001110_ジレンマ【Dilemma】
神楽坂は合成革のソファに座った。向かいには天津美佳。左隣には瑠璃川がいて、斜め左は志那水がいる。
「あなたが志那水さん?神楽坂の友達にしてはイケメンじゃない」
隣の瑠璃川が、工業科の志那水に話しかけた。
神楽坂とは中学からの知り合いで、この学校にはスポーツで入った。足が速くて体格も良く、神楽坂よりもイケメンであると言う事実は変わらなかった。
当然、有名なこともあって学校での人気は高く、特に女子からの視線が熱い。
しかし、少しだけ致命的な欠点があった。
「君って凄いのね。美佳と一緒だったみたいだけど、邪魔して悪かった?」
「あ、あの。邪魔とかそんなじゃなくて……ですね、関係がある、とかないって……です」
瑠璃川が志那水の方を見て質問してから、このやり取り悪かったするまで、長い時間がかかったようだった。
「だったら何で、志那水と美佳さんが一緒にいたんだ?」
推測を否定しようとするのは少し難しいが、事実を話すことは簡単だろうと、神楽坂がフォローのつもりで質問した。しかし……
「私はただ、志那水さんが用とあっただけで、好意とはそんな感情が無いですよ。あ、でも、嫌いって言ったる訳じゃないですぅ……」
「日本語、上達したわね。美佳って前は全然だったのに、今は意味が分かるわ」
神楽坂が出した助け船は天津が代わりに答えることで、ステアリン酸の膜のように広がって散った。
今の時代、言葉の壁は殆ど無くなっている。コンピュータで翻訳が出来るのは当然の事実で、自分の耳に知らない言語が入ってくると自動で母国語に変換される。コンピュータの翻訳は直訳よりから意訳に変化していき、豊かなコミュニケーションが出来るようになっている。
そのような翻訳ソフトを使っていれば勝手に翻訳されるのだが、このソフトを話し手と聞き手が使っていないと機能しない。神楽坂や瑠璃川は常時起動しているが、話し手の天津は使っていない様だった。
つまり、今、天津が言った言葉は自分で勉強して、自分で考えて間違えた、と言うことになる。
「やはり、私、言葉、おかしいです、か?」
「そんなこと無いんじゃないか。伝われば……」
「美佳。あなたは何でいつも翻訳ソフトを切っているの? 私達もあなたも、不便でしょ」
瑠璃川は美佳に親しげに話した。確かに、瑠璃川が言ったことには頷ける。常に使っていれば勝手に翻訳され、無理をして知らない言語を話す必要は無くなる。
しかし、改良に改良を重ねたバベルの塔以前のコミュニケーションと同じ、言葉の壁が無くなる道具には瑠璃川も知らない欠点があった。
「私で使うと壊れるのです。どうやら、母国語はおかしいみたいで……」
美佳は俯きながら答えた。普通じゃない自分が嫌と思うほど、恥ずかしくなって顔を隠したくなったのだろう。イメージが重要なモデルの場合は尚更、人に見られてはいけない。
「そうね、美佳は特殊だからね。ウィーンで初めて会ったとき、英語も日本語も出来なかったし。やっぱ、母国語が無いんじゃない?」
――母国語が無い――そんなことがあるのだろうかと神楽坂は思ったが、少し考えて思い出した。
バイリンガルと違って使える言語能力がその年齢で相応しくない。つまり、どの言語も十分に使いこなすことが出来ない、ダブルリミテッドと呼ばれる人々がいる。
酷く言えば、バイリンガルになることが出来ず、どの言語も習得出来なかった人のことだ。その程度は人によって様々で、明らかに問題がある場合や誰も気付かない場合もある。
天津はその間、コミュニケーションを取る分には差し支えない。
「母国語が無い人がいるのは知ってたけど……天津さんと瑠璃川は知り合いみたいだけど、どういう関係?」
「そのうち教えてあげるわ。今は用事があるんでしょ? ねぇ、美佳」
瑠璃川のその言葉に、美佳は俯いていた顔を上げ、前髪を左右に分けた。テーブルに置いていた頭を上げるときに髪がパサッ、と動いた。
黄金に輝く絹のような、艶があって光沢がある美佳の髪は染めたモノでは無いようで、全く傷んでいなかった。髪の根本から美佳の腰に至るまで、長い髪のすべてがそのような状態なことは、日本人らしい名前からは全く想像がつかない。
誰がそんなことを思っているとも知らずに、美佳は神楽坂との用と言う奴について口を開いた。
「2年前で今日、あなた、神楽坂さんが何処でいたのか教えて下さい」
「2年前?」
突然、2年前のことを聞かれても、周期表のランタノイドとアクチノイドを覚えられない神楽坂にとっては、その日がとてつもなく印象に残っていないと覚えていない。
そう思っていると瑠璃川が横から割って入る。
「2年前の今日。5月31日は私が全世界のネットワークを掌握して、新しいVRネットワークを構築する偉業を、たった一人で半日で達成した人類史上で最大のターニングポイントよ」
「……。こんなに自分のことを美辞麗句で固めるのが瑠璃川さんでしたっけ?」
「……っ。え、ええそうよ、そうに決まってるじゃない! 人間は自分より下等なバカどもを見て幸福を感じ、優越感を得るのよ。人間の世がいつ終わるか分からない今、私は可能な限り幸福を得たいのよ」
瑠璃川は多少言葉に詰まりつつも、神楽坂の指摘を認めて自分の言葉に酔いしれる。確かに瑠璃川がしたことはとても凄い偉業であるが、ヒーローのように正体を隠したことで有名人にならず、こっそりと社長の仕事をしていた。
二年前の今日が歴史に残る大事件の日だったことは思い出した。神楽坂自身もその日、出かけようと駅に行くとでたらめな情報が飛び交って交通機関が乱れきっていた事を覚えている。
「その日はどこかに出かけようとして、駅に行ったら凄いことになってて……」
「でっ、そのあとでどうしたの?」
「え……。えっと、そのあとは……」
そのあと――美佳に聞かれて神楽坂は返答に詰まる。
そのあとの事はほむらから口止めされていて、「もしも誰かに言ったらあおい君を殺して私も死ぬ」と言って聞かなかった。
別に自分が死ぬのはいい、と神楽坂は思っていた。しかし、そのせいで人が死ぬのは嫌で、その死を悲しむことが出来ない事がとても心残りになるんじゃないかと思っている。加えて自分のせいで人が死ぬ事も嫌いだ。
だから、誰が何と言おうと言うもんかと心に決めたのだ。あ、でも、言わないと死ぬって脅されたらどうしよう。ジレンマ? 進退両難?
「だから、二年前の偉業の事も覚えていない神楽坂が、そんな小さなことを覚えている訳無いでしょ」
「そうなの? じゃあ、未来ちゃんどうすればいい」
「さあ? 知らない」
瑠璃川は心無く知らないと、ただそれだけの言葉を美佳に返した。




