000100_まさカリーパン【MASA-Curry Bread】
『ブルーヒル足柄、ブルーヒル足柄。お出口は右側です』
機械的な電車のアナウンスに二人の幻想は終わった。
運転手のいないこの街の電車はすべて自動で、人情がない。それだけが難点であった。
土地の標高は下がったのに車両は降らない。始点と終点の高さがほぼ同じなので、無駄なエネルギーは使いたくないらしい。今、下を見れば眼下に採光用の穴がいくつも見えるだろう。
そう思った神楽坂は背もたれの後ろの窓から外を見た。
しかし……
窓の先は一面の白。純白というより『無』の白であった。少しくすんで、それでいて綺麗だった。
神楽坂は慌ててあたりを見渡す。自分から見て右側と前。
そこも白であった。
自分からの距離にしておよそ1メートル。手を伸ばせば届きそうだったが、手が動かなかった。
「ほむら! ちょっと、周りが……」
「ほぇ!?」
ほむらは突然の出来事に驚いている。
『ドアが閉まります。ご注意ください』
(もう一度、状況を確認しよう。今、僕とほむらのいる席の中心から、半径1メートルほど球の中にいるような、そういう状況だ。その球に触れようとすると、金縛りにあったように体が硬直する。つまり、脳の働きを制御していることになる。でも、それは……)
「君たちみたいないちゃいちゃを見ると、気分が悪くなる人がいるくらい、知ってるわよね?」
その声は球の外から聞こえた。そして、球が揺らぐ。
「本当に君たちは迷惑ね。法律で禁止した方がいいのに……」
声の主は頭だけを球の中に突っ込んで言った。人形みたいなスッとした、ロシア系の顔立ちは不気味ならば余計に怖い。それも頭だけなら。
「このバーチャルエフェクトってまだ使えるのか?三上クラウディア」
「あら、ご丁寧にフルネーム。可愛くないわよ?」
頭だけの三上が足を残して、球の中に入った。
その頭から伸びる双曲の束は短い波長の光で、白い球の光を反射していた。孔雀という優雅な生物の構造色と同じだが、そのような優雅さはなかった。
見た目こそ、お屋敷に住まうお嬢様なのだが、何で買ったのか分からないギラギラの黄色いジャージ。腕に入っている2本の青い線が申し訳なさそうにしていた。
それでも、小田原工科高等学校の生徒会長である。神楽坂に仕事を押し付けるあれだ。
「君たち、二人だけで楽しいの? そうだ、まさカリーパン食べる?」
「じゃ、じゃあ、私貰う!!!」
ほむらは自分と神楽坂との間の席に座られて、少し動揺したが食べ物に負けた。
「あおいくんは食べないの? おぃひぃほにぃ」
「いらないよ、僕は。それよりも、食べながら話をするな!」
いつものように神楽坂はほむらを受け流す。そして、それをとてつもない素の表情で見つめる三上がいた。やはり虚無の顔が一番怖い
「このエフェクトって法律で禁止されてるんじゃないのか?」
「法律? 私にそんなものが通用するとでも?」
白い球のエフェクトはその空間に対して一切の干渉ができないように、人間の意識的な運動を制御してその空間への干渉ができなくなるというものだ。
簡単に言えば実際に無い『壁』だ。
現在は国の要人を護衛するための最終手段として、一部の人間に使用が認められている。許可なしに使えばどうなるかは知らない。
「善人による悪人の創造。これほど人に都合がいいものはないわ」
「訳の分からないこと言ってスルーしようとしてるだろ」
「んふふ」
二人の間を割って入ってきたため狭い。そして近い。ほむらは食べることに夢中で気にしていないが神楽坂は違った。
黄色いジャージのロシア系ツインテールという意味不明で、混沌な容姿は言いようのない威圧感があった。
「そうだ、忘れないうちに…… はい、頼まれてたもの」
神楽坂はそう言ってレポート用紙の束を渡す。明らかに生徒会の仕事である、この街の紹介文だ。『小田工祭』で使うらしい。
「悪いんだけど、今は受け取れないわ。ちょっと、これからいろいろあるのよ」
「そう言ったって、家に帰って明日も学校に来るだろ?」
神楽坂は当然のことを言う。明日は『小田工祭』の準備期間の初日だ。生徒全員が明日からの2週間と少しの間、学校に泊まる。
「んー、私ってさ、いつも眼鏡かけてるじゃない?でも今はかけてないでしょ?」
神楽坂は言われて初めてその事に気がつく。VRの発達したこの世界では眼鏡などと言った、人間の感覚器官の機能を補助する道具は必要ない。脳の情報を直接、書き換えれば済むことだからだ。
「いまどき、眼鏡なんてしてる方がおかしいけどな」
「ずいぶんと生意気ね。眼鏡だって今は作られてないから高いのよ?」
だったら、使わなければいいのに、と神楽坂は思ったが口にしない。
「とにかく、今は受け取れないわ。明日の朝の全体会議で渡して頂戴」
「ねぇ、なんの話をしてるの? あと、もう1個貰ってもいい?」
『まさカリーパン』を食べ終えたほむらは三上の持っている紙袋の中を漁る。ファストフードの店で出るような大きい紙袋の中には、袋の底が見えないほどの『まさカリーパン』が入っていた。
「おい、三上。こんなにたくさん、いったいどうするんだ?」
「ちょっと、これからパーティーみたいのことを、ね! 天野さん、好きに取って行って構わないわ」
三上の太っ腹な発言に、ほむらは大喜びして食べる。口でくわえながら、そして両手に2個ずつ、計5個もの『まさカリーパン』を貰っていた。
『大雄山、大雄山。お出口は右側です』
「さぁ、着いたわよ。降りないの?」
「だったら、この白いエフェクトを消してくれ!! どういう物かぐらい分かってるだろ!!」
三上は自分が作ったエフェクトの存在を忘れていた。エフェクトの発動者はそれに対して唯一、干渉できるので見えないようにすることも可能だ。
「いやぁ~ 見えないようにしてたら忘れちった! 的なキャラがいい?」
「乗り過ごしになるから、早くどうにかしろ!!!!」
「ちょっと待って、あおいくん!! まだ、食べ終わってないよぉ」
3人は何とか電車から降りることが出来て、ホームを歩く。
「本当に食べないの? 神楽坂」
「ここに住んでるんだから、食べないといけないんだよ? あおいくん」
必要以上に食べさせようとする二人を置いて、神楽坂は逃げるようにして走って行った。