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断罪夜話 〜王都裁判記録より〜  作者: 九葉(くずは)


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3/12

第三夜 翻訳者の沈黙

三冊目の綴りは、表紙が革で、他のものより少し重い。


外交文書を扱った事件の記録は、第三法廷では特別な扱いを受けた。革表紙は機密の印だった。十八年前の冬、被告人イェルカ・グレンスタッド、二十二歳。罪状は敵国への内通。判決は連座による沈黙の修道院送り。父のグレンスタッド子爵は、同じ事件で処刑された。


革の感触を指で確かめながら、私はあの法廷の空気を思い出している。傍聴は許されず、判事三名と検察官二名、被告人と私だけの法廷だった。証拠物として提出された手紙は、敵国エリス語で書かれていた。



◇◇◇



イェルカは父の通訳の仕事を、十四歳から手伝っていた。


エリス語は北方の宮廷ではほとんど使い手のいない言語で、グレンスタッド子爵家は代々その専門家を出してきた。父は外交省の主席通訳官だった。イェルカは父の机の隣で、父が読み下す書簡を清書するのが幼い頃からの仕事だった。


私はイェルカに、法廷の外で一度だけ会ったことがある。事件の起きる三年前、外交省の書庫で、父の使いで書類を取りに来た彼女と廊下で行き合ったのだ。彼女は十九歳だった。髪を後ろできちんと結い上げ、胸元に書類挟みを抱えていた。


「ヴァト記録官様ですか」


彼女の方から名前を呼んだ。私は驚いた。第三法廷の下級の記録官を、外交省の書記官の娘が知っているはずがなかった。


「父が、いつも仰っています。第三法廷の記録は、ヴァト記録官のものが一番読みやすいと」


彼女はそう言って、小さく頭を下げた。


私は何と答えればいいかわからなかった。法廷の記録が読みやすい、という褒め言葉を、それまで誰からも受けたことがなかった。記録というのは読みやすさを競うものではない。正確さを競うものだ。正確さは、時に読みにくさを伴う。読みやすい記録は、時に何かを犠牲にしている。


「恐れ入ります」


私はそう答えた。答えた声が、自分でも聞こえないほど小さかった。


イェルカは微笑んで、書類挟みを抱え直して、廊下を去っていった。去り際に彼女の髪の後ろで、留めの銀の針が一度、光を返した。


その記憶を、私はその後、誰にも話したことがない。話せば、法廷での記録官の中立が揺らぐ。揺らぐことを、私はずっと恐れていた。


三年後、私は彼女を被告人として記録席から見ることになった。


裁判の場でイェルカは、自分が父の指示で敵国大使の使用人に書簡を渡した、とだけ認めた。書簡の内容については「父の指示であり、私は中身を知らされていなかった」と答えた。


私は記録席で、その答えを書き取った。書き取りながら、書簡の写しが私の手元にあるのを感じていた。検察官が証拠として朗読を求めたとき、判事は私に向かって短く言った。


「読み上げよ」


私は立ち上がった。エリス語の読み手は、その日の法廷で私一人だった。


立ち上がるとき、記録席の椅子が軋んだ。私は机の上の書簡の束を持ち上げた。三通。紙は一通ごとに質が違った。一通目は分厚い白紙、二通目は薄い黄土色、三通目は明らかに手書きの写しで、墨の濃淡が場所によって違う。私は三通を順に並べ直した。並べ直しながら、自分の親指の付け根に、いつもより強い力が入っているのを感じた。


法廷の天井は高かった。第三法廷の天井は、王立裁判所の中で一番高い。声を上げたとき、天井に反射して戻ってくる音が、話した本人の耳に一呼吸遅れて届く。この遅れを、若い記録官はしばしば自分の声の震えと勘違いする。私も最初の頃はそうだった。六年目の頃に慣れた。事件のとき、私は三十二歳で、もう慣れていた。


慣れていたはずだった。


一通目を読み上げるとき、私の声は、天井から戻ってきたときに、ほんの少しだけ震えていた。震えていたのは、遅れではなかった。本当に震えていた。気づいた判事が一人、私の方を見た。私は二通目に移った。


二通目を読み上げているあいだに、私はイェルカの方を見なかった。見れば、三年前の廊下で彼女が言った「読みやすい記録」という言葉が、頭の中でもう一度響くと思った。響けば、私はこの場で読み上げるのを止めなければならなくなる。止められない。止めれば、私自身が法廷の記録から外される。


三通目を読み上げるとき、私は速度を落とした。落としながら、隠語を隠語として訳すか、それとも普通の言葉として訳すかを、頁をめくる間隔の中で決めた。


決めた。



◇◇◇



書簡は三通あった。


一通目は、表向き、敵国の貴族間の社交文だった。二通目は、商会の取引に関する照会状だった。三通目は、王国南部の鉱山の運営に関する内部資料の写しだった。


私は順に読み上げ、判事の指示に従って王国語に翻訳した。


翻訳しながら、私は気づいた。


一通目の社交文には、定型句に紛れて、ある人物の名前が三回繰り返されていた。「我が伯父」という表現で。エリス語の「伯父」は、外交文書では特定の意味を持つ場合がある。本国の上席監察官を指す隠語だ。


二通目の商会照会状は、王国南部の鉱山から流出した銀の量を問い合わせるものだった。差出人は王国側に立つ商会で、宛先は敵国の商会だった。この銀の流出は、王国の財政帳簿には記載されていなかった。


三通目の写しは、明らかにグレンスタッド子爵自身が外交省から持ち出した内部資料だった。


三通を並べると、何が起きているかが私にはわかった。


グレンスタッド子爵は、自分自身の収賄と、王国側の人間が関わる銀の不正流出を、敵国の上席監察官経由で、王国の宮廷の上層に届けようとしていたのだ。エリス王国の上席監察官は、当時、私たちの王国の宰相と個人的な信頼関係にあった。父と娘は、敵国の正式な経路を使って、自国の不正を告発しようとしていた。



私はその三通を、王国語に「正確に」翻訳して読み上げた。


判事の前で、私は「我が伯父」を「私の親族の伯父」と訳した。隠語であることには触れなかった。私はそれが隠語であることを、判事に説明できる立場にあった。けれど、説明しなかった。


説明しなかった理由を、私は今でも自分に問うている。


外務省の領分を侵してはならない、と上席判事は何度も口にしていた。私はその言葉を、自分の沈黙の隠れ家にした。外務省の領分。それは便利な言葉だった。便利すぎる言葉は、いつも嘘の匂いがする。



◇◇◇



イェルカは判決を聞いたとき、少しだけ顎を上げた。


それから、私の方を見た。彼女の親指の付け根に、ほんの少し力が入ったのが見えた。彼女は私が何を訳し、何を訳さなかったかを、すべて理解していた。エリス語は彼女の母語でもあったのだ。


私は記録席で、ペンを動かす手を止めなかった。止めなかったが、ペン先の摩耗の右下が、その日、深く削れた。私の手の力の入り方が、いつもと違っていたのだろう。


イェルカの視線は、私を責めていなかった。


責めていれば、まだ楽だった。彼女は私を見て、ただ理解していた。法廷には、彼女の言葉のわかる人間が二人いて、そのうちの一人が選択的に黙る、ということを、彼女は理解していた。理解された、という事実が、二十年経っても私の眼球の奥を鈍く重くする。



◇◇◇



イェルカは沈黙の修道院に送られた。


父のグレンスタッド子爵は、その三月後に処刑された。罪状は外患誘致。


王国南部の鉱山の不正流出は、その五年後、別の経路で内部告発され、明るみに出た。当時の財政長官と外務次官の二名が罷免されたが、流出の規模についてはついに公表されなかった。


私はその五年の間、外務省の知人を通じて、エリス語の辞書に書き込みをし続けていた。「我が伯父」という慣用句に、私はいくつもの注釈を書き加えた。誰のためでもない注釈だ。私の机の引き出しの中で、その辞書は今も眠っている。


辞書の頁を開くと、自分の若い字が並んでいる。銀の匙の事件のあとに買った辞書だった。買った頃、私はまだ自分が何のためにエリス語を学んでいるのか、はっきりとは知らなかった。今ならわかる。私は次の機会を待っていた。機会は来た。私は使えなかった。


「我が伯父」の頁には、細かい字で、五つの注釈がある。一つ目は外交文書での用例、二つ目は商業文書での用例、三つ目は個人書簡での用例、四つ目は私自身の訳の試案、五つ目は「この語が法廷に現れた日の記録番号」だ。


五つ目の注釈は、イェルカの事件番号だった。


書いたのは事件の三年後だった。書いた日、私は自分の机に一人で座っていた。机の上には、辞書と、鉄ペンと、インクの壺があった。事件番号を書きながら、私の中指の第二関節に、いつもより長くペンの軸の重みが残った。三年経ってもまだ、その重みは、辞書の頁を開くたびに戻ってくる。


その辞書を、私は退職のときも持ち帰った。払い下げてもらった樫の机の引き出しに、今も入っている。今夜、書きながら、引き出しを一度だけ開けた。開けて、すぐに閉めた。開けたままにしておくと、自分が書きかけの注釈に引き戻される気がしたからだ。



◇◇◇



蝋燭が短くなってきた。


頭蓋骨の内側で、あの日のエリス語の音が鈍く響いている。判事の前で読み上げた自分の声が、二十年近く経って、ようやく自分の耳に届いたような気がする。


イェルカ・グレンスタッドは、敵国に通じたのではない。彼女は父と二人で、自国の闇を、敵国の正規の経路を使って告発しようとした。法廷はその経路を理解できなかった。正確に言えば、理解する一人がいた。私だ。


判決文の余白に、今夜は「我が伯父」と書き残す。


王国語ではなく、エリス語で、原文のままで書く。

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