表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
断罪夜話 〜王都裁判記録より〜  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

11/12

第十一夜 沈黙の修道院から

今夜、私は新しい綴りを開かない。


代わりに、机の上に一通の手紙を置いている。封筒の表には、北方の沈黙の修道院の紋が押されている。差出人の名は、シグリ・ノルドルム。沈黙の修道院長。四十一歳。


この手紙が私のもとに届いたのは、十日前のことだ。私はこの十日間、毎晩、これまでの記録を書きながら、机の隅にこの手紙を置いていた。封は切ってある。十日前に切った。一度読んだ。そのあと、もう一度封筒に戻した。


十日前の朝のことを、私は今夜、書き残しておきたい。


その朝、郵便の使いが家の前に来た。北の郵便は月に二度しか来ない。私は退職後、王都の裁判所以外からはほとんど手紙を受け取っていなかった。だから、郵便の使いの足音が近づいてくる音を、家の中でも聞き分けられるようになっていた。その朝、足音はいつもと違っていた。早足だった。急ぎの便だった。


郵便の使いは、封筒を一通、私に渡して帰った。封筒には北方の修道院の紋が押されていた。沈黙の修道院の紋を、私は若い頃に一度だけ見たことがあった。第三法廷に提出された、ある被告人の受け入れ承諾書の隅に押されていた紋だった。紋の形を、私は四十年以上忘れていなかった。その紋が、自分の家の台所の机の上に置かれている、ということが、その朝の私には、まだ現実感を持っていなかった。


封を切るのに、私は少し迷った。迷って、結局、台所の鋏で切った。鋏の刃が紙に入る音が、いつもより硬く響いた。中の便箋を取り出して、一度読んだ。読み終えて、封筒に戻した。その日から十日間、私は封筒を開けなかった。開けない代わりに、毎晩、机の隅に置いて、自分の書く記録を進めた。記録を書くことと、シグリの手紙は、どこかで繋がっていると感じていた。繋がり方を、今夜、私はやっと言葉にする。


今夜、もう一度読む。



◇◇◇



「グンネル・ヴァト様


突然のお手紙、お許しください。


私はシグリ・ノルドルムと申します。母はミンナ・ノルドルム、私の幼い頃、流刑に処された者です。あなたは母の遠縁にあたる方で、三十年前、母の事件の記録から執務を外されたと、後年、北の親族から伺いました。母が最後に私に残した言葉の中に、あなたのお名前がありました。


私は母が流刑になったあと、十一歳で沈黙の修道院に送られました。母の取り計らいで、ノルドルム公爵夫人の手から離されたのです。修道院は、表向きは終身幽閉の場所ですが、内実は、行き場を失った女たちを匿う場所でもあります。あなたは記録官として、それをご存知だったかもしれません。


私はこの修道院で育ちました。長じて、十二年前から院長を務めております。


今、修道院には、二十七名の元被告人がおります。皆様、判決の上では『終身幽閉』または『死罪』とされた方々です。死罪とされた方の中には、名を変えて此処に身を寄せた方もおられます。私たちはお互いの過去を問わず、ただ、ここで暮らしております。


あなたが書かれた記録のことを、私はある方から聞きました。あなたが退職後、過去の事件の記録を一人で書き直していると。


その記録を、修道院で読みたいのです。


ここには、ご自分の事件の判決文を、もう一度、別の言葉で読みたい方々がおられます。判決文は、私たちにとっての過去の唯一の文書です。判決文の言葉だけが、私たちの過去を『定義』しています。けれど、その定義は、私たちの記憶と、いつも食い違っています。


あなたが書かれているものは、私たちにとって、二つ目の文書になるはずです。一つ目とは違う、二つ目の。


ご検討いただけますでしょうか。


返信は急ぎません。


シグリ・ノルドルム」



◇◇◇



手紙を二度読み終えて、私はペンを置いた。


置いてから、ペンをもう一度取った。返事を書こうとして、書き始める前に、もう一度ペンを置いた。


シグリは、ミンナの娘だった。


帳簿の継娘の事件で、私が触れた「妹のシ」という音は、シグリのことだった。あのとき、私は彼女が公爵夫人の手元に残されることを、母ミンナが選んだ犠牲だと信じていた。実際は違った。ミンナは流刑の前に、何らかの方法で妹を修道院に逃がしていたのだ。三十年間、私はそれを知らずにいた。知ろうともしなかった。


知ろうともしなかったのは、私が逃げていたからだ。


ノルドルムという名から。


母の家から。


私自身の旧姓から。



◇◇◇



私は返事を書き始めた。


「シグリ・ノルドルム様


お手紙、ありがとうございました。


返事が遅れたのは、十日間、自分の書いている記録を、誰かに読まれることを想像していなかったからです。私は自分のためだけに書いていました。記録官として、自分が書かなかったものを、もう一度書き直すために。書き直すことが、書かなかったことの償いになると、勝手に思っていました。


償いになるかどうかは、私の判断することではない、と今、初めて気づいています」


私はそこまで書いて、また筆を止めた。


止めて、自分の左の襟首を一度正した。書きながら、肩甲骨の間に、何か温かいものが流れた。汗ではなかった。汗は、もう私の体からは出にくくなっている。それは別の何かで、私はその名前を知らない。


書く。


「あなたのお手紙の中に、母上のお名前を読みました。


ミンナ・ノルドルムは、私の遠縁の従妹でした。


私は二十年前、自分の母グンヒルド・ノルドルムを、第三法廷で記録しました。母は王太子妃様の侍女頭でした。母の事件のことを、あなたはご存知かもしれません。


私はそのとき、母を母と呼ばずに、執務除外も申請せずに、記録席に座りました。座ったことを、二十年間、自分に問うてきました。問いの答えは、まだ書ききれていません。けれど、書こうとしています。書こうとしているうちに、あなたのお手紙が届きました。


私は、あなたの修道院に、私の記録を送ります。


ただし、いくつかの記録は、まだ書き終えていません。書き終えてから送ります。それまでに、もう少し時間をください」



私はそこで筆を止めた。


止めて、もう一度、シグリの手紙を読み直した。読み直しながら、彼女が「お互いの過去を問わず、ただ、ここで暮らしております」と書いた一文に、目が止まった。


過去を問わず。


その言葉が、私の中で、別の意味を持って響いた。


私が記録官として書き直しているものは、結局、過去を問うている。彼女たちの過去を、もう一度文字にして、定義し直そうとしている。それは、彼女たちが修道院で得たかもしれない平穏を、もう一度揺さぶることになるかもしれない。


私は迷った。


迷ったが、書く。


「ただ、もうひとつ、お伝えしなければならないことがあります。


私の記録の中には、修道院の方々が読むには、辛いものが含まれているかもしれません。あなた方が選ばれた『過去を問わない』という生き方を、私の文書が壊してしまう可能性があります。


ですから、お送りする前に、一つだけお願いがあります。


私の記録を、修道院の入り口に置いてください。中に入る前に、皆様が一度だけ見られるように。読みたい方だけが、読まれるように。読みたくない方が、読まずに済むように」



◇◇◇



私はそこまで書いて、ペンを置いた。


机の上に、シグリの手紙と、私の書きかけの返事が、二枚並んで置かれている。蝋燭の光の中で、二枚の紙の質感が違うのが見える。シグリの手紙は厚手の生成りの紙で、修道院で漉いたものだ。私の返事は、退職後に法廷から払い下げてもらった裁判記録用の薄い紙だ。


二枚の紙が並ぶことを、私は二十年前には想像できなかった。


母の処刑の日に、私が王宮の北の庭で拾った銀木犀の花弁は、最後の侍女の綴りに移し替えた。今、机の上の蝋燭の光が、その綴りの背表紙にも届いている。


私は返事の続きを書く。


「お手紙をいただいたこと、私は二十年ぶりに、自分の名を呼ばれた気がしています。


ヴァトという姓は、私が記録官として身につけた名です。ノルドルムという姓は、私が捨てた名です。あなたがその両方の前で、私を『グンネル』と呼んでくださったことに、お礼を申し上げます。


もう少し書きます。書き終えたら、送ります」



◇◇◇



蝋燭の四本目に、火を移した。


私は親指の付け根に力を入れて、ペンを握り直した。鎖骨の窪みが、いつもとは違う種類で張りつめている。書くことの重さが、誰かに読まれるという前提で、私の体に戻ってきている。


読まれる前提で書く、ということを、今夜、私はシグリへの返事で初めて引き受けた。引き受けた瞬間に、もうひとつ、別の顔が浮かんだ。シグリではない顔だ。七つ年下の、もう長く会っていない顔だ。


その顔は、シグリの手紙の封を切った瞬間には浮かんでこなかった。十日間、毎晩記録を書きながら、少しずつ、少しずつ、私の中に浮かんできた。銀の匙の綴りを書き直したとき、一度。雪夜の剣の綴りを書き直したとき、二度。聖堂の結界を書き直したとき、三度。記録を書き進めるたびに、その顔は私の机の反対側の椅子に座って、私の書く手を見ているような気がしていた。気がしていた、という言い方は弱い。言い直す。七つ年下のその顔は、十日間のあいだ、確かに私の机の向かいに座っていた。私は一度も振り返らなかった。振り返らなかったが、背中でずっと気配を感じていた。


その顔のことを、今夜はまだ書かない。


最後の夜に書く。


判決文の余白に、今夜は何も書かない。


代わりに、シグリの手紙の封筒の裏に、私は一言、自分の旧姓を書いた。グンネル・ノルドルム。二十年ぶりに書く字だった。書きながら、ね、の字の止めが、母の最後の手紙と似ていることに気づいた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ