炎上
その深夜。
結局トモキは誰にも何も言えずに、自室の寝台で丸くなっていた。勿論寝付けない。
シラギやカガミ、女官たちに、何か起こるかもしれない、と何度も伝えようとしたが、無理だった。突っ込んで聞かれるのが怖かったのである。下手に話して、マイムに迷惑がかかる可能性があった。しかし、命にもかかわる事なのだ。
明日、絶対話そう。
詳しく聞かれたら、とぼければいい。そう思い、蒲団をかぶろうとした瞬間。
爆発音が近くで聞こえた。
連続して三度、四度。
トモキは勢いよく飛び起きると、窓に走った。身を乗り出すようにして外を見る。
まさか、まさかこんなに早く起こるなんて!
西宮が燃えている。側室と二人の息子が住んでいる宮だ。炎の塊が屋根を飲み込み、さらに燃え上がった。本殿は見えないが、空が明るいことからして、燃えているのは確実だろう。熱気と焦げくさい嫌な臭いが風に乗って届いた。
急いでカガミを起こす。
「大変です! カガミさん、起きて逃げて!」
弾む肉を乱暴に叩き、蒲団をはがすとオヤジは身を縮こまらせた体勢で驚きのあまり固まっていた。よし、起きた。
カガミをそのままに残し、部屋を飛び出る。目指すはリウヒの寝室。月明かりがあるのが幸いし、全速力で走る。走りながら警備兵たちが、本殿の方に走っていくのが見えた。
下の方では、人の叫び声、馬の嘶きが、走っていても聞こえて混乱している様子が分かる。
本殿は…巨大な紅の化け物が暴れまわっていた。のたうち回り、咆哮し、燃え盛る手で柱を抱いた。瓦を吹っ飛ばした。
その迫力たるや、思わず立ち止まって魅入ってしまいたくなる。しかし、トモキは走らなければならない。東宮に入った。騒ぎの中妙に静かで警備兵もいない。寝室の扉の前には兵は立っていなかった。声もかけずに中に入る。走る勢いで入ったので、大きな音がした。
中央に大きな寝台があり、天蓋から薄布が垂れ下がっている。所々、金の刺繍が施されている薄布だった。その中で、人影が素早く動いて警戒心を露わにした声を出した。
「誰だ」
「トモキです」
言いながら、許しも得ずに薄布をまくるとリウヒが寝着で構えていた。左手は枕の下。
「謀反が起きました」
リウヒの顔に緊張が走った。
「ここから逃げます、寝着を脱いでください」
喰台を掴んで廊下に出た。まだ人の気配はない。リウヒの寝室の向いに衣装室がある。王女の衣や櫛などの装飾品が管理されている部屋だ。その中を漁る。闇に紛れるようなできるだけ目立たない衣を探す、ふとトモキは気が付いた。自分も寝着である。が、この際自分には構っていられない。
「これは…」
女官の衣だった。リウヒのお付きの三人娘。なぜ彼女らの制服がここにあるのだろう。しかし、濃紺でこれなら目立たない。リウヒの元に戻る。
王女は寝着を脱ぎ、待っていた。急ぎ女官の制服を身に付け、枕の下のものを帯下に入れた。
二人で部屋を飛び出し、走る。どこに向かうんだ、と聞くリウヒに、城下へ、と叫んだ。
宮廷は広大なれど、広場のようなものはない。空中庭園は、本殿より下に位置するため危険である。となれば、外に向かうのが一番安全だ。
門自体が開いてないかもしれない。しかし、状況が分からない今、行くしかない。
東宮を出る間際、トモキは掴んでいたリウヒの寝着に気づき、庭に投げ捨てた。
全速力で走る二人を、不審に思うものはいなかった。それどころではなかったのである。
突然、地響きのような音が聞こえた。続いて建物が崩れ落ちる音。
「ああっ!」
振り向いたリウヒが声を上げる。トモキも振り返った。
本殿が、崩れた。炎が勝利の雄叫びをあげるように、天に舞う。トモキの入廷時、その堂々たる佇まいで圧倒した宮殿の姿はもうどこにもなかった。今や、紅の化け物に包まれた黒い屍であった。
その時、後ろで笑い声がした。遠くで男が一人、両手を広げ大声で笑っていた。まるで嬉しそうな歓喜の声。銀色の髪が風に煽られ炎が紅くその姿を染め上げていた。もしかしたら、狂ってしまったのかもしれない。が、構っている暇はない。
立ち止まったリウヒを促し、再び走りだす。
正門をくぐりぬけ、長い階段を降りる。足が縺れそうになるのを堪えおりきると、そこは蜂の巣を突いたような大騒ぎだった。みな、一様にどこに向かえばいいのか分からず、どうしたらいいのか分からず、大声で叫びながら右往左往しているだけだ。ほぼ侍女や兵、下端の者たちだ。
「外へ!城下へ避難せよ!」
リウヒが叫ぶ。
彼らはうろんな目で少女を眺め、それから弾かれたように大門へ向かって走り出した。先頭を切るのはリウヒとトモキ。日頃の追いかけっこで培われた足が、こんなところで役に立つなんて。どうでもいいことをトモキはふと思った。
馬が一頭繋がれていたまま、暴れていた。嘶きながら前足で地を蹴っている。ご丁寧に鞍までついていた。
馬の方が早い。
とっさに判断したトモキは、その背に跨ると胴を蹴った。前を走るリウヒを馬上から掴み前に押し込める。驚いたのと、触られたのでリウヒが暴れた。
「暴れないでください。今落ちると死にますよ」
抱え直すとリウヒは大人しくなったが、走る馬の上でも分かるほど震えている。
大門についた。
幸いなことに門は開いており、人も少なかった。もしかしたら、みな外に避難するという発想がないのかもしれない。宮廷の中で暮らす末端の者は、手紙のやり取りは許されても外に出られない。親兄弟が亡くなったときだけである。自由に外に出るものは、王の勅命を受けたものか、王族、上位のもののみ。商人を除き、下端の者が出入りすることは許されない。ゆえに外の事に無関心になってゆく。
門番はトモキの顔に気づき、慌てて飛び出してきた。なにがどうなっているのか泡を食って問う。
「騒ぎが起きたんです。逃げる人たちが殺到するかも知れませんが、大通りに誘導してください。あなたも気をつけて」
馬頭を巡らし叫ぶ。再び胴を蹴ると、馬は嘶き前足をかいて走り出した。
夜が明けてきた。
都から大分と離れ、馬を歩に変えたころリウヒの様子がおかしいのに気がついた。真っ青になって震えが酷くなった。呼吸も荒い。トモキは無言で、馬をおり手綱をとった。未だにトモキでも触れられるのを拒否する。胸が痛んだ。リウヒは黙って下を向いている。
ふと後ろを振り向くと、都から煙が昇っているのが見えた。普段なら朝日を受けて悠然と輝く宮廷の屋根が、今では消えてただ黒い煙を立ち昇らせているだけだ。
「宮が…」
同じく振り返っていたリウヒも同じ事を思ったのだろう。女官たちは、カガミたちはどうなったのか。シラギは、そしてマイムは。昨日の昼まではあんなに平和に見えたのに、あの小さな庭園も消えてしまったのだろうか。
もし謀反ならば、今宮廷に帰ってもリウヒが危ない。
しかし、これからどこへ向かおうか。金ももっていない。
シシの村へ戻ろう。
母に迷惑をかけるかもしれないが、そこしか思いつかない。
トモキは歩を早める。
陽が昇り、二人の姿を照らし始めた。
****
太陽に照らされた宮廷…、否かつて宮廷だった地は見るも無残な残骸だけが残った。
炭になった黒い骨組から煙が立ち上っている。本殿と西宮は消滅した。無事だったのは東宮、南宮、北宮、南寮、住宅部、そして北寮の一部。
シラギは、木にもたれ疲れたように髪をかき上げた。実際ひどく疲れていた。体が動かない。
昨夜の爆発音で目覚め、すぐさま本殿に駆け付けた。
現場は混乱の極みで、それはもう酷い有様だった。
「落ち着け! まずは陛下の御身を!」
動揺して走りまわる兵を叱咤し、門外の大通りへ促すよう指示する。馬を駆け大門以外にも開けるよう命令した。王族の安否は確かめられなかった。いざという時のために後宮の一角に、一族の避難場所がある。だがそこには誰もいなかった。王もいなかった。
太陽の光が目に刺さる。辺りには、呆然と座りこんで動けなくなったものや、ただ立ち尽くして焼け跡を眺めるものが多かった。避難したもの達が、ぞろぞろと戻ってきている。
とりあえず、宰相を探さなければ。
木から身を起したとき、声をかけられた。振り向くとカガミが立っていた。所々煤汚れ、顔にも煤が付いて黒ずみ、汗で照かっていた。いつも天辺に集めている髪は、一部縮れ完全に垂れ落ち犬の耳のようになっている。滑稽よりも悲惨さを醸し出していた。
「よくご無事で…」
「はい。トモキくんに起こされなければ、きっと死んでいました」
トモキとカガミの部屋は燃えたという。あの居心地のよい部屋も消えたのか。三人で酒盛りをした部屋。シラギは思わず目を閉じた。
「ぼくの…ぼくの本も燃えてしまいました」
数冊は持ち出せたのですが、全部は無理でした。とカガミは泣いた。小さく声をあげて。
「命が助かっただけでも、よかったじゃないですか」
どう言葉をかけていいのか分からない。本の価値は、大学まで通ったシラギも知っている。
しかし、とカガミがぬれた顔を上げた。
「トモキくんはどこにいったのだろう」
「王女もまだ見つかっていないのだが」
もしかしたら、二人は一緒にいるかもしれない。だとすれば、安心だ。この外に出ていればいいが。中はまだ油断ができない。
突然カガミがトモキの実家を聞いてきた。シラギさんはご存知でしょう、と。もちろん知っている。教えるとオヤジはふんふんと頷いて、じゃあ、と歩いていった。
あの人はこれからどうするのだろう。その後ろ姿を見送りながら、そう思った。
そこへ、女官が走ってくる。かわいそうに、あちらこちらは煤で汚れていた。
「申し訳ありません、右将軍さま。ショウギさまがお呼びなのですが」
シラギは目を丸くした。何の用だ。
****
もうここに用はない。
カグラは、晴れやかな気持ちで空を見上げた。雲ひとつない青空で、鳥が声をあげて飛んでいる。その下では醜悪な黒い塊が、今もなお煙をあげていた。
炎は美しかった。想像していたよりも、はるかに美しく猛々しかった。
特に本殿の、天に昇ろうとする赤い火柱は華麗に踊り、あの中にうごめく汚い奴らを浄化してくれた。
気が付いたら、笑っていた。空に手を広げ、炎を称えるように笑っていた。これが望みだったのだ。笑いは止まらず、ますます腹の底から湧いてきた。体中を駆け巡るあいつらも、喜ぶように跳ねている。炎はそんなカグラに、応えるように祝福するように天に舞う。
満足だ。
カグラは笑いを収めて踵を返した。
すべては順調に進み、そして終わった。
権や金には全く興味がない。凛気もちの年増の相手をするのも嫌だった。
側室とその息子たちはもういない。西宮は炎にまかれて消滅した。
東宮の寝室は誰もいなかったが、しかしどうでもよかった。もう一切合財、自分には関係ないことである。
遠くにシラギの姿が見えた。疲れたように木に寄りかかっている。
生真面目な性格だから苦労するのだ。もっと適当で良いのに。
かつて剣を交えた男。そういえば、言葉を交わした事もなかった。違う出会い方をしていれば、また異なる関係になったかもしれない。
白将軍、黒将軍という試合後、誰からともなくつけられた名を思い出して、カグラは苦笑した。腹の中はきっと逆だろう。
馬舎にいって、適当に一匹拝借する。
門はすべて解放され混乱状態が続いている。正面の一番大きな大門は、人々が出たり入ったりの状態だった。
それを尻目に悠々と門を出ながら、カグラは思う。いっそ、口笛でも吹きたい気分だった。
約束は果たした。
さて、どこへいこうか。
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どこか遠いところへいってしまおうか。
マイムは腕を組み、自室の窓から外を見た。窓枠に寄りかかる。外に出る機会は今しかない。門付近は、人だかりがしていて右往左往している姿が見て取れる。列を乱された蟻のようだ。
さて、自分の身の振り方だ。宮廷はこれからショウギの天下になるだろう。国王は殺すまいが、王子たちはきっと消されている。幽閉など生易しいことなどする女ではない。トモキが大切にしている王女は生きているのだろうか。そしてあの子は無事逃げられたのだろうか。
そうであることを祈った。
ショウギ。マイムは顔を歪め頬に手をあてた。一度、扇を投げられたことがある。勢いよく顔にあたり、怒りで頭が白くなった。よく収めたものだと自分をほめてやりたい。
あんな女の下に仕えるのはもうまっぴらだった。
「外に出よう」
腰をあげて部屋に戻る。衣装箪笥の戸をあけ、衣をかき分けると木箱を取り出した。ここ数年間こつこつと貯めてきたお金。さらに奥には今までの貢物の宝玉や飾り物がある。それらを無造作に袋にいれ、風呂敷に詰め込むと異様に重くなった。
ここは幸い火事の被害にあわなかった。もし、燃えて焼失したら気が狂っていたかもしれない。身を汚して手に入れた大切なものたち。自分の存在価値以上のものだった。
だって、世の中はお金で動いている。お金はあたしを裏切らないもの。
外にでてどうしようか。生まれ故郷の村に帰りたくはなかった。宮廷で華やかなものを見続けてきたマイムにとって、あのさびれた漁村には身を置きたくなかった。
手の中で冷たくなっていった弟。死ぬ間際、マイムを何度も呼んだ。
自分を売った両親。親と離れたくなくて、男に手をひかれながら振り返ると、両親はすでに背をむけて家路へついていた。あの時の絶望感は一生忘れない。
嫌な思い出しかない村だ。誰が戻るか。
出てから考えよう。
よいしょ、と風呂敷を抱えそんな声をだした自分に苦笑する。いやだ、まだ二十四なのに。
外にでると焦げくさい臭いが鼻についた。いつも遠くに見える本殿はその姿がなく代わりに灰色の煙が上がっていた。
またあの巨大な建物をつくるのか。ご苦労なことだ。
門に向かっている途中、シラギが女官に案内されて橋を渡るのが見えた。あの、女官の制服はショウギ付きのものではないか。ということは、シラギもついにショウギに下るのか。あの、無愛想面はきっとショウギの怒りを買うに違いない。その点、カグラはいつも笑顔を貼り付けていた。気持ち悪いくらいの微笑。どちらもいけ好かない。あの二人、足して割ったら丁度いいかも知れないのに。いいや、もう自分には関係ない。
振り返り、かつて「天の宮」と称えられた残骸を見上げる。
さようなら。
十八年間過ごした宮廷に別れを告げてマイムは門を出た。
****
女官がシラギの来訪を告げた。扉が開かれる。
中に入ってシラギは驚いた。この事態にしっかり化粧をほどこし、豪奢な衣をまとうショウギはどうでもいい、その後ろに立っている男である。その顔は憔悴しきっておりまるで亡霊のようであった。
「よう参ったの」
膝もおらず、憮然と立っているシラギにショウギは若干苛立ちを含ませた声をかけた。
「この度の火災にてそなたの活躍ぶりは聞いたぞ。礼をつかわす」
無言。
「これより一層、我のために働いておくれ」
「お聞きしますが」
伺いも立てず、シラギが口を開く。
「国王とその一家の安否をご存じか」
ショウギは扇を口に当てて、ほほ笑んだ。
「ほんに、右将軍は愛想の欠片もないのう。そう思わぬかえ、のう」
後ろに立つ男は、は、と答えたきり何も言わない。ショウギの顔がひきつった。
「国王は無事じゃ。我が宮でご休憩遊ばしておる。ご体調がすぐれぬゆえ寝台にふせっておいでじゃ。側室どのとそのご子息たちは、残念ながら炎に巻き込まれ御命を…」
そういって悲しそうに顔を扇で隠した。どうせ笑っているのだろう。
「王女の行方は」
臣下の言葉ではない。さすがの無礼にショウギは顔をゆがませ上げた。
「王女は行方不明じゃ。しかし報告では寝着が庭で発見された。無事でいるわけがない」
お可哀そうに、とまた扇を開いて顔を伏せる。
シラギは衝撃をうけた。
まさか、死んだのか。それか誰かに誘拐されたか。もしかして…。思考が回転してうまく立っていられない。表情は変わらずとも顔色が変わったのだろう、そんなシラギの顔を見て、ショウギは微笑む。
「まあ、我としたことが。大丈夫じゃ、右将軍どの。きっとご無事であらせられるよ」
「もうひとつ。いつもあなたの後ろにいるのは左将軍だったはずだが」
「あれはこの混乱にのまれ、行方が知れなくなってしまった」
切なそうに溜息をついた。それはどうでもいい。なぜ宰相がここにいる。なぜ父が。
宰相は諦めきった様に首をふった。
それでは。とショウギが扇を振りながら言った。勝ち誇った気持ちの悪い笑顔。
「父と子で我のため、ひいては国王のために力を貸してたもれ」