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断罪夜話 〜王都裁判記録より〜  作者: 九葉(くずは)


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2/12

第二夜 雪夜の剣

今夜は雪が降っている。


北部の家の窓から、灰色の空が低く垂れているのが見える。蝋燭を一本足して、二冊目の綴りを開いた。被告人ボーディル・スコゲン、二十年前の冬。


スコゲン家は北方辺境伯の血筋で、女子に剣術を仕込む家だった。当主の長女ボーディルは、王立剣術院の女性課程を最年少で修めた剣士だった。第二王子と婚約していた。婚約は、北方の国境警備に剣の家を組み込むための政略だった。



◇◇◇



事件の夜、王宮の北棟の廊下で、第二王子の弟である第三王子が、ボーディルの剣で右の肩から胸まで斬られた。


致命傷ではなかった。第三王子は二月の療養で回復した。けれど、王家の血筋に剣を向けた、という事実だけが残った。


法廷でボーディルは、罪状を否認しなかった。否認しなかったが、何があったのかも一切語らなかった。判事が動機を問うても、「答える義務を私は感じません」とだけ言った。


被告席の椅子の右の脚が、当時、わずかに短かった。気づくのは私だけだった。彼女が体重を移すたびに、椅子が小さく軋んだ。記録には残らない音だ。



◇◇◇



私は当日の朝、第三法廷の控室で、一人の少女に会っていた。


控室は法廷の奥の、ほとんど人の通らない廊下の突き当たりにあった。窓のない小さな部屋で、机と椅子がひとつずつ、隅に水差しが置かれていた。私はそこで証人の聴取をするために待機していた。聴取の予定はなかった。なかったのに、扉が叩かれた。


「失礼いたします」


入ってきたのは、王宮の侍女の制服を着た少女だった。制服は彼女には大きすぎた。袖口を内側に折り返していたが、それでも指先しか出ていなかった。


「ホリ、と申します」


彼女は名乗った。声が震えていた。震えをこらえようとして、喉の奥で一度、息を詰めた音がした。


「お座りください」


私はそう言った。それしか言えなかった。


ホリは椅子に腰掛けた。腰掛けたが、背中は椅子の背もたれに届かなかった。両手を膝の上に置いて、指先を袖の中に隠した。その姿勢で、彼女は話した。


第三王子の私室に呼ばれた夜のこと。寝衣を脱がされかけたこと。叫んだ声を、隣室にいた誰かが聞いていたらしいこと。誰かが廊下を駆けてきて、扉を蹴破ったこと。剣の音がして、王子が血を流して倒れたこと。


「お嬢様が、私を、抱き起こしてくださいました」


ホリは言った。お嬢様、というのはボーディルのことだった。


「お嬢様は、何とおっしゃいましたか」


私は聞いた。聞きながら、自分のペンが記録紙の上で止まっていることに気づいた。止めていたのは私自身だった。この証言は、記録紙には書かない方がいいと、何かが私に告げていた。


「『遅くなって、ごめんなさいね』と」


ホリは言った。


「それだけです。それから、私の肩に、ご自分の外套をかけてくださいました」


私は記録紙の端に、そのひとことを、小さな字で書いた。書いたあと、そのページを破って、自分の懐に入れた。正式な記録には残さないつもりだった。残せば、ホリの名が法廷の公式な文書に載る。載れば、彼女はもう二度と宮廷から離れられなくなる。


ホリは話し終えると、私の袖を掴んだ。


「あの、私、どうすれば」


私はその手を見た。十三歳の手は、宮廷の仕事で荒れていた。爪の根元に、洗濯用の灰汁の痕があった。


「あなたが証言する必要はありません」


私はそう言った。言ってから、自分が何を約束しているのかを理解した。証言が必要ないということは、ボーディルの無実を証明する術を、私が一つ失ったということだ。


ホリは、私の袖を離さなかった。離さないまま、「お嬢様を、お助けください」と言った。


私は上席判事に申し入れた。


「被告人の動機を理解する上で、必要な証人がいます」


上席判事は書類から目を上げずに答えた。


「王家の名誉に関わる証言は、本法廷の管轄外だ」


私は引き下がった。


引き下がった、という記録は、どこにも残っていない。残っていないが、ホリの名は、今でも私の頭の隅にある。あの朝、彼女は私の袖を掴んだ。掴んだ手の力を、私は二十年経っても忘れない。十三歳の手の力ではなかった。あれは、もう二度と誰にも信じてもらえないかもしれないと知っている人間の、最後の力だった。



◇◇◇



ボーディルは、終身、北部の沈黙の修道院に幽閉されることとなった。


判決が下りる前、彼女は最後に一度だけ、私の方を見た。


視線が合ったとき、彼女の左の襟首がほんのわずかに動いた。襟元を正したのか、それとも何かを言いかけて止めたのか、私には今でもわからない。


私は奥歯の裏が苦くなるのを覚えていた。法廷の冷たい空気の中で、口の中だけが妙に熱を帯びていた。



◇◇◇



第三王子は、その三年後、療養先の温泉地で十五歳の侍女に手をかけたとして、内々に処分された。処分の内容は公表されていない。


ホリのことを、私はその後ずっと探していた。


王宮の侍女名簿からは、彼女の名が事件の翌月に消えていた。実家に戻された、と書かれていたが、私はスコゲン家の領地まで一度足を運んだことがある。


一人ではなかった。


当時、第三法廷に入って四年目の若い記録官補、エイリーク・ヘリングが、私の供を申し出た。彼は私より七つ年下だった。申し出の理由は言わなかった。「道がお一人には寒うございますから」とだけ言った。私は、その一言の中に、別の意味が混じっているのを感じた。感じたが、それ以上は聞かなかった。


スコゲン家の者は、ホリという名の少女を匿っていた。表向きは厨房の見習いとして。


スコゲン家の家令は、私に何も言わずに、ただ厨房の方を一度だけ振り返った。私もそれ以上は聞かなかった。二人とも、何かを言葉にすれば、その何かを失う気がしていた。


ヘリングは門の外で待っていた。帰り道、雪が降り始めた。王都までの道のりは、馬車でも三日かかる道だった。峠をひとつ越える。峠の茶屋で馬を替える。替えた馬が暴れる。御者が舌打ちをする。そういう道だ。


彼は私の半歩後ろを歩いた。歩くべきところでは歩き、乗るべきところでは黙って私の隣に座った。雪が本格的に降り始めたのは、峠を越えた夕方だった。馬車の中で、私は膝に毛布を掛けていた。ヘリングは毛布を使わなかった。使わないことを、私は気にしていた。気にしていたのに、何も言わなかった。


夕暮れに一度、彼が「風が冷たくなりました」と言った。


私は「そうですね」と答えた。


それだけだった。


三日の道のりで、彼と交わした言葉は、三言か四言だったと思う。最後のひとことは、王都に着いた朝、馬車を降りるときだった。彼は私の下りるのを手で支えてから、「お戻りになられて、よろしゅうございました」と言った。短い挨拶だった。


その短い挨拶の「よろしゅうございました」の「た」の止めが、私の肩甲骨の間を、わずかに震わせた。何のために震えたのか、当時の私にはわからなかった。今でもわからない。わからないまま二十年、私はそのひとことを覚えている。


その三言と、挨拶のひとことが、今でも、私の中のヘリングの声の、最初の記憶だ。



◇◇◇



ボーディルには、政略上の婚約者がいた。第二王子本人だ。


第二王子は、事件の審理中、一度だけ第三法廷の控室を訪れた。非公式の訪問だった。判事にも検察官にも会わず、ただ私一人に向かって、こう言った。


「ボーディルは、弟を斬る理由がある人間だ。そのことを、法廷は聞かないのか」


若い王子の声は低く、落ち着いていた。私は記録官として、法廷外の訪問を記録することはできなかった。できなかったが、第二王子の言葉を、私はその日の私的な手帖に書き留めた。手帖は今も私の机の引き出しの奥にある。


「ボーディルは、弟を斬る理由がある人間だ」


第二王子は、自分の婚約者が、なぜ自分の弟を斬ったのかを、知っていた。知っていたが、王家の人間として、法廷では何もできなかった。できないまま、彼は別の場所で、別の誰かの前で、それを一度だけ言葉にした。その誰かが、私だった。


私は記録できなかった。できなかったが、聞いた。


聞いただけでも、ボーディルは一人ではなかった、と私は思いたい。


第二王子は、その後、別の貴族の令嬢と結婚した。穏やかな結婚だったと聞く。けれど彼は毎年、ボーディルの誕生日に、修道院宛てに匿名で蝋燭を一箱ずつ送り続けたらしい。私はそれを、修道院の側から、あとで別の手紙で知ることになる。



◇◇◇



ボーディルが沈黙の修道院に入ってから、私は一度だけ、北部の修道院に手紙を出した。


返事は来なかった。


代わりに、その翌春、修道院の薬草園から摘んだという乾燥した薺の小袋が、差出人の名のないまま私のもとに届いた。法廷で証言を許されなかった日のことを、彼女は知っていたのだろうか。それとも、彼女は何も知らずに、ただ修道院の慣例として近隣の役人に薺を送っただけだったのだろうか。


私はその薺を、今もこの家の戸棚の奥に持っている。


開けないまま、二十年が経った。


開けない理由を、私は自分でうまく説明できない。開ければ、薺の匂いが部屋に広がる。広がったら、私はあの朝のホリの手の力を、もう一度、自分の袖の上に感じるだろう。それを感じることを、私はまだ怖がっている。


六十二歳になっても、怖がっている。



◇◇◇



蝋燭の蝋が、皿の縁から一筋、ゆっくりと垂れた。


ペン先が乾いている。インクを継ぎ足しながら、私は鎖骨の窪みが張りつめるのを覚えた。書きながら、自分が何を書いているのかが、書く前よりも明瞭になっていく。


ボーディル・スコゲンは、王家の血筋に剣を向けたのではない。


彼女は十三歳の少女のために剣を抜いた。


法廷はそれを聞かなかった。私はそれを記録しなかった。


判決文の余白に、今夜は薺の名を書き添える。


それと、ホリ、と。彼女の名を。

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