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断罪夜話 〜王都裁判記録より〜  作者: 九葉(くずは)


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5/12

第五夜 庭の毒草

今夜の綴りを開く前に、私は一度ペンを置いた。


机の脇に水を一杯置いて、それを飲んだ。蝋燭の芯を直し、襟元を正し、もう一度ペンを取った。書きたくない記録を書くときの、私の手順だ。十四年前の春、被告人フリーダ・ヴェルクハイム、二十四歳。罪状は継子殺し。判決は処刑。


執行命令書には、第三法廷記録官グンネル・ヴァトと書かれている。私の署名がある。インクが乾く前に、私は一度、自分の手から離れた一滴を、紙の右下に落とした。拭わなかった。今でも、その滴の痕は、執行命令書の控えの紙の上に残っている。



◇◇◇



フリーダはヴェルクハイム伯爵の後妻として、二十二歳で嫁いだ。


夫は四十代の伯爵で、最初の妻を流行病で亡くしていた。連れ子は男児が一人。名はトーレ、当時七歳。フリーダは婚礼の翌日からトーレの母になることを求められ、それを受け入れた。トーレはフリーダによく懐いた、と後に屋敷の使用人たちが法廷で証言した。


事件は嫁いで二年目の春に起きた。


トーレが急に発熱し、四十夜の闘病ののちに死んだ。屋敷の医師は流行病による衰弱と診断したが、葬儀の翌日、フリーダの実家であるヴェルクハイム家の弟が伯爵家を訪れ、「義姉が庭の毒草でトーレを殺した」と告発した。


弟の名はラドミル。当時十九歳だった。



◇◇◇



法廷で、ラドミルは涙ながらに証言した。


「姉は、トーレ様が病に伏されてから、毎晩、庭の薬草を煎じておりました。私はそれを見ました。煎じたものを匙で運び、トーレ様に飲ませているのを見ました」


検察官は、フリーダの庭に植えられていた薬草の中に、致死量に至れば人を死に至らしめる種類のものがあったことを指摘した。フリーダは庭仕事を好み、自分で薬草園を作っていた。それは事実だった。


判事はフリーダに問うた。


「あなたはトーレに薬草の煎じ汁を飲ませたか」


「飲ませました」


「致死量を含む煎じ汁か」


「私は致死量を計算しておりませんでした」


判事の眉が一瞬上がった。「計算しなかった」という答えは、致死量に達していた可能性を否定しない、と私たちは法廷の言葉として理解した。



◇◇◇



私は記録席で、フリーダの両手を見ていた。


彼女の手は荒れていた。庭仕事の手だった。爪の根元が赤く、親指の付け根に古い擦り傷があった。法廷の木の被告席に、彼女は両手を平らに置いていた。指は震えていなかった。


親指の爪の、左の方に、小さな土の痕が残っていた。法廷に連れて来られる前、彼女は自宅の庭で何かを触っていたのだろう。連行の衝撃で、洗う時間もなかった。土の痕は、乾いて灰色になっていた。私は記録席からそれを見ていた。見ながら、その土がトーレの看病のために煎じていた草を抜いた土なのか、それとも何の関係もない土なのか、誰も聞かないまま法廷が進んでいくのだと気づいていた。


私は、彼女の証言が嘘ではないとすぐに感じた。


フリーダは、トーレを助けようとしていたのだ。彼女は薬草の知識があったが、薬学者ではなかった。流行病に効くと信じた草を煎じ、四十夜、看病した。子供は死んだ。彼女は致死量を「計算しなかった」のではなく、計算できる立場になかった。


四十夜、と記録にはある。四十夜、二十四歳の女が、七歳の継子の枕元で草を煎じていた。煎じ方を教えてくれる人は、屋敷にいなかった。フリーダの実家は継子殺しの告発を準備していて、本家からは医師を送らなかった。屋敷の医師は流行病と診断して早々に引き上げた。フリーダは自分の知識の中だけで、四十夜を過ごした。自分の知識が足りなかったことを、彼女は法廷の後に、何度も自分の手のひらの上で確かめていたはずだ。確かめた手が、法廷の被告席に、土の痕を残したまま置かれていた。


ラドミルの証言の細部が、いくつかおかしかった。彼は伯爵家にその時期、滞在していなかった。記録を辿れば、ラドミルがヴェルクハイム本家から伯爵家に移ったのは、トーレが亡くなった三日後だった。


私は休廷時間に、上席判事の控室を訪ねた。


「証人ラドミルの滞在記録に、矛盾があります」


上席判事は私の顔を見た。長く見た。それから、扇を一度開いて、閉じた。


「ヴァト、君は記録官だ。記録をつけよ」


私は廊下に出た。廊下の壁に手を当てて、そこで奥歯の裏が苦くなるのを覚えた。鼻の奥がつんとした。涙ではなかった。涙が出ない、ということを、私はその日、もう一度確かめた。


廊下の壁は、石造りで、夏でも冷たかった。手のひらを当てると、石の冷たさが指先まで上がってくる。冷たさが上がってきたとき、私は自分の体の中のどこか奥の、名前のつかない場所が、その冷たさを待っていたことに気づいた。廊下の壁に手を当てる、という動作は、その日から私の癖になった。第三法廷の廊下の壁には、今でも、私の手のひらの形に擦れた場所が一箇所ある。後任の誰も、その擦れの意味を知らない。



◇◇◇



判決が下りた日、フリーダは私の方を見なかった。


彼女は、誰の方も見なかった。視線を膝に落としたまま、判決を聞いた。それから、頭を一度だけ下げた。判事に対してではなかった。トーレの位牌が、傍聴席の親族の手元に置かれていた。彼女はそちらに向かって頭を下げたのだ。


執行命令書は、判決の翌日に法廷から出された。


第三法廷記録官の署名欄に、私はペンを置いた。


書いた。


書いた。書いた、署名を。グンネル。ヴァト。インクが、紙に、染みていく。右下に、滴、落ちた。拭わない。拭えば書類の改竄。だから拭えない。だから拭えない。だから。


だから、と。


ふざけるな。


頭の中で誰かが言った。誰かじゃない。私の声だ。


ふざけるな、私。


書類の改竄になる。だから拭えない。書類の改竄。そのための。フリーダの。命の。書類。フリーダの。命を。書類と。呼んだ。呼んだ、私が。呼ぶことに。慣れた、私が。


慣れた。


慣れて。


慣れて、いた。


慣れて、いて、それを、業務、と。呼んでいた。呼んで、扇を、見て、引き下がる、ことを、職務、と。


職務。


職務。職務。職務。十四年。私は。職務、と。呼びつづけ。


ふざけ。違う。職務、じゃ、ない。


私が。


私が、フリーダを、殺した。法廷の手続きの中で、私は、ラドミルの嘘を、見ていた。見ていて、上席の扇の音に、引き下がった。引き下がって、署名した。署名した手は、私の手だ。


書け。書け、それを。


書く。


私は、フリーダを、殺した。私の手で、署名した執行命令書で。インクが乾くまで顔を上げなかったのは、上げたら自分の顔が映る気がしたからだ。法廷の天井の銀細工に、自分の顔が映ったら。耐えられなかった。


耐えられない。


それを、十四年、私は、紙の右下の滴の痕の中に、隠した。


隠した。


それが。


それが、私の。



◇◇◇



その夜、執務室の扉が一度、静かに叩かれた。


私は返事をしなかった。扉は勝手に開いて、水差しと杯がひとつ、机の端に置かれた。置いた人間は、私の背中に何秒か立っていた。私は振り向かなかった。振り向けば、その人間の顔を見ることになる。顔を見ることに、今夜の私は耐えられなかった。


水差しの把手が、私から取りやすい向きに、少しだけ動かされた音がした。


それから、扉が閉まった。


扉が閉まった音を、私は奥歯の裏で聞いた。


ヘリングだ、とわかっていた。


エイリーク・ヘリング。第三法廷に入って十年目の、七つ年下の同僚。庭の毒草の事件で、彼は上席判事の控室で、私がラドミルの矛盾を訴えたのを、廊下越しに聞いていた。聞いていた、ということを、彼は一度も口にしなかった。口にしないことで、彼は自分の場所を作っていた。第三法廷の記録官の机と机のあいだの、誰も気づかない狭い場所を。


その夜、ヘリングが置いていった水差しは、陶器の古いものだった。第三法廷の給湯室の棚の奥に、長く使われないまま置かれていた一点ものだ。普段の執務では、もっと新しい金属の水差しが使われていた。彼はわざわざ古い方を選んで持ってきた。選んだ理由を、私は知らない。知らないが、古い陶器の水差しは、金属のものより音が静かだ。扉を閉める音と、机の端に置く音の両方が、静かに済むように、彼は器を選んだのだ。


私は水差しの水を飲んだ。


水は苦くなかった。苦いと思い込んでいた口の中が、水で一度だけ、素に戻った。戻ったあと、もう一度、奥歯の裏が苦くなった。二度目の苦みは、一度目より深かった。深くなった分だけ、私はヘリングの気遣いを、自分の舌の付け根に受け取った。


受け取ったことを、十四年、彼に伝えなかった。



◇◇◇



フリーダは処刑された。


ヴェルクハイム本家の弟ラドミルは、その四年後、伯爵家の財産の三分の一を相続する権利を、法的な手続きを経て確定させた。ラドミルの母、つまりフリーダの実母は、その手続きを最後まで止めなかった。


フリーダには娘がいた。


事件のとき、十三歳。母の処刑後、ヴェルクハイム本家に引き取られた。ラドミルの妹として育てられた。


娘の名はヘルガ。彼女のことを、私はあとで別の事件で記録することになる。それは、また別の夜に書く。



◇◇◇



蝋燭が、もう半分を切った。


今夜の記録の最後に、私は自分の名を一度だけ書いた。「執行命令書、署名者、グンネル・ヴァト」。


判決文の余白に書くべきことを、今夜は書かない。


代わりに、執行命令書の控えの紙を、私はこの綴りに挟んだ。インクの滴の痕が、十四年経って、まだ茶色く残っている。

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