魔窟
女の肌は、生まれたての赤子のように瑞々しかった。
二十歳前後だろう、深夜だというのに疲れを微塵にもださず、生命力すら感じさせた。
丁寧に礼をとり、跪いている。踊り子というだけあって、仕草のいちいちに花があった。
そんな若い女を前にして、自分の老いに焦りを感じているショウギは不機嫌である。いらいらと扇を弄んでいる。
カグラは内心呆れながら、その後ろで立っていた。
間諜の一人に、踊り子を使ってはどうかと持ちかけたのはショウギなのだ。だから一番人気の娘を選び呼んだ。自分から言っておいて何を…。本日何度目になるか分からないため息をこっそりとつく。
ただし、笑みは絶やさない。
この笑みも、薄紫の目も、銀色の髪も、声も、女を虜にするには十分効果を発揮している。とりわけ娘に威圧的に話をしているショウギに。
「我に話を聞かせよ」
「わたくしは一介の踊り子にございます。ショウギさまのお耳に入れるような楽しいお話など、恐れながら持ち合わせておりません」
娘はにっこりと笑う。
もしかしてこの娘は、喧嘩を売っているのだろうか。
自分の美しさを熟知した上で見せつけるような笑顔は、若干嘲笑しているようにも見えた。
面白い娘だ。
「お名前は何と言うのです」
唐突にカグラがきいた。
「マイムと申します」
凛とした声でマイムが答える。
ちらりとショウギを見ると、こめかみに筋が浮いているのが分かった。
カグラが娘に名前を聞いたのが許せないのであろう。
踊り子の立場を使って、情報を集めてこい。そして報告しろ。そのような旨を単刀直入にいうと、娘はかしこまって即引き受けた。
「どのような報告をお望みなのですか」
「アナンとリウヒじゃ」
吐き捨てるように、王子と王女を呼び捨てにした。
御意、とマイムが礼をする。
さがるように、とショウギが扇を振りながら、あさってを見た瞬間。
カグラはマイムが、礼の下ではっきりと嘲りきった笑みを浮かべたのを見て取った。
ああ、この娘はおれと同じ匂いがする。
そう思いながらマイムの後ろ姿を見送った。
その姿が消えるや否や、ショウギが縋りついてくる。どうしてあんな娘の名前を聞いたりするのだ、わたしに飽きたのか、わたしはあなたに捨てられたら生きてはいけないではないか、哀れっぽく訴えてくる。
まるで餌をとられた犬のようだ。
「あなたを悲しませてしまって申し訳ない。名前は、便宜上必要だから聞いたまで。わたくしが、あなたに夢中なのはよくご存知でしょう」
ショウギの髪をひと房とって口づけしながら、そうささやく。
なぜ女はこういう歯のうくような言葉が好きなのだろう。
多分、自分の存在意義を見つけたいのだろう。心からの言葉だろうが、つまらぬ世事だろうが、己を認めてもらう事に満足しているだけに違いない。
目の前の女はまだ鳴いてくる。
ここ最近、さらに纏わりつく様になった。王が寝込んでからだ。この女も不安なのだ。なにか縋るものがほしいのだ。
「ショウギさま。アナンさまが正式に次期後継者として認められましたね。どうなさるおつもりですか」
さらに揺さぶってみる。もっと怯えるがいい。もっと怖がるがいい。
案の定ショウギは震え、カグラに抱きついた。
「そんなことおっしゃらないで。そんな恐ろしいことおっしゃらないで。あなたが守ってくださるのでしょう」
誰が守るか。
火種をつけたら、煽って炎を大きくする。その炎は美しいことだろう。
おれはそれを見ながら嗤ってやるのだ。この醜悪な宮廷を燃やして嗤ってやる。
震える女をかき抱きながら、カグラは優しほほ笑む。
「当たり前のことを聞かないでください。わたくしが命の限り、お守りいたします」
****
「自分の身は自分で守らないとね」
自分に言い聞かせるように、マイムは呟いた。
夜空に月はなく、星たちは遠慮がちに瞬いている。
ショウギに呼ばれた。間諜のまねごとをしろと言われた。腹が立った。
「あたしを巻き込まないでよ」
勝手に自分らで騒いでいればいいじゃないか。迷惑この上ない。
どうせ、色々なところに間諜を放っているに違いない。保険の一つなのだろう。踊り子は確かにいろんな所に出入り出来るし、王族とも接点が多い。でも、踊り子ごときに容易に重大な情報を渡すだろうか。渡すはずがない。それをやれという。
しかし、断れば殺されるのは分かっている。そういう奴らだ。だからすぐに受けた。
ショウギ。
昔は、嫌いではなかったのに。もう少し道理をわきまえれば、うまいやり方なんてたくさんあるのに、何が望みなのだろう。王位か。まさかね。
初めて近くでみたショウギの顔は、年には勝てず肌が乾いていた。化粧もひび割れていた。
こっそり笑ってやった。あたしの方が女として上じゃないの。そう思った。
神経質にわめく年増女の、その後ろに立っていた銀髪に同情するわ。あの男だって何か考えがあって、ショウギのそばにいるのだろう。
権力が蠢いている下に、純粋な愛なんてあり得るわけがない。あの男は多分、あたしと同質だ。女の直感だった。
アナン王子とリウヒ王女。
王子の方はよく出入りする。本人がくつろいでいる横で歌うのだ。楽師らの奏でる音に合わせて。自分の声も楽器のようなものである。目の前で舞うこともある。王子本人にも、何回か声をかけられたことがある。いい男だ。頭の回転の速い人なのだろう、とても楽しかった。周りも本当に慕っている、そんな雰囲気がした。
あの人が、王になればいいのに。素直にそう思う。
王女の方はまったく接点がない。数年前に寝ているところを起こそうとして、威嚇された。それだけだ。いや、トモキとかいう少年が、確か王女に仕えているといっていた。
弟と同じ名前をもった男の子。
初めて、素直に話せた男の子。
あれから二、三回会話を交わした。世間話とか、天気などの話だ。それでも心が和んだ。あの子には、ここのいざこざに巻き込まれてほしくない。媚を売ることに疲れた自分の大切な時間なのだ。
マイムは髪をかきあげ、小さく息を吐いた。
仕方がない。
あの後輩らのさえずりに耳を傾けてみようか。何か出てくるかもしれない。
トモキは巻き込まない、そう決めた。
あたしにだって汚されたくないものがあるのだ。
****
誰にだって汚されたくないものがある。
トモキの場合は、リウヒだった。
赤子のリウヒを見た時は、世の中のどんなものからも守る気でいたし、道を外れたら手を引いて、自分が正しいと思う方向に戻してやろうと思った。
しかし、世の中は自分が思っているほど甘くはなかった。
もっと巨大で、どす黒かった。
世界はただ美しいだけじゃない。醜悪な闇だって背負っている。
カガミがいびきをかいて寝ている。
介抱が大変だったが、出せるものをすべて出すとそのまま寝てしまった。
今度は、部屋へ引きずっていくのに苦労した。
シラギと二人、飲みながらぽつぽつと話をしている時、どうしても胸の奥で引っかかっていた事を聞いた。
リウヒはどうしてあんなに変わってしまったのかと。四年前に再会した時は別人かと思った。素直で可愛らしい幼子が、闇を纏った理由が分からなかった。
「それを聞くのか」
シラギが苦しそうに言う。
「聞く覚悟があるのか」
だまって頷いた。
「少し風に当ろうか」
椅子をたって、部屋を出る。前を歩くシラギの背中が、気のせいか気落ちしている。
東宮の庭園に出た。
たまに、ここでマイムと会う。最近知り合った、きれいな女の人だった。
会話は世間話やどうでもいいことが主だったが、マイムの日に輝く髪だとか、少し物憂げな横顔を見ていると、胸の隅っこがキュンと縮んだ。
「お前がいつそのことを聞いてくるのか、本当は気が気じゃなかった」
シラギが庭石に腰かけながら低い声で言う。
「だが、聞いてきたら、包み隠さず全部言おうと思っていた」
まるで、トモキにではなく近くにある御影石に語りかけるようであった。
リウヒが東宮に入った時、小さな王女は喜んで走り回った。自分の寝室に驚き、美しい衣にはしゃぎ、それはもう無邪気で可愛らしかったという。
ひとしきり騒いだ後、帰ると言い出した。「にいちゃんとかあさんのところに帰る」と。
これからここで、暮らすのだ、あの村には帰れない、と伝えても聞き入れずに大泣きした。
実母であるイズミにも会ったが、母は見向きもしなかった。人形をわが子と思い込んでいてリウヒには一瞥もしなかった。リウヒもイズミを母と思っていなかったらしい。
かあさんは、いつも台所にいるの。あんな顔していないの。あれは違う人だもの。
国王は幼い王女を膝に抱き、非常に喜んだ。
初めて手にした娘である。その日は、ずっと膝に乗せ政務をこなした。周りの臣下も、その溺愛ぶりを微笑ましく思った。
「ところが」
シラギの声が絞られるように掠れた。
「陛下が夜な夜な、リウヒさまの寝室を訪れるようになった。人払いをして」
トモキが弾かれたようにシラギの顔を見た。
苦しそうに歪んでいる。
「それからだ、王女の様子がおかしくなったのは」
まず、人に怯えるようになった。肌に触られるのを嫌った。表情が消えた。心を閉ざし敵愾心を露わにするようになった。殻に閉じこもる。癇癪をおこす。すぐに逃げる。
トモキは大きく息を吸った。吐き気がする。腹の底が熱くて気持ち悪い。
だから、肌に触られるのを嫌がるのか。
少女が纏っていた闇は、自衛のものだった。
部屋から逃げるのは、逃避の為だった。
幼女は必死に身を守ろうとした。
「イズミさまが亡くなった頃には、もう陛下は東宮に姿を現さなくなった」
「どうしてあんたは止めなかったんだっ!」
激情のままシラギの襟もとを掴み揺さぶった。シラギはなすがままになっている。
リウヒの近くにいながら、気が付いていながら、なぜ止めなかった。なぜ少女の心が壊れていくのをそのまま傍観していた。
「どうしてあんたは…」
声が擦れているのが分かった。喉が焼けつくように痛い。怒りのあまり世界が回転しているようだ。
初めて人を殺したいと思った。
皺だらけの国王も、目の前のシラギも、世の中のすべてを本気で殺したいと思った。
こんな事が許されていいのか。ここは何なのだ。
まるで
「魔窟だ」
「どうしたんだ、呆けた顔をして」
リウヒがトモキの顔を覗き込んだ。
びっくりして、身を引くと壁に頭をぶつけた。リウヒがケラケラと笑う。
昨日は一睡もできなかった。シラギの告白を聞いてからの記憶がない。それだけの衝撃だった。目の前の笑っている少女を見ると、目の奥がツンと痛くなる。胸が引き攣れる。
そんなトモキにまったく気が付かず、昨日な、とリウヒが話し始めた。
「ジュズから面白い話を聞いたんだ」
教師の老婦人である。口うるさく怖いが、リウヒは孫のような感覚なのだろう、甘やかしている節があり、授業中にもいろんな話を聞かせてくれた。名家の出のくせに昔、放浪の旅をして各地を転々としていたそうだ。
「西国には、誕生日という風習があるらしい」
「誕生日?」
うん。少女はなぜか得意げだ。
「普通、年齢というものは年が明けると、みんな一斉にとるものだろう」
「そうですね」
「ちがうんだ」
リウヒは椅子に腰掛け膝を抱える。
「生まれた日にちに年をとる。しかも、親しいものたちでそれを祝うそうだ。貴賎に関係なく」
「祝う?では祭りが開催されるのですか?」
「多分」
トモキは首をかしげた。それでは人口がおおい都など、どうするのだろう。毎日どこかしこで祭りが開かれているなんて、陽気すぎて想像ができない。
「素敵じゃないか。自分の生まれた日が特別なんだぞ。それぞれ個別に年をとって、それを祝ってもらえるなんて」
うっとりとリウヒは語る。
歳なんてものは、自分を表わす記号にすぎない。便利にすぎない。でも、自分が生まれた日、大切な人が誕生した日を特別なものだとするその風習は、確かにひどく素敵なものに思えた。
「リウヒさまは、ご自分が誕生された日をご存じなのですか」
それならば、その日を皆で祝福してやろう。身内でひっそりと。祭りとはいかないまでも、カガミやタイキ、ジュズ、女官三人娘やシラギもよんで。
シラギ。胸が再び引き攣れた。憎い気持ちが腹の底にくすぶっている。
いや。みんな知らぬ振りをしていたのだ。あいつらみんな。
「知らない」
リウヒが首を振った。
みな、生まれた年は知っていても、日にちまでは知らない。重要ではないからだ。トモキも自分の生まれた日は知らない。
「では」
この少女に、記念日をつくってやろうと思った。
「わたしがリウヒさまにお会いした日を、誕生日にするのはいかがでしょうか。その日なら、わたしもよく覚えております」
うん、うん、とリウヒもうれしそうにうなずく。
「お前が、入廷した日…」
記憶を辿るように遠くを見る。ふと眉をひそめた。
「いつだったっけ」