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010100_ヤングの実験【Young's experiment】

 最後に瑠璃川が喋ってから、どのくらい経っただろうか。


 辺り一面が漆黒の色に染まって、体の感覚さえも感じることができない。まるで夢を見ているような、意識だけが活動しているような状態である。




『暗いな、瑠璃川』




 神楽坂は伝わらないと思いつつ、言葉を出そうと頭の中で念じた。




『……ええ、暗いわね。でも……仕方のない事のようね』




 頭の中で響くような瑠璃川の声の様な音がした。


 VR技術が発達してから、脳波のすべて、隅々までが解明された。それによって、脳波を利用した『脳波チャット』とでも言うべき通信手段が確立された。


 脳内で相手に送りたい文章を念じると、サーバーを通して相手の端末に送られる。そして、端末から相手の脳に波として放つことで、文章が再生されるというわけだ。




 人間、一人一人のシナプス接続回路のパターンは違っていて、相手の脳波のままでは理解が出来ない時がある。人間個人の思考を、機械のプロトコルに直し、それを相手側の思考に翻訳する。


 つまり、今、瑠璃川からの通信が入り、正しく翻訳されたことは、外部のサーバーがしっかりと機能していることになる。




『繋がったな。これで一安心出来るな』


『バカじゃないの? 何が一安心よ、私の苦労も知らないで! どうしてこんな、忙しい時に、あんたと通信なんてしないといけないのよ……』




 瑠璃川からひしひしと、怒りの感情が入ってきているのが分かる。神楽坂の心の中で、瑠璃川の感情が再現されたかのような、正確性のある感情だ。


 しかし、本来の脳波通信では、実際の通話の様に感情が伝えられる事はない。そんなことが可能になったら、文明は滅びるだろう。




『神楽坂はさっきのVR空間、どう思った?』


『どうって……。凄い再現力だった。特に涙の運動とか、流体力学の再現度は驚いたよ』




 確かに、あれは凄いと思う。瑠璃川の瞳から流れ落ちた一粒の涙は、加速運動をしながらも、軌跡を少量の水分を残して作った。


 それが服に落ちて浸みていく過程は、実際の光景よりもなめらかな運動だった。




 しかし、実用化されているVR空間の再現度はそれほどでは無い。悲しい感情が理解できれば十分で、誰も、涙の運動がどうであっても、気に留める事は無かった。


 それ以前に、そこまでの再現度を実現するためには、想像を絶する計算速度が必要だ。それを数百万人分まかなうのは不可能だった。




『まさか、涙の運動を再現するためだけに、量子コンピューターを?!』


『そう、量子系ね。別に十六人までなら、圧縮ミクロ型で十分よ。涙の運動だって、過去の演算の再現だし』


『量子コンピューターじゃ無いのか……』




 相変わらず、暗黒の空間に意識だけが浮いている。まるで本格的な金縛りにでも遭っているのでは、と思うほど体の感覚が無い。


 体を動かす為の演算を行っていないのか、起きていたときに比べ、頭の回転が速くなった気がする。これは神楽坂だけでなく、瑠璃川も同様だ。




『神楽坂、勘違いしてないかしら? 外部と繋がってるから一安心だって』


『は? 違うのか?』


『ええ、違うわよ。この空間、いえ、私の空間と言った方が近いかしら。いつものVRシステムとは隔絶されたプログラム、それが私の空間よ』




 そう言ってから瑠璃川は長々と話した。


 私の空間は大きな演算装置、大電流が必要らしい。大電流を電池で持ち歩くには無理があるので、電源は外部に頼っていた。


 演算装置が停止する事は殆ど無く、先程から続いているブラックアウトの原因は電源の喪失だろう、とのことだ。


 現在、意識だけで会話が出来るのは、演算装置の少容量の電池が内臓されていて、それが脳と脳を繋ぐための装置となっているかららしい。




『つまり、外部に助けを呼べないってことか……。電池が切れたらどうなるんだ?』


『……っ。電池が切れたら、ねぇ。単純な話、この空間は完全に亡き物になって、私達は永遠に目覚めることの無い、魂の抜けたタンパク質の塊……って感じかな?』




 瑠璃川から単調な、軽い口調で言葉が伝わってきた。しかし、瑠璃川の心拍数が上がって体が震えているのが、手に取るように神楽坂の心の中に伝わる。




『……って、怖いな。ただ待つだけ、それしか出来ないのか』


『ただ待つだけじゃないわよ? 私は、私の気が済むまで、心置きなく、好きなだけ、神楽坂を罵り、バカにして、いじり倒す事が出来るのよ?


 最後の晩餐よりも素晴らしいと思わない?』




 瑠璃川のその強い意志が、神楽坂の頭の中でガンガンに響く。


 神楽坂も少しながら助からない可能性を見出だしていた。瑠璃川が強気な態度を取るのと同じで、内心では無関心でいた。


 怖いとか悲しいとか悔しいとか、マイナスの感情がひとたび発生すれば、神楽坂と瑠璃川とでその感情が木霊し、指数関数的に増大していく。死の可能性と共に、人格崩壊の可能性に気が付いた二人はそう言った感情を出すまいと無理をしていた。




『あのさ、瑠璃川。凄いと思うよ、瑠璃川がやって来た事は。短期間で世界の覇権を握り尽くすとか、僕には絶対に無理だと思う』


『な……何よ、突然。そう、よ……あ、あんたが出来る事は私がした素晴らしい功績の、ヨクト倍以下よ! 10の24乗の逆数より小さいのよ!』




 再び、瑠璃川から強い熱が感じ取れた。負のオーラをストップしようとどりょくしているのに、二人でケンカなんてしたら、意味がない。みみっちい意地の張り合いなど、以ての外。


 神楽坂は瑠璃川の感情を落ち着けるべく、褒めて気分を良くしようとしたが、逆効果だった。




『確かに――僕は瑠璃川には到底及ばない。学力みたいな知識では同レベルでも、思考力とか決断力、発想力はヨタとヨクト程の差があると言ってもいい。それなら、苦労も比例する。相当、辛いと思う』


『……何? 何が言いたい』




 またも、熱く強い熱が伝わってくる。岩石が煮えたぎるような高温と、遠く太陽からの電磁波の強さの様な、激しい感情が二人の空間を支配した。怒りの波と恐怖の波の干渉結果は、一つの意味を持つ波となる。




『つまり……自分よりも凄い人を僕は心から尊敬する。その人が苦しむのなら、せめてこの場だけでも助けたい。だから、瑠璃川がどんなに僕を悪く言っても、問題ない』


『随分と私に都合がいいのね。本心?』


『ああ。瑠璃川が望むなら何でも』




 二人の空間で震動していた一つの波は、急激に力を弱めて消えた。そして再び、似た周期の波が起こる。




『……な、名前……。名前が……』


『へ? 名前が?』




 再び出来た波は瞬く間にその周期を早め、加速していく。




『名前で……呼んで、よ。呼びなさいよ!』




 遂に、波は大きく振幅し、周期を測ることすら憚られる。




『わかったよ、……未来。……これで良いのか?』


『良くない、わよ。もっと、私の好きな様に』




 新たに、波は落ち着きを取り戻した。




『なあ、る……未来。助かったら――』


『嫌よ。名前を呼んでいいのはこの空間だけ。現実世界で呼んだら、ここに逆戻りよ』


『最後まで言わせろよ……。まあ、言いたいことはあってるけど』




 二人の心はスッと軽くなり、瑠璃川の空間が暗黒の世界から解放される。まさしく、宇宙の晴れ上がりとでも言うべき、美しい宇宙(そら)の輝きが始まる。




『ふふ。合ってるならいいじゃない。そう思わない? (あおい)くん』

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