第十夜 法廷の少女
十冊目の綴りを開く前に、私は窓を一度開けた。
夜の外気が部屋に入ってきた。北の風だ。蝋燭の炎が傾き、私は窓を閉じた。閉じてから、もう一度ペンを取った。
二十五年前の冬、被告人ヤナ・ハルカ、十五歳。罪状は王都の高利貸しと共謀した詐欺の主犯。判決は処刑、成人扱い。
成人扱いという言葉を、私は今でも書くたびに、舌の付け根が重くなる。
◇◇◇
事件は、王都の中央市場の周辺で起きた大規模な貸金詐欺だった。
数十軒の小商人が、偽の借用証書をもとに法外な金利の取り立てを受け、店を畳まされた。被害総額は、当時の王立銀行の年間予算の三分の一に相当した。捜査の結果、首謀者として三名が起訴された。一人は逃亡、一人は逮捕直後に獄中で死亡、残る一人がヤナ・ハルカだった。
ヤナはハルカ家の四女だった。ハルカ家は王都の南の旧家で、もとは染物業の名家だったが、二十年前から家業が傾き、十年前から父親が借金を重ねていた。
ヤナは十一歳で家を出て、王都北の高利貸し業者の事務所に「奉公」に出された。父親が利息の代わりに娘を差し出したのだ。事務所での彼女の仕事は、帳簿の見習いだった。文字と数字が読めて、子供の身分を疑われない子供が、業者にとって都合がよかった。
事務所は王都北の市場の裏手にあった。表向きは両替商の看板を掲げていたが、実態は小商人向けの高利貸しだった。奉公に出された子供は、ヤナの他にも数名いた。彼らは皆、朝から晩まで帳簿に数字を書き続けていた。ヤナは同年代の子供たちの中でも一番筆が早く、同じ時間で他の子の二倍の帳簿を仕上げた。
事件の後、私は一度、その事務所のあった場所を見に行った。事件から三月ほど経った日のことだった。事務所は既に空き家になっていた。扉の隙間から中を覗くと、机がひとつだけ残っていた。小さな机だった。大人の机ではなかった。子供の机だった。机の上には、乾いたインクの染みがいくつか残っていた。染みの位置から、そこに座っていた子供が右利きだったことと、字を書くときに左手を紙の左端に添える癖があったことがわかった。
ヤナの癖だった。
私は扉の隙間から、その机を眺めていた。眺めているあいだ、通りの向こうから市場の呼び売りの声が聞こえていた。子供の机は、その声の中で、ひっそりと置かれていた。眺め終えて歩き出したとき、私の親指の付け根に、その机の木目の感触が残っている気がした。触れてもいない机の感触が、なぜ残ったのか、私は今でも説明できない。
◇◇◇
ヤナは法廷で、最初から最後まで同じことを言い続けた。
「私は数を数えていただけです」
判事は何度も問い直した。
「お前が借用証書を作成したのか」
「私は数を数えていただけです」
「お前が小商人たちの店を訪ねて取り立てを行ったのか」
「私は数を数えていただけです」
判事は次第に苛立った。私は記録席で、彼女の答えを一字一句、書き取り続けた。書き取りながら、私の中指の第二関節は、その日、いつもより強く折れ曲がっていた。ペンを持つ手の力が、止まらなかった。
ヤナは確かに、借用証書を清書した。確かに、取り立ての記録を帳簿につけた。確かに、業者の事務所の机の前に、毎日座っていた。
けれど、彼女が「主犯」かどうかは、別の問題だった。彼女の上には逃亡した男がいた。男は事件の発覚と同時に、国境を越えた。男の名は、彼女の証言からは出てこなかった。出さなかった、というよりも、彼女には男の名を知る権限がなかった。事務所では、男は「ご主人様」とだけ呼ばれていた。十一歳から四年間、彼女はその呼び名しか聞いていなかった。
法廷で、ヤナは「ご主人様」の名を言えなかった。
「言わない」のではなく、「言えない」のだった。彼女は本当に名を知らなかった。私は記録席で、彼女の表情の一切を見続けていた。あれは知らない者の表情だった。長く法廷にいると、知っていて隠す者と、本当に知らない者の表情の違いが、見えるようになる。
◇◇◇
私はその夜、第三法廷の上席判事に上申書を提出した。
上申書を書いたのは、判決の前日だった。書いた場所は、第三法廷の執務室の、自分の机の前だった。夜の十時を過ぎていた。執務室には、私一人しか残っていなかった。蝋燭を二本灯して、紙を一枚広げた。書き出しで三度迷い、書き終わりで七度迷った。中身は八行だった。八行を書くのに、私は二刻以上を使った。
八行を書き終えたあと、私は自分の書いた紙を読み返した。読み返しながら、自分の字が普段より少し大きいことに気づいた。気づいて、書き直そうと思った。思ったが、書き直さなかった。書き直せば、この上申書の中から「私の感情」が消える。私は感情を残したかった。感情を残した上申書は、記録官としては失格だ。失格を、その夜、私は自分に許した。許した理由は、十五歳の少女のためだった。
「被告人ヤナ・ハルカ、年齢十五歳、未成年。共謀の事実は認められるが、主犯と認定するに足る証拠は不足。減刑を申請する」
上申書を出した記録は、第三法廷の文書庫に今も残っている。私が書いた数少ない、記録官の業務範囲を超えた文書のひとつだ。
上席判事は、上申書を読まなかった。
正確に言えば、開いたが読まなかった。彼は私の前で上申書を開き、目を上から下まで一度走らせ、閉じた。閉じたあと、こう言った。
「ヴァト、君は若い記録官にしては、よく働く。だが、この事件は王都の商人たちが結束を求めている事件だ。誰かが処されなければ、商人たちは納得しない」
「未成年です」
「成人扱いの前例はある」
「少女です」
上席判事は、扇を一度開いて、閉じた。
私はその扇の動作を、その後何度も別の事件で見ることになった。記録官として三十二年、私はあの扇の音に屈し続けた。
◇◇◇
判決の日、ヤナは被告席で泣かなかった。
十五歳の少女は、法廷の被告席に座って、両手を膝の上に置いていた。手は震えていなかった。震えていなかったのは、四年間の事務所勤めで、彼女が震えない訓練を受けていたからだった。高利貸しの事務所で、震える子供は使い物にならないのだ。
その日、法廷の被告席の彼女の姿勢を、私は今でも覚えている。背筋を少しだけ前に倒していた。前に倒した姿勢は、机の前に座って帳簿を書く子供の姿勢だった。法廷の被告席には机はない。ないのに、彼女の体は、机の前の姿勢を覚えていた。四年間の事務所勤めが、彼女の骨格そのものを、帳簿係の形に変えてしまっていた。
判事が判決を読み上げた。死刑。成人扱い。
ヤナは判決を聞いたあと、私の方を見た。
なぜ私の方を見たのか、私には今もわからない。彼女は私が上申書を出したことを知らないはずだった。記録官が上申書を出すのは異例の行為で、被告人に伝えられることはない。けれど彼女は、まっすぐに私の方を見た。
そして、彼女は言った。
「数を数えていただけだったのに」
それが、彼女の最後の言葉だった。
私は記録した。「被告人、判決後、しか言葉なし」と書いた。「しか言葉なし」というのは、第三法廷の記録の慣用句で、判決後の被告人の発言を逐語で残さない、という意味だ。私は彼女の最後の言葉を、慣用句の中に隠した。
隠した。
いや。
正確に言えば、隠したのではない。書きたくなかったのだ。彼女の最後の言葉を、判決文の写しと一緒に書庫に収めたら、私はその一文と毎日向き合うことになる。私はそれに耐えられなかった。
耐えられない。
耐えら、ない。
少女の。十五の。最後の。言葉を。慣用句で。誤魔化した。誤魔化した、私が。書ける手があった。書けるペンがあった。書かなかった。
ふざけるな、私。
ふざけ。違う。ふざけてたのは、ヤナじゃない。ヤナは数を数えていた。本当に。本当に、数を。十一歳から、四年間、毎日、机の前で、数を。数えて、いた、子供を、私たちは、主犯と。呼んだ。呼ぶことを、慣例と、呼んだ。慣例を、業務と、呼んだ。業務を、職務と、呼んだ。職務を、私の人生と、呼んだ。
私の人生は、誰かの最後の言葉を、慣用句に隠すことだった。三十二年。
書く。
「被告人ヤナ・ハルカ、判決後、こう述べた。『数を数えていただけだったのに』」
◇◇◇
ヤナの処刑は、判決の十日後に執行された。
執行は王都の中央広場で公開された。私は見に行かなかった。見に行く義務はなかった。義務はなかったが、見に行かなかったことを、私は二十五年間、自分に問うている。彼女が私の方を見たあの瞬間、私は彼女に何か返すべきだったのではないか。返さなかったのは、私の中の何が許さなかったからなのか。
私はそれを、今夜まで言葉にできなかった。
今夜、書く。
私は彼女に、申し訳なくて、見に行けなかった。それだけだ。それを「義務がなかった」と言い換えていたのは、自分を守るためだった。守る必要があったのは、私が彼女の最後の言葉を、慣用句で誤魔化したからだ。慣用句で誤魔化した日から、私は彼女の処刑を見ることができない人間になった。
それが、私の罪だ。
◇◇◇
蝋燭の三本目に、火を移した。
頭蓋骨の内側で、ヤナの声が、二十五年経って、ようやく逐語で響く。「数を数えていただけだったのに」。私はこれを書きながら、奥歯の裏が苦くなり、舌の付け根が重くなり、肩甲骨の間がぞわりとした。一度に全部だった。
判決文の余白に、今夜は彼女の最後の言葉を全文書き写す。慣用句ではなく、逐語で。




