、やめたらいいのに。結婚なんてしなきゃいいじゃないか」
僕はシーグラスを握って、勇気を振り絞った。
「結婚って、自分の為だけにするものじゃないわ。両親の為にするのよ。わたし、もう、そういう年なんだもの」
なつみさんは、とうとう泣きだして、大きな声を上げた。
泣きたいのはどちらか。不甲斐ない自分を責めながら、それでいながら、心のどこかで嫁ぐことに決めた彼女を責めている自分の器の小ささに、泣き出したくなる。
「帰ろう」
そう言って手を差し出した。なつみさんは泣きながらもそっと手を伸ばしてきた。お互いに伝えたいことは飲みこんで、漏れてしまったため息は波音が消し去ってくれる。僕らは、ゆっくりと砂浜を歩き続けた。
連載の続きが書けなかったので、三語でドロン。