第十二夜 記録官の罪
今夜が最後の夜だ。
机の上には、十一冊の綴りが積み上がっている。一冊ずつ、背表紙に被告人の名を書いた。ヘルカ・ハシェル。ボーディル・スコゲン。イェルカ・グレンスタッド。ミンナ・ノルドルム。フリーダ・ヴェルクハイム。ヴィルマ・ブラント。ティルダ・ハシェル。グンヒルド・ノルドルム。ヘルガ・ヴェルクハイム。ヤナ・ハルカ。そして十一冊目、シグリ・ノルドルムの手紙の写し。
十一の名を書いて、私は十二冊目の表紙に手をかけた。
十二冊目には、まだ何も書かれていない。誰の事件でもない綴りだ。
これは、私自身の綴りだ。
◇◇◇
私はこの十二冊目を、この十日間、書くか書かないか迷っていた。
書く必要はないかもしれない、と思っていた。十一の事件を書き直すこと、それ自体が、私の罪の記録になっているはずだった。私が何を書かなかったか、何を見過ごしたか、どこで扇の音に屈したか。それらはすべて、十一冊の中に書かれている。
けれど、シグリの手紙が届いた夜から、私は自分の罪を、誰の事件でもない場所で、もう一度書く必要があると感じている。
なぜなら、私の罪は、十一の事件のどこにも完全には属さないからだ。私の罪は、それぞれの夜に分散されている。分散されたままでは、それは「記録官の業務上の限界」として読まれてしまうかもしれない。私はそれを恐れている。私の罪は、業務上の限界ではない。私の選択だった。
選択だった、ということを、書く。
◇◇◇
私は記録官として、第三法廷に三十二年間勤めた。
その三十二年間に、私は約六百件の裁判記録を取った。そのうち、被告人が女性であった事件は百三十七件。そのうち、判決が「処刑」または「終身幽閉」であった事件は四十一件。そのうち、私が「これは不当な判決ではないか」と内心で感じた事件は、十一件あった。
ちょうど、十一件だ。
それが、この綴りの十一冊だ。
四十一件の重い判決のうち、十一件で私は不当を感じた。十一件のうち、私が上申書を出したのは、ヤナの一件だけだった。残りの十件で、私は記録官の業務範囲を理由に、何もしなかった。
何もしなかった理由を、私はこの十一の夜にわたって書いてきた。
銀の匙の事件では、上席判事の縁戚を恐れた。
雪夜の剣の事件では、王家の名誉を盾にされた。
翻訳者の沈黙の事件では、隠語の解説を控えた。
帳簿の継娘の事件では、自分の旧姓を隠した。
庭の毒草の事件では、執行命令書に署名した。
仮面の告発の事件では、証拠物の紛失を記録した。
聖堂の結界の事件では、ハシェル姉妹の繋がりを書かなかった。
最後の侍女の事件では、母を母と呼ばなかった。
北の花嫁の事件では、トルケル五世の書き込みを注釈しなかった。
法廷の少女の事件では、少女の最後の言葉を慣用句に隠した。
シグリへの返事は、まだ書かれていない方への返事だ。罪は未来形だ。返事を書くことで、私はもう一度、自分の選択を試される。
◇◇◇
これらの選択を、ひとつずつ別の言葉で言い直すことが、できる。
上席判事の縁戚は、私の上司だった。私が逆らえば、私の記録官の地位は危うかった。
王家の名誉は、当時の若い記録官にとっては、絶対的な壁だった。
隠語の解説は、外務省の領分を侵すと判断した。
旧姓は、私の養女縁組の条件だった。
執行命令書は、記録官の業務だった。署名は順番制で、私の番だった。
証拠物の紛失は、保管庫の管理上の事故として記録するように、上席から指示された。
ハシェル姉妹は、二十二年離れた事件で、繋ぎ合わせる業務上の理由がなかった。
母は、私が母娘の縁を伏せて勤めていた以上、法廷で呼べる相手ではなかった。
書き込みは、外交文書の正式な記載ではなかった。
慣用句は、第三法廷の慣例だった。
これらの言い直しは、すべて事実だ。事実なのに、どれも、私の罪を軽くしない。事実は罪を説明するが、罪を消さない。事実を並べた瞬間、私はそれが言い訳の構造をしていることに気づく。私は三十二年間、この言い訳の構造の中で記録を取っていた。
◇◇◇
私が今、書きたいのは、別のことだ。
罪を軽くする言い訳ではない。罪を残す言葉だ。
罪を残すための言葉を、私は法廷の用語の中に持っていない。法廷の用語は、罪を「裁く」ためのものだ。「残す」ためのものではない。残すためには、別の言語が必要だ。私はその言語を、退職してから二年、自分で探してきた。探しながら、見つからなかった。
シグリの手紙が届いた夜、私はようやく、その言語の輪郭を見た。
それは、誰かに読まれることを前提とした文字だ。
記録官の文字は、保管庫に収められるためのものだった。誰にも読まれない前提で書かれていた。だから、記録官の文字には、罪を残す力がなかった。罪を残すには、誰かが読む必要がある。読む人がいて、初めて、書かれたものが「残る」。
私は今、シグリのために書いている。
シグリのために書きながら、二十七人の女性たちのために書いている。修道院の入り口で、私の記録を一度だけ見る彼女たち。読みたい人だけが読み、読みたくない人が読まずに済む、その距離を保ったままで。
◇◇◇
十二冊目の最後の頁に、私は次の一行を書く。
「庭の毒草の執行命令書に、私は名前を書いた。インクが乾くまで、顔を上げなかった」
これは、庭の毒草の綴りには書けなかった一文だ。あの綴りには「執行命令書、署名者、グンネル・ヴァト」とだけ書いた。「インクが乾くまで顔を上げなかった」のは、私の体の動作だ。動作は、法廷の記録に残るものではない。けれど、私は今、それを書く。動作は、罪の一部だ。動作を書かない記録は、罪を漂白する。
私は漂白したくない。
もう、漂白したくない。
書く。
「最後の侍女の法廷で、私は母を母と呼ばなかった。呼べなかったのではない。呼ばないと選択した。呼べば、母が二十六年守った沈黙を壊すと、私は思った。母が壊したくなかったのは、沈黙ではなかった。母は、娘である私が法廷で生き残ることを願っていた。母の願いを、私は『母の沈黙を守ること』と読み違えていた」
「法廷の少女の判決後、私はヤナ・ハルカの最後の言葉を、慣用句に隠した。隠した理由は、毎日その言葉と向き合うのが恐かったからだ。恐かった、ということを、私は二十五年間、業務上の慣例として記録の上に残し続けた」
「これらは、業務上の判断ではなかった。これらは、私の選択だった。私は、選択した記録官として、ここに名を残す。グンネル・ヴァト。旧姓ノルドルム。第三法廷記録官、退職、六十二歳」
◇◇◇
私は書き終えて、ペンを置いた。
置いて、もう一度持ち直した。
まだ書き終わっていないことが、ひとつ残っている。昨夜、シグリへの返事の途中で、私の中に浮かんだ、もうひとつの顔。七つ年下の顔。二十八年前、第三法廷に入ってきたばかりの、若い記録官補の顔。
エイリーク・ヘリング。
彼の名前を、私は長く、この綴りに書かなかった。書けば、母の事件、雪夜の剣の事件、庭の毒草の事件、仮面の告発の事件。それらの夜のすべてに、彼の影が重なる。重ねて書くことが、私は怖かった。重ねて書くことは、彼の存在を、私が受け取っていた、と認めることだからだ。
彼は七年前に退職した。退職して、生まれ故郷の、王国南部の小さな港町に戻った。町の名はブレーダル。海から近い、冬でも雪の少ない土地だ。彼は今、五十五歳。
退職してから、私たちは月に一度、手紙をやり取りしている。
彼の手紙はいつも短い。
「変わりなく」
「お気をつけて」
「こちらの冬は短い」
短い手紙が、月に一度、郵便の使いを経由して届く。
母の手紙と、同じ長さの手紙だ。同じ言葉から始まり、同じ静かさで終わる。
母は二十六年間、短い手紙を私に書き続けた。ヘリングは二十八年間、同じ形を書き続けている。私は二人の手紙を、どちらも深く読まなかった。深く読まないことで、自分を守っていた。
今年の春、私は初めて、二枚の手紙を並べて机の上に置いた。
母の最後の手紙。ヘリングの先月の手紙。
「た」の字の止めが、二枚とも、わずかに長く伸びていた。
ヘリングは、母の手紙を、どこかで見たことがあったのだ。見た日から、彼は母の筆跡を真似て、私に手紙を書き続けていた。二十八年のあいだ、毎月。私は二十八年のあいだ、毎月、その筆跡を受け取りながら、気づかなかった。
気づいたのは、この春だ。
気づいてから、私は第一夜の綴りを開いた。十一の事件を、書き直し始めた。書き直しの理由を、私は長らく、「記録官の罪の償い」と自分に説明していた。
本当の理由は、違う。
本当の理由は、ヘリングに読まれたかったからだ。
読まれて、返事がほしかった。二十八年の「変わりなく」ではない、別の返事が。
認めるのが、怖かった。認めれば、六十二歳の自分が、誰かに読まれたいと願っている、ということを、自分で引き受けなければならない。引き受けることを、私は長く避けていた。記録官として三十二年、私は「読まれない前提」で文字を書いてきた。今さら別の前提に立つことが、怖かった。
怖いまま、今夜、書く。
◇◇◇
ヘリングへの手紙を、私は今、書いた。
便箋の最初に、私はいつもの書き出しから始めた。
「変わりなく」
「お気をつけて」
ここまでは、彼の手紙と同じだった。二十八年間、私たちのあいだで交わされてきた、合言葉のような書き出しだった。
その次に、私は少しだけ長く書いた。
「銀木犀が、こちらでは今年、遅く咲きました」
これは、母の最後の手紙の模倣だ。母は「いつもより早く咲いた」と書いた。私は「遅く咲きました」と書いた。早いと遅いの違いだけが、私と母の違いだった。母は自分の終わりを予感しながら書いた。私は自分の終わりをまだ決めていない。決めていないから、遅く咲く、と書ける。
ここまでが、いつもの私たちの言葉の範囲だった。
その次から、私は母が書けなかったことを、自分の筆で書き始めた。母が返せなかったもの、私が母に返せなかったもの。書き始めるときに、私は便箋の余白を一度だけ指でなぞった。余白はまだ白かった。白いままでいさせてもいい余白に、私は敢えてペンを下ろした。
「エイリーク」
彼の名前だった。
二十八年間、私は彼を「ヘリング」とだけ呼んできた。一度も、エイリーク、と書かなかった。書かないことで、私は彼と自分の間に、法廷の机と机の距離を保っていた。
保たなくてもよかった。
今夜、ようやく気づいた。
エイリーク、と書きながら、私の親指の付け根に、二十八年分の力が入った。入って、紙が少しだけ歪んだ。歪みを直さなかった。直さない方が、今夜の手紙に似合っていた。
名前を書いたあとで、私はもうひとこと書いた。
もうひとことは、もっと短かった。
「お会いしたい」
書きながら、私は頭蓋骨の内側で、母の声を聞いた気がした。母が王宮で、王太子妃様の銀木犀のことを書いていたときに、本当は書きたかった言葉。
私は、母に代わって、それを書いた。
書いて、便箋を折った。折り畳んで、封筒に入れた。封筒の宛先に、「ブレーダル、エイリーク・ヘリング様」と書いた。「エイリーク」と宛名に書くのも、二十八年ぶりだった。書きながら、手が少しだけ震えた。震える手を、私は止めなかった。止めなくていい手の震えが、この世にはあるのだと、六十二歳になって、私は今夜、初めて知った。
◇◇◇
私は書き終えて、ペンを置いた。
机の上の蝋燭は、もう四本目の半分まで燃えている。今夜が、最後の夜だ。明日、私はこの十二冊を、発送する。
発送先は二か所ある。
一通目は、北方の沈黙の修道院。シグリ・ノルドルム宛。二十七名の女たちが読むかもしれない、読まないかもしれない、その入り口に置かれる十二冊。
二通目は、南部の港町ブレーダル。エイリーク・ヘリング宛。二十八年、同じ書き出しの手紙を書き続けてきた、七つ年下の男の机の上に置かれる十二冊と、一通の手紙。
二つの発送先が、今夜、私の中で並んでいる。北と南。修道院の入り口と、ブレーダルの港。女たちの沈黙と、一人の男の待ち合わせ。私は十二夜かけて書いた記録を、その両方に送る。どちらか一方ではなく、両方に。
送ることで、私は初めて、「読まれるために書いた」記録官になる。
記録官、と呼び続けていいのかは、わからない。
シグリへの手紙にも、ヘリングへの手紙にも、私は最後に「グンネル・ノルドルム」と署名した。ヴァトではなく。三十年以上捨てていた旧姓で。
捨てていた、と思っていた。
本当は、預けていただけだった。誰か一人が、いつか呼び戻してくれる日まで。
シグリが手紙の中で、私を「グンネル」と呼んでくれた。ヘリングは、まだ私を「グンネル・ノルドルム」と呼んだことがない。けれど、明日以降、彼はそう呼ぶかもしれない。呼ばないかもしれない。呼ばなくても構わない。呼んでくれるかもしれない、と思える状態に、私は六十二歳にして、初めて立っている。
◇◇◇
蝋燭の芯が、最後の一本も傾いた。
私は机の前で、十二冊の綴りを並べ替えた。一冊目は『銀の匙』。最後の十二冊目は、表紙に何も書かないままにする。読み手が、自分で名をつけるかもしれない。
書き終えてから、私は窓を開けた。
夜の風が部屋に入ってきた。北の風だった。
頭蓋骨の内側で、十一の声が、ひとつずつ静かになっていく。最後に、母の声が、銀木犀のことを言った。「今年は、いつもより早く咲いた」と。私はその声に、二十年ぶりに、答えた。
「うん。母さん。こちらでは、今年、遅く咲いたよ」
声に出して言った。誰も聞いていない部屋で、声に出して言った。
それから、私は窓を閉じた。蝋燭を吹き消した。
机の上には、十二冊の綴りと、二通の手紙の控えが残っている。
明日、これを発送する。




