ジェンダー論の極めつけの誤謬
精神分析学の創始者、ジークムント・フロイトは、このような説を唱えたらしい。
「少女は男根羨望を持つようになる」
つまり、女性は“男性になりたい”という願望を抱くようになるというのだ。
これを知った時の僕の正直な感想は「何を言っているんだ? このおっさんは?」だった。
もし仮にこれが正しかったとしても、多分、男性優位社会だけだと思う。ヨーロッパ社会は根強い男性優位思想があるから、きっとその影響もあるのだろう。今は既に随分と男女平等が進んでいるはずだから、もし仮にフロイトが今の時代の人だったなら、こんな説は唱えていなかったのじゃないか……
と、そう僕は思っていたのだけれど。
「――納得いかないんですよ、佐野さん」
そう園田タケシ…… 通称、ソゲキと呼ばれる僕の後輩は言った。スマートフォンを僕に見せて来るので、何事かと思って見て確かめてみるとアメコミの女性キャラクターが映っている。問題はそのデザインで、何故か非常に男性っぽく描かれていた。僕の記憶では、そのキャラクターは以前はもっと女性的な魅力のあるデザインのはずだった。
つまり、女性キャラを男性化しているのだ。
「おかしいでしょう?」と、僕の表情から僕が何を考えているのか察したのか、ソゲキが同意を求めて来た。
僕は頷く。
「ああ、」
“これは、もしかしたら、フロイトの男根羨望説が、今でも、アメリカでは通用しているって事じゃないのだろうか?”
だからこそ、こんな男みたいなデザインに女性キャラが描かれるのかもしれない。“女性は男になりたがっているはずだから、女性にしてあげました”、みたいな感じで。男女平等は、アメリカでは進んでいないのだろうか?
僕、佐野隆とソゲキは二人とも大学の新聞サークルに所属していて、今はそのサークル室にいる。僕がフロイトの“男根羨望”について知ったのは、その新聞サークルでの活動が切っ掛けだった。今度、大学で討論イベントがあるのだけど、そのテーマが“ジェンダー論”なのだ。それで我が新聞サークルでもジェンダー論を扱う事になったものだから、僕はそれについて調べていたという訳だ。当然、ソゲキも同じだろうと僕は思っていたのだけど、
「え? 好きなキャラがこんな事になってショックを受けていただけですが?」
なんて返して来た。思わず、殴ってしまった。
「――そうね。今のアメリカとかヨーロッパの男女平等は私もおかしいと思う。多分だけど、女性原理的な価値観が存在するという事すらも理解しないまま、男女平等を進めようとしてしまっているのじゃないかしら?」
鈴谷さんに意見を求めると、彼女は珍しく素直にそう教えてくれた。僕は彼女に惚れていて(それはもう惚れまくっていて)、それでしょっちゅう様々な理由をつくっては彼女の許を訪れているものだから、実は普段は半ば呆れられているのだ。
民俗文化研究会のサークル室内、酷く狭いその部屋で、彼女はいつも一人で本を読んでいる。
鋭い視線。いつも着ているスーツが、それを強調しているかのように思えた。分厚い眼鏡越しに真剣さを感じ取った僕は、彼女がこの件について強い問題意識を持っているのだと悟った。
「女性原理って?」
と、僕が尋ねると、軽く迷ってから彼女は説明を始めた。
「例えば、誰かが誰かの為に料理を作ってあげているとするわね。ここで、その誰かは部下か何かで雇われているかで上の立場の人の為に料理を作っていると捉えたのなら、それは“男性原理的な価値観に基づいている”と言える。支配被支配の関係。優劣がある。でも、子供だとかペットだとか、庇護対象に食事の世話をしていると捉えるのなら、“女性原理的な価値観”に基づいていると言えるわ」
「ああ、なるほど」
なんとなくイメージできたかもしれない。
「価値観によって物事の見え方はまるで違ってしまう。だからこそ、短絡的な決めつけは駄目で、文化的な背景なり、文脈なりを理解するのが大切なのだけど、それができていない人が多過ぎるのよ。特に近年のアメリカやヨーロッパのポリコレを観ているとそう思えるわ……
それがよく分かるのが、最近実写の映画になった、白雪姫かしら?」
「ああ、酷い評価だったやつ」
「そうそれ。その映画の中で、白雪姫は家事をしないらしいのよ。恐らく、製作者側は男女平等を反映させたつもりなのでしょうけど、それが男女平等になってしまうのは“男性原理的な価値観”しか考慮されていないから。つまり、家事をする女性を下の立場だと考えているのね。
でも、“女性原理的な価値観”に基づくのなら、“家事をしてあげる”のは、決して下の立場じゃない。家事を軽視するのは、専業主婦を馬鹿にしているとも言えるし、物事の捉え方がシンプルに過ぎる。ポリコレって、“多様性を受け入れる”って理想を掲げているはずなのに、おかしいでしょう? 多分、そもそも“女性原理的な価値観”の存在を知らないのよ。いいえ、きっと、知ろうともしていないのだと思う」
そう言い終えた彼女は、心底呆れているように思えた。僕は鈴谷さん説明に大きく頷く。女性キャラの男性化を知って以来、何か違和感があったのだけど、彼女の説明のお陰でよく理解できた。
「その話、面白いね。新聞の記事の参考にさせてもらうよ」
「記事? テーマは何を扱うの?」
「ほら、今度、大学でジェンダー論の討論会があるでしょ? それに合わせて、新聞サークルでもジェンダー論を記事にする事になってさ……」
それに彼女は「へえ」と返した。ところが、それから「……でも、」と言ってこう続けるのだった。
「確か、その討論会って、出席するパネラーさん達が、険悪な雰囲気になっていて、けっこうまずい状態になっているのじゃなったかしら?」
僕はその言葉に「へ?」と思わず目が点になってしまった。まったく知らない情報だったからだ。
――ジェンダー論・パネラー 佐和美香のエッセイ
『医科大学、女性差別の不正入試と、外科分野における男性社会の閉鎖性』
かつて医科大学の入試において、女性受験者が差別されていた事が発覚した事件がありました。女性受験者達は不当に減点されていたのです。当然ながら、女性差別であるばかりでなく、受験者に知らされていなかったのですから、詐欺に等しい犯罪行為です。この所為で、医科大学へ入学できなかった女性達の心中を考えると激しい憤りを覚えます。
ですが、医科大学側にも反論があり、このような不正受験を行った背景には、女性医師の高い離職率があるのだそうです。特に外科などの特定の分野は女性には人気がなく、女性の医大合格者を増やしてしまうと、医師の労働力不足が更に増し、労働負担が重くなってしまう懸念があると主張されています。
仮にその主張の正当性を認めるにしても、受験制度の見直しや働き方改革によって対応するべきですので、元より不正入試を行う理由にはなりませんが、それ以前に、この主張には問題があります。
実は、外科を代表とする医療分野には、閉鎖的な男性社会にありがちな人間関係の問題がある事が、日本だけでなく、世界的に知られているのです。端的に表現してしまえば、医療現場が“権力闘争の場”になってしまっているのです。医師達は互いに権力を競い奪い合い、結果として医療技術が優れていない者がオペを担当する事もあれば、チームワークの乱れによって医療事故を引き起こしているとも言われています。
このような典型的な“権力に拘る男性社会”において、女性が蔑視されるだろう事は想像に難しくなく、それが外科などから女学生を敬遠させる原因になってしまっている可能性はかなり高いと考えられます。
もちろん、このような要因がなくとも、女性が外科を代表とする特定の医療現場を選ばないといった事はあるのでしょうが、医療現場の方が女性を拒絶していて、受け入れる土壌がないといった要因も間違いなく存在するでしょう。だからこそ、女性の多くは外科を選ぼうとはしないのです。
或いは、このような問題は医療に限らず、様々な業界に観られるのかもしれません。男女平等問題がなくとも、“仕事の場を権力闘争の場として捉えてしまう”男性社会の特性が問題なのは言うまでもありません。その為には人間関係全体を良好に保つようマネジメントする発想が求められ、そこには女性的な価値観が必要なのではないかと私は考えます。
「……これが、今回の討論イベントのパネラーの、佐和美香という人のエッセイなんだが、これを読んで感銘を受けたのがもう一人のパネラーの桐島真知って活動家で、今回の討論イベントは、それで実現したらしいぜ」
そう火田修平が説明した。
「だけど、今はこの二人は喧嘩しているんだろう?」
と、僕が言う。
「だな」と、火田は返す。
「まぁ、喧嘩ってぇか、一方的に桐島真知が怒っているだけみたいなんだが」
僕は悪びれる様子も見せない火田に噛みついた。
「どうしてそれを教えてくれなかったんだよ? こっちは記事を書いているんだぞ?」
「何言ってるんだ? この二人が喧嘩していても、記事には関係ないだろうが。人間関係をネタにする訳じゃないんだから」
「でも、」
「“でも”じゃねぇよ。そもそも、どうしてお前は知らないんだよ? 知っているものだと思っていたぞ、俺は」
新聞サークルのサークル室で、火田を見かけた僕は、半ば文句を言うように討論イベントのパネラー同士が喧嘩しているという噂話の話題を振ってみたのだ。すると、こいつは既に色々と知っていて、詳しく教えてくれたのだった。
「仕方ないだろう? 記事を書くのに熱中していたんだから」
「討論イベントの記事を書くんだから、パネラーも調べろよっ! ったく」
うちのサークル室は、かなりの殺風景で椅子と机とパソコン以外はほぼ何もない。何かを食べる以外のこの部屋の使い道は、だからほぼサークル活動しかない。ソゲキは何の目的もなく訪れたりもするが、あいつは例外だ。火田はどうも新聞記事の件で、ちょうどそのパネラーについて調べている最中だったらしい。ノートパソコンを開いていた。
「それで、どうして喧嘩しているんだよ?」
きっともう調べ終わっていると当たりを付けて尋ねてみると、彼は頭を数度掻いてから、
「桐島真知が、佐和美香に怒っているんだよ。ちょっとした…… というか、かなりの意見の違いがあったんだ。二人ともフェミニストっぽいんだが、どうもかなりスタンスは違うみたいだな。その所為で認識の齟齬があったみたいだ」
桐島真知は近年の、主に欧米などで盛んなフェミニズム運動に傾倒しているらしい。女性の社会参画や、女性を性的対象として観る事への忌避があり、どうも火田の目から見ると過剰に思える主張をしているようだった。
「俺は近代の欧米の性道徳が全てじゃないって思っているんだが、どうも彼女は正しいと信じて疑っていないって感じだな」
「はあ、なるほど……」
ネットでよく嫌われているタイプだ。
それに対して佐和美香は、もっと視野が広いのだそうだ。例えば、女性のセックスワーカー…… 性風俗で働く女性達を頭ごなしに否定したりはしない。フェミニズム活動家の中には、セックスワーカーを男性社会の犠牲者“性奴隷”として捉える人も多いそうなのだけど、彼女はそうは考えていないようだ。
『セックスワーカー本人が、どのような意識を持っているのか、コントロールできているかどうかが重要で、安易に否定するのは違うと思います』
などと語っているらしい。
性の文化を否定するのであれば、それだけの根拠と証拠が必要だというのが、彼女のスタンスだ。
「性の文化を否定するにしろ、肯定するにしろ、背景と文脈がある訳だろう? それをまったく掘り下げないで、ただ闇雲に否定したって何にも解決しないよ」
火田はそう言った。どうも佐和美香の意見に賛同しているようだ。
意見を述べるだけじゃなく、実際に彼女は自分でも色々と調べていて、『セックスワーカーの多くは、自分を性奴隷だとは思っていない』と結論出しているらしい。更に言うと、女性達が性風俗で働く背景には、貧困問題が色濃く横たわっている場合もあるから、それを解決しなくては、本質的な解決にはならないと考えてもいるようだ。ただ単に犯罪として取り締まれば、アンダーグラウンド化し、女性達は更に悲惨な境遇に追い込まれる危険が高い点も懸念している。
「これは俺の感想だがな。佐和美香はかなりの勉強家だよ。彼女の主張の全てに同意する訳じゃないが、傾聴するに値する考えを述べている」
佐和美香は自然保護活動や、動物保護活動にも熱心で、病気の動物の世話なんかもやっているそうだ。経営難で困っている動物園の動物の世話をボランティアで行っていて、最近では心身面で不調を抱えたオランウータンの面倒まで見ている。そのオランウータンは、彼女には心を開いているのだそうだ。
「なんか、佐和美香の話ばかりで、桐島真知の方はほとんどないな」
その僕の指摘に、火田は軽く溜息を漏らした。
「仕方ないだろう? ほとんど論文とかエッセイとか書いてないんだから。俺が見つけられたのは、ゲームのこの表現だダメだとか、アニメのこの表現だダメだとか、そーいうのばっかりだな」
「つまり、何かの批判をしているだけで、自分の考えを体系的にまとめたりはしていないって事か?」
「まあ、そうなるな……。因みに、欧米の方で、架空の少女への性的暴行…… つまり、ゲームや漫画での性的暴行表現が犯罪になる法律があるが、彼女はそれを“先進的”と評価している。少女への性犯罪を助長するっていうのがその理由らしい」
「なんだかなぁ……」
もうネット上なんかで何度も指摘されているけど、性的表現で溢れている日本の性犯罪率が世界でも珍しいレベルで低いから、フィクションが現実の性犯罪に影響を与えるという主張には説得力がない。もし仮に、それでも影響を与えると言うのなら、日本人の理性が高く、己をコントロールできているという事になる。しかし、そんな主張をフェミニスト達はしていない。無視というか、多分、都合が悪いから避けているのだろう。
火田が続けた。
「もし仮に、フィクションが現実の犯罪に影響を与えるっていうのなら、犯罪をテーマにしたクライムアクションゲームも規制しなくちゃいけないはずだろう? でも、そっちは野放しなんだよ。GTA5なんて、国家予算規模で売れているんだぜ? もし本当に犯罪を誘発していると考えているのなら、問題視しないとダメだ。これじゃ、ダブルスタンダードだ。実際はもっと別の理由があるんだと思うぜ」
「別の理由って?」
「さあな? そういうのは、鈴谷に意見を求めた方が面白い話を聞けるんじゃないか?」
それを聞いた僕は、“それもそうか”と思い、早速鈴谷さんにスマートフォンのメッセージアプリで軽く質問を投げてみた(鈴谷さんとコミュニケーションを取れるチャンスだし)。その後で、僕は尋ねる。
「で、それで、具体的に、どうしてこの二人は喧嘩しているんだ?」
すると、火田は自分がさっきまで観ていたノートパソコンをこちらに向けて画面を見せて来た。何らかのテキストの載ったページが映っている。
「佐和美香の書いたこの小説が原因だよ」
「小説? エッセイじゃなくて?」
「小説も書いているらしいな。この小説、内容がそれなりに過激でな。江戸時代の長屋が舞台なんだが、複数人の男と一人の少女の恋愛がテーマなんだ」
僕はそれに驚いてしまった。
「それは、ちょっとビックリだな」
フェミニストが書くような内容とは思えない。
「ああ。しかも、この少女ってのが花街から逃げ出して来たセックスワーカーでな。その男達に救われたってな筋書きになっている。
どうも、江戸時代には実際に似たような話はあったらしいから、そこから着想を得たのじゃないかって俺は思っている」
「江戸時代に?」
ちょっと考えてから僕は言った。
「ああ、そうか。当時の江戸って男女比が偏っていて、女性の割合が少なかったのだっけ?」
「ああ、そうだ。金持ちの男なら、女を買う事もできたから、それほど困らなかっただろうが、生活が厳しい連中はそうはいかない。それで、共同で金を出し合って、女一人を共有する男達もいたらしいんだな。彼女の小説は、それがベースになっている……」
――佐和美香の小説
『少女りんと男達の恋』
「……ここにいては駄目だよ。あなたは早くに逃げなさい」
お菊という名のその女はやせ細っていた。かつてはお店で一番人気の遊女だったとりんは聞いている。きっと綺麗だったのだろう。田舎の出身らしいが、懸命な努力で身に付けたのか、下卑た雰囲気が一切なく、何処か気品すらも漂わせている。それは今も変わらない。でも、それでも、彼女は、今は奥座敷の暗い部屋に横たわり、ただただ死を待つ身なのだった。
流行り病に罹ってしまったのだ。
客に伝染されたのだ。
花街では珍しい話ではない。花柳病に罹れば簡単に遊女は死ぬ。どれだけ人気があろうと病気になったらそれで終わりである。
死ぬのだ。
お菊はりんに優しかった。だから、りんは彼女が大好きだった。しかし、りんがお店に来た時にはまだ元気だった彼女の病状は急速に悪化してしまった。そして、彼女はここから逃げるようにとりんに訴えたのである。
“ここにいたら、いつかはお菊さんと同じ目に遭う”
恐怖を覚えたりんは、お使いを頼まれた時にお店から逃げ出した。当てがあった訳ではない。多少の銭は持っていたが、直ぐに尽きてしまった。そして、そうして、路頭に迷っていた彼女は、突然男に話しかけられたのだった。
「――どうしたんだい? 娘さん」
見ると、浅黒い肌の逞しい男がいた。力仕事を生業にしているのか、特有の荒々しい雰囲気があった。ただ、それでいて性根は優しそうに思えた。
「あの…… 困っていて。働き口はありませんか?」
身体を売る事も考えたが、それではお店を逃げ出して来た意味がない。
男は少し迷った風だったが、「事情は分からないが、とにかく、一度、家に来るかい?」と、そう誘われた。
どうせこのままでは野垂れ死にである。りんは男に付いていく事にした。
りんが連れていかれた場所は、粗末な長屋だった。一応境目らしきものはあるが、戸板が壊れていたり、そもそもなかったりで部屋と部屋とを隔てるものはほぼないと言って良かった。男の名は五平といった。この長屋で他の男達と一緒に暮らしているらしい。五平は自分の部屋だという場所に彼女を案内したが、先の説明通りのボロ屋だから身を隠せるはずもなく、瞬く間に他の男達にも彼女の存在は知られた。合計六人。彼らは彼女を物珍しそうに見物に来た。特に長蔵という若い男、ぬるたという初老の男は彼女に興味津々だった。その目に、彼女は覚えがあった。お店で、男達が遊女を選んでいる時の目だ。
竦んでしまう。
「やめておけ。怯えているじゃねぇか」
五平が彼女を庇ってくれた。
三太という男も二人を諫めたが、理由は五平とは違っていた。
「花街の方で遊女見習いが逃げたって騒いでいたぞ。手を出したら面倒なことになるかもしれん」
しかし、彼らは諦めなかった。特に長蔵はしつこかった。
「元は遊女ってなら、別に良いじゃねぇか。どうせ暮らしていくには金が必要なんだ。俺達で出し合って一回くらい……」
それを聞いて、りんは必死に事情を説明した。
「男の人と寝るのは別に構いません。でも、わたしは、病気が怖いんです!」
「病気?」
「お店で優しくしてくれていた人が、病気になって今にも死んじゃいそうで、それで怖くなって逃げて出して…… その人が逃げろと言ってくれたんですが」
その訴えに男達は顔を見合わせた。数秒の間の後、
「俺達は病気は持ってねぇぞ」
と、ぬるたが口を開いた。
「江戸じゃ、女が少ないからな。醜女でも俺達みたいな貧乏人は相手にしない。花柳病なんぞ貰わんわい」
「花街で遊ぶ金もないしな」
続けてそう言った長蔵は、やや自虐的な口調だったが、目が血走っていた。
彼がりんを見て情欲に駆られているのは明らかだったが、我慢してくれているようだった。もっともこの場で狼藉を働こうとすれば、他の者達に止められるだろうが。
彼らの説明にりんは目を大きくする。
「あの…… それなら、」
お店に売られた時から、男に抱かれる覚悟はできていた。もし、この人達が自分の生活を支えてくれるというのなら。
「……構いませんが、その、もう少し心の準備をさせてください」
そう言ってりんは深々と頭を下げたのだった……
「――なるほどね」
と、僕はその小説を読み終えて言った。複数の男性と少女の恋愛譚。“少女が買われた事”から始まる点も含め、確かにフェミニスト達が嫌いそうな内容だ。けど、ちょっと僕が思っていたのとは違っていた。“男達に救われた”なんて火田が言っていたから、もっと女性が男達に依存しているのかと思っていたのだけど、それだけじゃない。確かに主人公のりんは、男達に経済的には依存しているが、男達との関係が深まれば深まるほど、精神的には男達は彼女に依存するようになるのである。男達が抱く独占欲や嫉妬を彼女は巧みにいなし、彼らの人間関係を調整していくのだ……
「桐島真知は、この小説を“ロリコンに媚びている”って批判しているみたいだ。ま、具体的に何歳なのかは不明だが、主人公を少女にしているし、分からないでもない」
「え? そうなのか? 僕は佐和さんにややファザコンの気があるんじゃないかって思ったんだが」
「書いてるのが女だって分かっているのなら、そう思うのも無理はないよな。桐島真知は、普段からそういう作品の批判ばかりをしているからロリコンに媚びているように思えたのかもしれない。ロールシャッハテストじゃないが、読み手の性質によって、作品の解釈ってのは変わって来るもんだ。本当はどうなのか、佐和美香本人に訊いてみないと何とも言えないな」
「ふーん。それで、佐和さんはその批判に何と応えているんだ?」
「それが“そう受け止められても仕方ない要素がこの作品にあるという指摘はごもっともです”って言ってるんだよ」
「つまり、認めたってことか?」
「一部はな。だけど、彼女はこうも言っている。
“物事には多面性があるのが普通ですから、この作品に関しても、多面的に観てもらえると嬉しいです”」
僕はその言葉を聞いて首を捻った。
「それは悪い面もあれば、良い面もあるって事…… なのかな?」
「さあな。少なくとも、佐和美香は桐島真知の批判を否定はしていない訳なんだが、むしろだからこそ桐島真知は怒っているようにも思える。“なら、どうしてこんな作品を発表し続けているんだ?”ってな」
それに僕は「へー」と思わず言っていた。
別の意味で討論イベントが面白くなりそうだと思ったからだ。絶対に桐島さんは、それを深く追及するだろうから。
「もしかしたら、そういう方面から記事を書いた方が受けるかもな」
と、だから僕は言ってみた。すると火田は顔をしかめて注意をして来た。
「お前な。人間関係の記事を書く訳じゃないってさっき言ったばかりだろう?」
「そこは上手くやるって」と僕は軽い調子で返す。火田は疑わしそうにしていたが、それでも何も言って来なかった。そして、そのタイミングで、鈴谷さんからの返信があったのだった。
『欧米社会が架空の少女への性的な暴行を法律で禁止までして規制しようとするのは、機能的な理由じゃなくて、思想教育的な側面が強いと思うわよ。
キリスト教社会は、元より快楽の為に性交を行うという事を嫌う傾向にあるの。“産めよ、増えよ、地に満ちよ”という聖書の言葉からも分かる通り、性行為…… 繁殖をする事自体はむしろ推奨しているのだけどね。
だから、それを他の文化にまで押し付けるのは、文化相対主義的に観ても間違っているわ。もっとも、本人達にその自覚はなさそうなのが厄介なのだけど』
僕はそれを読んで考える。
“――これを参考にすれば、記事を書けるのじゃないだろうか?”
「火田。記事を書けそうだよ。さっきの佐和さんの小説の解釈をネタにしようと思う」
彼はやっぱりちょっと疑わしそうにしていたが、否定はせず「そうか? まあ、がんばれよ」とだけ返して来た。やや投げやりな感じで。
僕は佐和さんの小説『少女りんと男達の恋』を“ロリコンに媚びている”と捉えるのは、一方的な観方に過ぎないという旨の記事を書いた。フロイトの男根羨望を挙げ、キリスト教社会が男性優位である点を強調した上で、「近代の欧米的なフェミニズム運動は男性社会を批判したいがために、過剰に敏感になり過ぎているのではないか?」と疑問を投げかけて、“少女を支配していると言うよりは、庇護しているように思えるし、感情面では少女は男達を支えてもいる”と訴えた。そして、佐和さんと桐島さんの間で、この小説を巡っていざこざが起こっている点にも軽く触れ、討論イベントではそこが見所になるかも…… とやや煽り気味に結んだ。
火田は僕の記事にあまり良い顔はしなかったが、「これくらいなら、許容範囲だろう」と記事の掲載は認めてくれた。
ただ、実際にサイトに載せてみると、討論イベントの実行委員会から軽く注意を受けてしまった。もっとも、佐和さん、桐島さんの両名からは特に苦情はなかったらしく(そもそも読んでいないのかもしれない)、そのまま掲載は許してくれたのだけど。
それからパネラー二人の関係が険悪なまま日々は流れた。特に変化はなかったのだけど、途中、「佐和美香が襲われた」という噂が流れて少々物議を醸した。ボランティアに行っている動物園で、衣服が乱れた状態でいる彼女が目撃されたのだ。
「討論イベントをキャンセルする為の嘘じゃないか?」
なんて邪推する声もネットでは上がったけれど、佐和さん側はそれを否定し、それ以上は何の追及もなかった。そして、討論イベントの当日になったのだった。もちろん、僕は会場に行く気満々だったのだけど、当日になって、なんと討論イベントの実行委員から突然電話がかかって来たのだった。
「――あなたの記事の所為で、お二人が怒っています。このままでは、イベントが開催できなくなるかもしれません。お二人に謝罪してください!」
僕はそれを聞いて、一気に血の気が引いた。
“そりゃ、良い顔はしないだろうけど、そんなに怒るような内容かな?”
急な事だったから、スーツも何も用意していない。取り敢えず、サイトから記事を消すと、僕は恐る恐る二人の控室へと向かった。会場のホールに備え付けてある小さな控室の出入り口には実行委員会だろう生徒がいて、僕の姿を認めると、苛立った表情で睨みつけて来た。
「余計な記事を書いて、イベントを台無しにしないでくださいよ」
僕はその文句に頭をペコペコと何回か下げた。もっとも内心では、“そこまで悪い事をやったかな?”と愚痴を言っていたのだけど。少なくとも火田のチェックは通っているし、そんなに問題のある記事だったなら、きっと鈴谷さんから説教されていただろうと思う。それにイベントの宣伝にもなっていたのだし。
“問題があるのは、あれで怒る方なんじゃないのかなぁ?”
なんて思って僕は控室のドアを開けた。開けたのだけど……
「はあ? 何の話です?」
僕が謝罪をすると、桐島真知だろう女の人はまるで馬鹿にでもするかのような口調でそう言ったのだった。
「ですから、僕の書いた記事にあなた達が怒っていると聞きまして……」
僕がおずおずとそう説明をしようとすると、「あんな程度の記事で腹を立てたりはしません」と彼女は言った。
彼女は、茶髪のロングで、すらっとした体型をしていた。今は明らかに機嫌が悪いけど、そうじゃなくても平素からきつそうな顔をしている。ただ、綺麗と言えば綺麗な顔立ちをしているようにも思えた。好きな人は好きなのじゃないだろうか?
「私も記事を読みましたけど、多少は指摘したい点はあるにせよ、言論の自由として十分に受け入れるべき内容だと思います。きっと、桐島さんもそれは同じだと思いますが」
そう淡々と述べたのは佐和美香だろう女性だった。地味な顔立ちをしているけど、理知的な感じがする。それに優しさが立ち振る舞いから自然と伝わってくるような気もした。
桐島さんは軽く頷くとこう続ける。
「あんな程度の記事で怒るのなら、ネットで活動なんかとてもできません。もっと酷い誹謗中傷の類が飛び交っているのですから。中には脅しのようなコメントをしてくる連中もいるのですよ?」
桐島さんは仁王立ちのような姿勢で入って来た僕らを見据え、佐和さんは用意された椅子に腰を下ろして泰然とした様子だった。
控室はあまり広くなくて、決して高価とは言えない机にテーブルクロスを敷いて誤魔化してあった。拙い印象を受ける。まぁ、予算もないだろうから、無理もないかもだけど。机にはお茶の類やお菓子が置いてあったけど、二人とも手を付けていないようだった。
彼女達の主張を聞いた僕と実行委員は顔を見合わせる。
実行委員が困惑した様子で尋ねる。
「あの……、それでは何を揉めているのですか?」
どうやら何かしら揉めている声を聞いて、この人が僕の記事の所為だと早とちりをして僕に謝るようにと電話をして来たらしい。迷惑な話だ。
「私が怒っていたのは、佐和さんが乱暴をされていたという件について、です」
「はあ。でも、それは誤解だったのですよね?」
実行委員は目を白黒させていた。
僕は心の中で頷く。少なくとも佐和さん自身はそう言っていたはずだ。
「それが画像が出て来たのですよ。佐和さんが破かれている衣服を身に纏っている姿の。誰かが撮影をしていたのですね。動物園の施設だろう場所ですから、きっと動物園の関係者に乱暴されたのでしょう」
僕はそれを聞いて佐和さんを観てみた。彼女は辛そうに目を伏せていた。スマートフォンで検索をかけてみると、確かにズタズタになった服の佐和さんの姿の画像がヒットした。大切な部分は見えていなかったが、性的な目的で引き裂かれたように見える。AIで加工したのじゃなかったら、絶対に誰かに乱暴をされている。ただ、そう思いながらも、僕は同時に違和感も覚えたのだけど。
――何か変だ。
「つまり、彼女は誰かを庇って噂を否定していたのですわ。罪ある男性を糾弾せず、我慢してしまう。それで合点がいきました。彼女は男社会に毒されているのです。だからこそ、あんなロリコンに媚びた小説をお書きになったのでしょう。
――少なくとも、私は彼女を襲った犯人を彼女が言うまでは、彼女と討論イベントに出席したいとは思いません」
それを聞いて、余計な事とは思いつつも、僕は「あの……」と口を開いた。
「佐和さんは被害者なのですから、もう少し気を遣ってあげても……」
傷口に塩を塗るような真似はしなくても良いと思ったのだ。すると桐島さんは、「被害者だからこそです!」と強い口調で言った。
「一般の女性であるのなら、心の傷から何も言えなくなるというのは致し方ないかもしれません。ですが、彼女は男性社会の理不尽と闘っている立場でもあるのです。勇気を出さないでどうするのです?!」
佐和さんはその桐島さんの叱咤にただただ耐えていた。実行委員は困った顔でオロオロとしている。
“これは……、本当に討論イベントが中止になりかねないな”
と僕は心配になる。そして、そこで鈴谷さんを思い出したのだった。彼女なら、或いは、こんな状況でもなんとかしてくれるかもしれない。巧く桐島さんを説得してくれるのじゃないだろうか?
――それに、やっぱり何か変な気もする。彼女ならその違和感の正体を見抜けるかも。
僕は小声で実行委員に話しかけると「僕の知り合いの鈴谷さんって人なら、なんとかできるかもしれません。呼んでみても良いですかね?」と許可を求めた。彼は目を大きくすると頷く。随分とあっさりと許したもんだと思ったけれど、彼も彼女を知っていたのかもしれない。これまで彼女は、色々な問題を解決して来たから。
それから僕は廊下に出ると、スマートフォンで彼女に通話をした。
「……そんな事になっていたのね」
と、僕が軽く説明すると鈴谷さんは溜息をつくように言った。
「佐野君達の記事を読んで、私個人でもちょっと調べていたから、なんとかなるかもしれない。役に立てるかどうかは分からないけど、行ってみるわ」
そして、それからそう言ってくれたのだった。僕はホッと安心して「頼むよ」と言って通話を切った。
これでなんとかなるかもしれない。
――控室のドアがノックされた。
怒っている桐島さんに僕らは何も言えず、佐和さんも黙っていたから、気まずい沈黙がずっと続いていて、その音はまるで崩落した洞窟に閉じ込められた人々を救いにやって来た救助隊の吉報のように思えた。
言い過ぎかも、だけど。
実行委員が「どうぞ」と言うと、キィとドアが開いた。
鈴谷さんだ。
彼女はいつも通りにスーツを着ている。普段から姿勢は良いけど、今は特に真っ直ぐに背筋を伸ばしているように思えた。年齢が若いと分かる見た目だから学生に見えるけど、理知的な顔と印象的な眼鏡も合わせて、雰囲気だけなら教授だと言われても納得するかもしれない。
鈴谷さんは気まずい沈黙の中を悠然と歩いていく。まるで彼女がそれを切り裂いているかのようだった。桐島さんの目の前にまで来ると、彼女は頭を下げた。
「あなたが、フェミニズム活動家の桐島真知さんですね?」
桐島さんは怪訝そうな顔を見せる。
「あなたは?」
「失礼。私は、この大学の生徒で、民俗文化研究会に所属している鈴谷と言います」
多分、敢えてだと思うのだけど、彼女は民俗文化研究会が大学サークルである点は述べなかった。きっと、その方が肩書きが効果的に働くからだろう。実際、それで桐島さんは少し態度を変えたように思えた。
「そう。その研究者さんが何の用?」
それでも高圧的に、彼女は鈴谷さんに来た目的を尋ねた。ただし、鈴谷さんは全く物怖じしない。
「はい。差し出がましいとは思ったのですが、桐島真知さんと佐和美香さん。お二人の認識に齟齬が…… 誤解をあるように見受けられましたので、その誤解を解いておいた方が良いかと思いまして」
そう言われて、桐島さんは「誤解?」と首を傾げると佐和さんを見やった。その視線を受けても、佐和さんは何も反応をしない。
「はい。まず桐島さん。あなたは、欧米で盛んなフェミニズム運動を支持していると私は判断しましたが、その認識に誤りはないでしょうか?」
「ええ、そうね。影響は受けているわ」
「なるほど。ですが、欧米のフェミニスト達は、日本文化を詳しくは知らず、欧米的な男性優位社会と同一視して、日本の男女平等を論じてしまっているように思えます。ですから、我々が彼らの主張を聞く際には、その点を差し引かなければなりません」
「日本文化を知らない?」
「はい。日本は欧米とはまるで違います。言語を例に挙げて説明しましょう。民族を重視する方達は、血統と共に言語を重要視する傾向にあります。“言語”を示す言葉が、そのままその国の人々を示す場合がある点にもそれが現れています。例えば、“Japanese”は、日本人を意味すると同時に日本語を意味しますが、それは言語と民族がそれだけ強く結び付いているからでもあるのでしょう。
だからこそ、言語の特徴にはその民族のアイデンティティが込められていると考えるべきなのですが、日本語の場合、“漢の字”と書く漢字は、中国由来であるのに対し、その漢字から独自に進化したひらがなの形成には、女性文化の影響が強くあると言われています。
まだまだ日本では、女性文化が強い影響力を持っている証拠があります。日本神話の最高神“天照大御神”は、女神であるとされていますが、これは日本では諸外国に比べれば比較的長く女系社会が生き残り続けた影響だとも言われます。
つまり、欧米のフェミニスト達が考えるよりも、遥かに深く日本文化の根源には“女性”が息づいているのです」
それを聞いて、桐島さんは怒りを露わにした。
「何を言っているのですか? この日本社会において、どれだけ女性が不遇に扱われて来たのかを知らないのですか?」
「はい。それはもちろんその通りです。日本の近代化と経済発展…… 富国強兵を底辺で支えたのは、紡績工場で非常に過酷な労働環境で働く女性達であった言われていますが、にも拘らず、その功績は未だに正当には評価されていません。これは女性に対する差別意識の所為でしょう。
一部の人達は、まるで近代の専業主婦型の家族制が、日本に古来からあったかのように吹聴していますが、実際には専業主婦は工業化と共に欧米で生まれた歴史の浅い思想で、日本はそれを和風にアレンジして取り入れたに過ぎません。しかもそれが実現したのは、戦後の高度経済成長期に入ってからで、直ぐに揺らいでしまいました。
つまりは長い日本の歴史において主流だったのは、“夫婦共働き”で、その中で女性は労働力として重要な位置を占めていたのです。それを考えるのなら、女性の社会的地位の低さは不当でしょう。現代ですら、不公平な扱いを受けている疑いがあります。特にワーキングマザーは過酷だと言われ、少なくとも家事の参加率の低さについては、日本の男性達に反省すべき点があるのはほぼ間違いありません。
ですから、不当に扱われている女性を救う意味でも、あなたの活動には価値があり、評価に値すると思います」
速いのにとても聞き取りやすい声。その鈴谷さんの饒舌ぶりとペダントに桐島さんは少なからず驚いたようだった。多少、たじろいだ様子で彼女は返す。
「では、欧米のフェミニスト達の何が問題と言うのですか?」
「はい。先に述べた点は事実ではありますが、それでも物事の一面に過ぎないのです。例えば、幸福度調査では、日本では男性より女性の方が幸福度が高い事が知られています。また、ホームレスの割合は女性が圧倒的に少なく、これは世界的に観ても珍しい事例です。もっとも、その一方で女性の貧困は社会問題になっていますし、女性の自殺率も外国に比べて高いのですが。
――日本は男女平等指数の世界ランキングが低いですが、もし仮に男女平等指数に、これら点を加えたなら、大きく数値は変動するでしょう。男性が差別されいると解釈されない限り、日本のランキングは間違いなく上がると思われます。
そして、それは根本的には、現在の男女平等指数が男性原理的な価値基準に偏っているからであると思われます」
「男性原理?」
「耳馴染みがありませんか? では、軽く説明しましょう」
鈴谷さんは一呼吸の間を置くと、語り始めた。
「誰かが誰かの為に料理を作ってあげているシーンを想像してみてください。仮に、上司にしろ客にしろ、上の立場の者の為に作っていると思ったのなら男性原理的で、子供やペットといった庇護対象の為に作っていると思ったのなら女性原理的だと言えます。
女性原理では、支配被支配といった関係では社会を捉えないのです。だから、誰かの為に労働していたとしても、下の立場とは限らない。ペットの犬をボスだと思って餌をあげている人などいません。
この根源は、恐らく生物的な性質に求められると思われます。ボスになり、部下を従えようとする欲求を集団で生きる動物の多くが持ちますが、これが男性原理になり、子供を健やかに育てる為の庇護欲求が女性原理になったのではないかと予想できます。
現代の男女平等論では、女性原理を軽視してしまっているのです。そして、それは欧米が典型的な男系社会だからではないかと思われます。その所為で、欧米の男女平等はまるで“女性を男性化する”かのような方向で進んでしまっていますが、当然ながら、これでは様々な問題が発生するでしょう。欧米は犯罪率が高く、非常に暴力的ですが、女性原理を軽視したままではこの解決は難しいのではないかと思われます。そして、更に、だからこそ、女系社会の影響が色濃い、女性原理が強い日本社会を上手く捉えられていないのです。つまり、日本文化を知らないままで判断してしまっている」
「ちょっと待ちなさい」と、そこで桐島さんは言った。
「勝手に話を進めないでちょうだい。私はまだ日本文化に女性の影響が強くある事を認めてはいません」
それを聞くと、ゆっくりと鈴谷さん桐島さんを見据えた。それから何故か佐和さんの様子も見る。佐和さんは椅子に座ったまま、少しだけ心配そうに鈴谷さん達を見ていた。
「そうですか。では、もっと根本的な部分から語りましょう。
太古、人間社会には男系も女系もあったと言われています。がしかし、時代を経るにしたがって男系ばかりになってしまいました。これは私の仮説ですが、“人口増競争”においては男系社会の方が有利だったからではないでしょうか?」
その説明には佐和さんが反応した。
「それは、男系だと人口が増やし易いという事ですか? 何故です?」
何故かその反応に鈴谷さんは満足げに軽く頷いた。
「現代では不可能ですが、別の社会の女性をさらって、自分達の子供を産ませるという事が可能だったからですよ。男系社会では、男親の血統が正とされますから、それでも問題なかったのです。ところが女系社会ではこうはいきません。別の社会からさらって来た女性に子供を産ませたら、その子供は、別の社会の子供になってしまうからです」
「子供を産めるのは女性だけ。だから、女性を増やせないと人口はあまり増やせない。それで女性を奪って奴隷化できる男社会の方が人口を増やし易いって事ね」
それを聞いてそう語ったのは桐島さんだった。憎々し気な口調だ。本当に男性社会が嫌いなのだろう。多少は分かるけど。
「男性の…… 特に権力者の男性の子供を産んだ女奴隷は、それなりの地位に就けた場合も多かったらしいので、桐島さんのイメージそのままかは分かりませんが、概ね正しいとは思います」
それを鈴谷さんはそう認める。それから彼女はまた佐和さんを見る。佐和さんは何故かちょっと安心しているようにも思えた。気の所為かもしれないけれど。
「この話からも分かる通り、人口増競争で有利なのは奴隷制が発達した社会なのです。ところが、この日本においては奴隷制はそれほど発達しなかったのです。原因はシンプルです。土地が狭かったからです。
奴隷制が求められるのは、労働集約が有利な環境においてです。ところが日本は土地が狭かったので、労働集約型の農業や畜産はあまり向いていなかったのですね。奴隷はそれほど必要とされませんでした。食糧生産力もあまり高くはありませんから、人口増競争も激しくなかったものと思われます。
つまり、日本では、男系社会が諸外国と比べれば有利ではなかったのです。ならば、女系社会が比較的生き残り易くなるはずです。
先にも述べましたが、その残滓は様々な点に観られます。最高神・天照大御神が女神とされているだけでなく、山の神など、様々な重要な神々が女神とされています。神と言えば男性の姿のキリスト教社会とは大違いですね。夫婦と書いて、“めおと”と読みますが、これは元は女男と書きました。つまり女性の方が上なのです。女親の事を“かみさん”と表現しますが、これは“神”、或いは“上”であるとされ、つまりは上の立場である事を意味しています。
また、日本社会は性に関して、非常に寛容ですが、これも女系社会の影響ではないかと考えられます」
「は?」と、それを聞いて、桐島さんが文句を言うように口を開いた。
「ちょっと待ちなさい。性的な表現はむしろ女性を蔑ろにしていて……」
そう言いかける途中で、鈴谷さんは「それは誤解です」とキッパリ言い切った。
「確かに女性を凌辱するような描写も多いですが、性的なものを規制する性道徳は、男系社会で発達するもので、女系社会ではむしろ寛容になるのです。
この件については、生物学の話をした方が分かり易いかもしれません。“配偶者防衛”をご存知でしょうか?」
桐島さんも佐和さんも何も応えなかった。多分、鈴谷さんの知識の豊富さに圧倒されているのだと思う。
「精子に比べて貴重な卵子の生産者であるメスを独占しようとするオスの行動を言いますが、これは実は人間にも観られるのです。
先ほどから説明しているように、男系社会では子供は男親の血統でなくてはいけません。しかし、女性が産んだ子供が男親の血を継いでいると確証を得る為には、女性が他の男性と交わる事を許してはいけないのです。その為、貞淑さをもって美とする性道徳が形成される事になります。女性を独占しようとする男性社会にとって都合の良い性道徳ですね。女性がこの禁を破った場合には理不尽にも、強姦であっても殺されてしまうケースがあるのですが、理には適っています。子育てには高いコストがかかりますが、それが別の男性の子供であってはならないからです。そしてこの“貞淑さ”が必要とされる理屈が成立するのは女性だけです。だからこそ、かつては男性にはあまり貞淑さを求められないばかりか、関係を結んだ女性の数を誇る場合すらもありました。
そして、この性道徳こそが、人間に観られる配偶者防衛である訳です。
もっとも、近代の性道徳には性病対策という一面もあり、これも非常に重要ではあるのですが。
――ところが、女系社会では事情が違ってきます。女性が産んだ子供は、その女性の子供であることが確定しています。その為、女系社会では性を規制する必要がなく、寛容になるのですね」
この鈴谷さんの説明に、桐島さんは混乱しているように思えた。多分、今までの自分の常識にはないからだろう。でも、佐和さんに関してはあまりそんな様子は見られない。既に知っていたのだろうか?
桐島さんは完全には納得できなかったのか反論する。
「一見、正しそうだけど、おかしいわよ。女性は子供をそんなにたくさんは産めない。複数人の男性とセックスする必要がないわ」
ところが鈴谷さんは、それに「いいえ」と返す。
「そんな事はありません。メスが複数のオスを受け入れる動物は多数います。主に子供を護る為に」
「子供を護る為?」
「はい。メスに自分の子供を産ませる為に、メスが育てている子供をオスが殺してしまう行動は多くの動物に観られるのです。しかし、自分が性交したメスの子供は、オスは殺さないのですね。それで自分の子供だと識別しているのでしょう。ならば、メスはできる限り多くのオスと性交をすれば、子供が殺される可能性は低くなります。ただし、もちろん、“子殺しを防ぐ為”などといった意識はないでしょう。複数のオスを受け入れるようになった結果、生き残りに有利になったからこそ獲得した性質であると考えられます。
こういった行動が常に観られる動物として最も有名なのは、チンパンジーやボノボです。そして、だからこそ、これら種は乱婚制になっているのですね。そして近年では、ライオンやマーモセットなど幅広い動物で似たような交尾の事例が報告されています」
そこで鈴谷さんは一度説明を切った。桐島さんの反論がないか確認する為に間を取っているのだろう。何もないと判断したのか、再び口を開いた。
「チンパンジーやボノボは、人間と非常に近種であるとされています。ならば、人間の女性の中にも、似たような性質を持った人がいると考えるのは自然な発想でしょう。
――そして、実際、複数の男性を受け入れる事に抵抗を感じない女性は存在しています。そういった女性は、近代の、男系社会の都合で作り出された性道徳の中では、不当に差別され、貶められてしまっているのではないですか? セクシュアリティを売りにしている女優が侮蔑される場合がありますが、こういった女性達は今の欧米で主流のフェミニズム運動では救う事ができません……」
それに桐島さんはやはり何も返さなかった。そして、ここで鈴谷さんは佐和さんに目を向けた。満を持してといった感じで、彼女は佐和さんにこう問いかけた。
「―――ですが、佐和美香さん。あなたのフェミニズムでは、こういった女性も救おうとしているのではないのですか?」
それまで伏し目がちだった佐和さんは、そこで顔を起こすと初めてはっきりと意思表示をした。話の流れから、予感していたのかもしれない。
「明確にそういった女性を救おうと意識していた訳ではありません。ただ、否定するつもりもありませんでした。少なくとも、受け入れるつもりではありました」
鈴谷さんは大きく頷く。
「はい。だからこそ、あなたはあの“少女りんと男達の恋”という小説を発表したのですね」
それに桐島さんは抗議をした。
「だからといって、あんな少女が複数人の男性と関係を持つような小説が、認められるはずがないでしょう?!」
鈴谷さんはそんな彼女をやや緩慢な動作で見やった。
「なるほど。あなたは飽くまであの小説が男性にとって都合の良い物語だと解釈しているのですね?」
「それはそうです。あんな小説、男が喜ぶ為にあるとしか思えないじゃないですか?!」
「そうですか? では、もし仮に男女が逆転していたら、“女性にとって都合が良い小説”とあなたは解釈するのですか?」
「男女が逆転って…… 少年が複数の女性達と関係を結ぶ話にするという事ですか? そんな訳はありません。それこそ、男性中心のハーレムじゃないですか!」
「それでは、結局、どちらに転んでも、あなたにとっては“男性にとって都合の良い小説”となる事になってしまいます。それはいくら何でも不公平では?」
その指摘に桐島さんは黙る。鈴谷さんは佐和さんを見た。
「ここに執筆者自身がいらっしゃるのですから、私が言うのは憚られます。できれば、佐和さん自身から説明していただきたいのですが。あの小説は家族制度の新たな形を提案する為に書いたのではないですか?」
すると、それを受けて神妙な顔つきになると、佐和さんは「“新たな形”と言ってしまうのはおこがましい気がしますが……」と言い、それから桐島さんに目を向けると続けた。
「女系社会の一つの形、分割父性をイメージして、私はあの小説を執筆しました」
「分割父性?」と、桐島さんは首を傾げる。
「女性一人に対して、複数の男性パートナーがいる…… 子供の生物学的な父親が複数いると考える社会制度の事です。この制度では、女性や子供は複数の父親全てから支援を受けられます。少し違うのですが、多夫一妻性と思ってくれればイメージし易いかもしれません」
「どうしてそんな社会制度を提案する必要があるのです?」
「様々なメリットがあるからです。まず、現代社会では子を成す機会に恵まれない人達が男女共に多く存在しますが、これが緩和します。当然、強力な少子化対策にもなるでしょう。また、現在の女性が労働環境で不当に扱われている状態を抜きにしても、女性は子供を産み育てる為に、どうしてもある程度は男性の経済力や労働力に依存しなくてはなりませんから、“男性を選ぶ事”には非常に高いリスクが付き纏います。
……時折、リスク故の女性の慎重さを揶揄する男性もいるようですが……、“相手選び”に男性よりも遥かに重要な意味がある女性の立場を分かっていません。
現在の家族制度では、もし、酷い男性を選んでしまったのなら、女性は悲惨な境遇に陥ってしまいますが、分割父性ならばそのリスクを分散できます。例えばDVに苦しむ女性や子供も多いですが、複数の父親がいるのなら、助けてもらえる可能性はかなり高くなるはずでしょう。
人類史において分割父性は極稀なケースでしかありませんが、それを現代日本風にアレンジして広められたなら…… と私は考えているのです。あの小説は、その前準備のようなものなのです」
佐和さんの説明が終わる。鈴谷さんはそれに「ありがとうございます」とお礼を述べた。
「分かっているかと思いますが、この分割父性は女系を前提としています。子供の本当の父親は誰かは分かりませんが、母親はほぼ確定しているのですから。
それが“男性にとって都合が良い”という風に見えてしまったと言うのなら、それはあなたが男性社会的視点に縛られてしまっているからだと思います」
桐島さんはその言葉を受けると、表情を悔しそうに歪めた。言い訳をするようにこう言う。
「話は分かりました。ですが、ならばどうして主人公を少女にしたのですか? それにあなたは私の批判も否定しなかった。それは何故です?」
佐和さんは淡々と返す。
「主人公を少女にしたのは、男性にも庇護欲求…… つまりは女性的な価値観がある事を示す為です。私の思い描く現代日本版に修正した分割父性にはそれがどうしても必要ですから。そして、あなたの批判を否定しなかったのは、あなたの批判があの小説には必要だと判断したからです」
「批判が必要? 意味がよく分かりません」
「私は少女りんを男性にとって、性的に都合の良い存在として描いたつもりはありません。ですが、そのような願望を抱いている人はそうは解釈しないかもしれないのです。そのように受け止められる事を防ぐ効果が、あなたの批判にはあると私は考えました。
つまり、あなたの視点はあなたの視点で正しいと私は認めていたのですよ。そして、それは世の中の役に立つと。ただ、それが“全て”ではないというだけで」
その説明に桐島さんは何かを考えるような素振りを見せる。僕は彼女の様子を見て思い出していた。初めから佐和さんは、そういった趣旨の事を述べていたのだ。分割父性や、女系についての知識や発想のなかった僕らには、その意味が適切に理解できなかっただけだ。
「世の中には様々な視点や考え方があり、それら全てにはメリットがあり、デメリットがあり、実際的な効果がある…… だからこそ、全否定せず、できる限る受け入れられるようにするべき……
つまりは多様性が大切。
考えてみれば、当然の話ですわね。フェミニズムでも言われている事なのに、私は失念していました」
少しばかり悔しそうにしていたけど、桐島さんはそう佐和さんの主張を認めた。
「その点は謝りますが、女性社会の方が性的なものに寛容であるという主張には納得がいきません。何か証拠はあるのですか?」
しかし、それからそう反論をする。どうも彼女にとって近代の性道徳を疑うのは容易ではないようだ。
「あの…… 性的な漫画… まあ、エロ漫画ですが、エロ漫画を描く人も読む人も女性は多いと聞いた事があります。しかも、紙媒体から電子媒体に変わって増えたらしいです。
これって、“世間の目”がなければ、女性も性的なものを求めるって事になりませんか?」
少し悩んだのだけど、勇気を出して僕はそう桐島さんの反論に返してみた。鈴谷さんばかりに頼ってはいられないと思ったからなのだけど、桐島さんから睨まれてしまった。男性社会嫌いな彼女に、男性の僕が反論するべきじゃなかったかもしれない。実行委員が咎めるように僕を見て来た……
なんか、ごめんなさい。
鈴谷さんが静かに口を開く。
「欧米においても、現代社会は性的に抑圧されているという批判があります。しかも、フェミニズムで」
「フェミニズムで?」
「はい。もちろん、今の主流のフェミニズムではありませんが。
セックス・ポジティブ・フェミニズムです。
精神分析学では、現代社会では性が抑圧されていると主張されていますが、その影響を受けたヴィルヘルム・ライヒは、性の抑圧は権威主義を産むと考え、性の解放を訴えていました。この思想はセックス・ポジティブ・フェミニズムにも影響を与えています。
また、性的快楽とは無関係ではありますが、女性がヌードで抗議活動を行う場合もあります。これも思想的には重なる部分があるでしょう」
そこで一度切ると、鈴谷さんは何とも言えない表情で僕を見やってから続けた。
「現代社会が性的に抑圧されている点は事実だと思います。だからこそ“世間の目”がなければ、女性も性的なものを求めるのではないでしょうか?
そして、もちろん、性を抑圧している社会とは、男性社会です。これは、女系社会が性に対して寛容である事の証拠にはなりませんか?」
僕は彼女の言葉にちょっとばかり感動をしていた。彼女は僕を手助けしてくれたのだ。ちょっと呆れてもいるようだけど。
その鈴谷さんの説得を聞くと、桐島さんは深く溜息を漏らした。はあ、と。
「あなた達の言いたい事は分かりました。どうやら、私はもっと視野を広く持った方が良さそうですね……」
それを聞いて、佐和さんがフォローをするように言う。
「誤解しないでいただきたいのですが、私はあなたの活動自体は認めていますし、尊敬もしているのです」
「分かっています。子供扱いしないでください。私は自分に非があるのなら、ちゃんとそれを認められるくらいの人格は育てて来たつもりでいます」
そう言ってから、桐島さんは佐和さんを睨みつけるようにする。そして、「――ただ、」と言ってから続けた。
「あなたが襲われた事を隠している点についてはやはり看過できません。何故、あなたは犯罪者を庇うのです?」
「それは……」と佐和さんは言い淀む。態度が何かおかしい。やはり彼女は誰か男性を庇っているのだろうか? だけど、やっぱりちょっと何か違和感がある。僕は思い出していた。あの彼女が乱暴されたという画像を……
――なにがおかしいのだろう?
そこで再び鈴谷さんが口を開いた。
「すいません。私も確証を持っている訳ではないのですが……」
と、言ってから佐和さんを見て続ける。
「かく猿という猿の形をした妖怪が中国には伝わっています。そして、この妖怪は、女性をさらい、子供を産ませると伝えられているのです。
異なった民族を妖怪視する事はよくあるので、或いは、女性をさらって子供を産ませる男系社会がこの伝説の元になっている可能性があると私は考えているのですが、最近になって別の可能性も考えるようになりました」
そう語り始めた鈴谷さんを、桐島さんは“突然、何?”といった目で見ていたけど、佐和さんは何故か青い顔になった。
鈴谷さんは更に続ける。
「北海道にこのような妖物の目撃例があります。尻尾は海老のようだが、手は蟹のような鋏の形状をしている……」
桐島さんが即座にツッコミを入れる。
「それってザリガニじゃないの?」
「はい。日本では、かつてはザリガニは東北や北海道にしか生息していない珍しい動物でした。だから知らない人が、妖物…… と言うよりも、UMAのような存在として報告をしたのかもしれません。
他にもこんな事例があります。火を噴く珍しい井戸がある……」
ちょっと考えると、桐島さんは言った。
「それって天然ガスが出ているだけじゃないの? 火をつければ燃えるでしょ?」
「はい。その通りだと思います。これは火井と言われていますが、このように知られていない珍しい現象がまるで怪奇現象のように語られる事もあるのです。もしかしたら、かく猿も同じかもしれないと、少し私は疑っているのです」
「はい? つまり、女性を襲う猿がいるっていう話ですか? そんな猿がいるわけないでしょう?」
その桐島さんの言葉を聞きながら、僕は思い出していた。そう言えば、佐和さんは動物園で、オランウータンの世話をしていたのじゃかったっけ?
……佐和さんの様子を見てみると、彼女は益々青い顔になっていた。
「ところが、極めて珍しい事例ではありますが、オランウータンは人間の女性を襲う場合があるのだそうなんですよ。
オランウータンは疑似的なハーレム制で、有力なオス以外は、メスがオスを受け入れる機会がほとんどありません。ですから、トップになれなかった多くのオスはメスと無理矢理に交尾をしようとするのですが、その対象として、人間の女性を狙ってしまう事があるらしいのですね……」
その説明に桐島さんは驚いて目を見開く。多分、鈴谷さんが何を言わんとしているのか察したのだろう。
その時僕は、その説明で画像を見た時の違和感の正体にようやく気が付いた。佐和さんの衣服はボロボロになっていたのだ。人間の男に襲われたのなら、あんな風にはならないだろう。つまり……
「あのっ」と、そこで佐和さんは言った。
「その件については、私にも落ち度がありました。つい心を許し過ぎていたのです。動物園側も管理体制を反省していますし……」
その言葉で、恐らくは全員が佐和さんが庇っているのが人間の男ではないと理解しただろう。
彼女はオランウータンを庇っていたのだ。
もし、オランウータンが女性をレイプしようとしたなんて話が伝わったら、間違いなく動物園への悪評になる。動物保護の支援も受け難くなるはずだ。それは何としても防がなくてならない。だから、彼女は何も言えなかったのである。
桐島さんは愕然となっていた。
「佐和さん。あなた、その、オランウータンに……」
「いえ、幸い未遂です。もし本気だったなら、どうなっていたか分かりませんから、恐らく悪ふざけ程度だったと思うのですが」
それに桐島さん大きく溜息を漏らした。
「そういう事だったのね……。大事なくて良かったわ。でも、あなた、そういう話だったならもっと事情を…… いえ、言い難いのは分かりますが」
佐和さんの告白があまりにショッキングだったからだろう。いつの間にか、すっかりと桐島さんから怒りは消えているようだった。そこで実行委員が言った。
「――あのっ! 色々と衝撃的な事実が判明したので動揺しているのは分かりますが、そろそろ討論イベントが始まる時間ですので。準備をしていただけるとっ」
それを受けると、桐島さんと佐和さんは互いの顔を見合って頷いた。桐島さんが口を開く。
「色々と言いたい事はありますが、取り敢えず、このイベントを成功させましょう」
そして、二人は会場に向かう為に歩き出したのだった。控室から出て行く刹那、桐島さんが鈴谷さんに向けて言った。
「それにしても、あなた、私達よりもずっと討論イベントに相応しいのじゃない?」
それには僕もまったく同意見だった。
それから討論イベントは無事に成功した。色々とハプニングがあったから心配していたのだけど、流石二人ともプロだけあって見事にイベントをまとめ上げていた。ただ、お客さん達が期待していたような、陰険な言い合いや激しい議論は一切なかったけれど。
この成功については、鈴谷さんの功績が一番大きいと思う。二人を、特に桐島さんを納得させられなかったのなら、イベントの成功は絶対になかった。
「………女性の地位向上の為にも、新聞サークルで鈴谷さんの活躍を発表した方が良いんじゃない?」
と、食堂で会った時に、僕は鈴谷さんに提案してみたのだけど、彼女は「勘弁してよ」とそう返して来た。まあ、この彼女の反応は分かってはいたのだけどね。
参考文献:
『サルとジェンダー フランス・ドゥ・ヴァール 紀伊国屋書店』
『進化と人間行動 長谷川寿一、長谷川真理子、大槻久』
『少子化時代の「良妻賢母」 著者 S・D・ハロウェイ 高橋 登・清水民子 ・瓜生淑子 訳 新曜社』
曖昧な記憶に関しては、確認する為にAIで調べたのですが、正確ではない内容を出力していました。
ソース元も提示していたので、これなら信頼できると思っていたのですが、念の為、ソース元を確認してみたら、そんな記述が一切ない。
皆さんもAIを利用する際は気を付けてください……




