第一夜 銀の匙
夜の机に蝋燭を一本だけ置いて、私は古い綴りを開く。
北部の家は、窓がひとつ、扉がふたつ。退職の餞別に王立裁判所から払い下げてもらった樫の机と、自分で運び込んだ寝台と、本棚がひとつ。壁に掛けてあるのは、退職の辞令と、若い頃に買った薄い辞書だけだ。辞書の背表紙は、三十年以上使い込まれて、革が擦り切れている。
机の上には、十二冊の綴りが積んである。一冊目を私は手前に引き寄せた。
第三法廷の整理番号は四桁、三十二年前の春。被告人ヘルカ・ハシェル。罪状は毒物投与未遂。羊皮紙の隅に、当時の私の若い字が残っている。少しだけ右上がりの字。二十九歳の私が書いた字だ。当時の私はまだ、右上がりに書く癖を直そうと努力していた。五十を過ぎた頃、その努力を諦めた。
判決文の写しはここにある。判決文に書かれなかったものを、今夜、私は別の紙に書き直すつもりでいる。
書き直す、ということが何を意味するのか、私はまだうまく説明できない。三十二年前の法廷を、今夜の紙の上で別の形に作り直すこと。それは法廷の記録として正しいことではない。記録は書き直されてはならない。記録官として三十二年間、私はそう教えられ、そう自分にも言い聞かせてきた。
今夜、その戒めを破る。
破る、ということを、私は六十二歳になってようやく自分に許した。
◇◇◇
ヘルカ・ハシェルは、ハシェル男爵家の長女だった。
書類には「薬学に通じていた」と書かれている。正確に言えば、彼女は王都の薬師ギルドでも例を見ない調合師だった。十六歳で毒草の解読書を一冊書き上げ、十八歳で辺境伯ノルダー家の長子と婚約した。
解読書のことを、私は事件の後で知った。ギルドの書庫の奥に一冊だけ写本が残っていた。余白に、彼女自身の小さな文字で「母より」と書き添えられた草の名がいくつもあった。母より教わった草、母より譲り受けた草、母が処方していた草。ハシェル男爵夫人は、ヘルカが十歳の頃に亡くなっている。死因は心の臓の病、と家の記録にはある。ヘルカは母の死後、母の薬棚を自分の部屋に移して、そこで薬草を学び始めた。
法廷で、私は一度だけ彼女に会った。事件の三日目、証拠物の確認のために被告人控室に入ったときだ。控室の窓は北向きで、午後の遅い光が彼女の背中に落ちていた。彼女は両手を膝の上に置いて、壁の一点を見ていた。私が入ってきても、顔を上げなかった。
「証拠物の確認にまいりました」
私がそう言うと、彼女は初めて顔を上げた。二十一歳の顔だった。疲れてはいたが、崩れてはいなかった。
「銀の匙ですね」
彼女はそう言った。
「はい」
「拝見できますか」
私は匙を差し出した。彼女は受け取らなかった。受け取らずに、目だけで匙の窪みを見た。見て、「はい」とだけ言った。「これは、私が使っていた匙です」。
私はそれを記録した。「被告人、証拠物を自分が使用していたものと確認」。
その一行が、彼女を北の鉱山に送る決定打のひとつになった。
婚約発表の三月後、長子の体に変調が現れた。
法廷に証拠として提出されたのは、銀の匙が一本だった。長子が朝食に使っていたものだ。匙の窪みの裏側に、薄い緑がかった膜が残っていた。鑑定書には「マチルダの根の煎じ汁、致死量に至らぬ濃度」と書かれていた。
ヘルカは婚約者に贈り物として、よくこの匙で蜂蜜を運んでいた。だから匙には彼女の指の跡が残っていた。
判事は短く問うた。
「あなたが盛ったのか」
ヘルカは答えなかった。
被告席は古い樫で、座面の右側に黒い染みがある。彼女の手はその染みの真上にあった。両手は膝の上で、親指の付け根に力が入っていた。顎の付け根が一度だけ動いた。
「あなたが盛ったのか」
判事はもう一度言った。
ヘルカはうなずいた。
私はそう書いた。「被告人、罪状を肯認」。
ペンを置きながら、私は彼女の薬指を見ていた。爪の根元に、薬草を扱う者特有の薄い染みがあった。マチルダの根なら、そういう染みは出ない。マチルダは指を染めない草だ。彼女の指の染みは、別の薬草のものだった。
私はそれを記録に書かなかった。
◇◇◇
その夜、私は鑑定室に寄った。
鑑定室は第三法廷の地下にあった。石造りの階段を下りると、鉄の扉があって、扉の向こうに煙草の匂いが漂う小さな部屋がある。鑑定官はオルフと言って、当時四十代半ば、煙草を吸いながら書類を書く癖のある男だった。私が扉を叩いて入ると、彼は顔も上げずに「何だ」と言った。
「証拠物甲の銀の匙を、一度、量らせていただきたいのです」
オルフは顔を上げた。
「記録官が証拠品の重さを聞いてどうする」
彼は煙草を灰皿の縁に置いた。
「記録に残す必要は、ありません」
私は答えた。私の答えの意味を、オルフは数呼吸のあいだ考えていた。それから、ゆっくり立ち上がって、壁際の棚から秤を出してきた。秤は真鍮製で、皿の縁にいくつか傷があった。
「重さだけだ」
「はい」
オルフは証拠品の保管庫の鍵を開けて、銀の匙を持ってきた。匙は紙の袋に入れられていた。袋の表には、事件番号と、鑑定日と、オルフ自身の署名があった。
彼は匙を秤の皿に置いた。
秤の針が、ゆっくり右に振れて、止まった。
「二割、重い」
オルフが言った。
「通常の銀の匙よりも」
「はい」
私は胸の中で数を数えていた。胸の中で、と言うのは正確ではない。鎖骨の窪みの奥で、数を数えていた。一度、二度、三度。針の位置が変わらないことを確認するまで、私は息を詰めていた。詰めた息を吐いたときに、自分の息が苦いのに気づいた。
「蝋を引いた器は、重くなる」
私は言った。
オルフは何も答えなかった。答えない代わりに、煙草を灰皿から取って、もう一度吸った。それから、匙を袋に戻して、保管庫に戻した。保管庫の扉を閉めながら、彼はひとことだけ言った。
「記録官、この話は、ここで終わりだ」
私はうなずいた。
鑑定室を出て、階段を上りながら、私は自分の足音を聞いていた。石の階段の上の、自分の靴の音。若い記録官の靴の音。その音が、これから三十年以上、同じ建物の廊下を歩き続けることを、当時の私はまだ知らなかった。
これは、誰も法廷で言わなかった事実だ。マチルダの根の煎じ汁は、長く服用すると銀器を腐食させる。腐食を恐れて器の内側に蝋を引く者がいる。蝋を引いた銀器は、わずかに重くなる。
匙はずっと前から使われていた。ヘルカが婚約するもっと前から。
辺境伯ノルダー家には、長子と歳の近い継母がいた。先代辺境伯の後妻で、二十年以上、家政を取り仕切っていた女だ。
私は自分の机に戻って、報告書の草案を書いた。書いて、三度書き直して、結局、何も提出しなかった。
三度書き直した理由は、最初の草案が怒りに寄っていて、二度目が論理に寄りすぎ、三度目がどちらにも寄らなかったからだ。三度目の草案が一番冷静で、一番説得力があった。だからこそ、私はそれを提出できなかった。提出すれば、誰かが動かなければならない。動くのは誰か。私ではない。私の上席判事だ。そして上席判事は動かない。動かないことを、私はもう知っていた。
提出しなかった理由を、当時の私は「証拠が不十分だから」と自分に言い聞かせた。
六十二歳の私は、別の理由を知っている。
継母の実家が、私の上席判事の妻方の縁戚だったのだ。
報告書を破り捨てた夜、私は奥歯の裏が苦くなるのを覚えた。涙ではなかった。涙が出ないという感覚を、私はその夜に初めて知った。法廷の若い記録官が、最初に身につける感覚だった。
◇◇◇
ヘルカは北の鉱山に流された。
判決が下りた日、法廷の空気はいつもと違っていた。傍聴席は満員だった。ハシェル男爵家と辺境伯ノルダー家、両家の縁者が半々に座っていた。縁者たちの誰もが、彼女の顔を見なかった。判事が判決文を読み上げているあいだ、傍聴席の誰一人、彼女を見ようとしなかった。
見ていたのは、私だけだった。
被告席の右の木目が、午後の光で金色に見えていた。彼女の両手は、いつものように膝の上に置かれていた。判決文の最後の一行を判事が読み上げた瞬間、彼女の親指の付け根が、ほんの少しだけ緩んだ。力を抜いたのだ。決まったから、もう力を入れなくていいと思ったのだろう。その緩みを見ていたのは、私だけだった。
彼女は私の方を一度だけ見た。視線が合った。彼女は何も言わなかった。私も何も言わなかった。
彼女の唇の端が、わずかに上がった気がした。
いや。
違う。それは美化だ。三十二年経って、私は何度も自分の記憶を磨き直してきた。磨き直すたびに、彼女の口元が動く方に動く。動かない方には動かない。
正確に言えば、彼女は私を見た。それだけだ。
記録には残らない。残らないが、私の目の奥には残った。
◇◇◇
半年後、辺境伯の長子は死んだ。死因は心不全と公式に発表された。
その三年後、辺境伯の継母は領地の養護院に多額の寄付をして、自分も同じ養護院で晩年を過ごした。誰もが「立派な後妻だった」と噂した。ヘルカの名は、もう誰も口にしなかった。
長子の弟が爵位を継いだ。継いだ弟は、兄の遺品を整理する中で、銀の匙を一本だけ自分の手元に残した、と後年、私は別の経路で聞いた。理由は伝わっていない。彼が何を知り、何を知らなかったのか、私には今もわからない。
ヘルカには、ずっと年下の妹がひとりいた。
妹のことを、私はあとで法廷で見ることになる。それは別の夜に書く。
◇◇◇
蝋燭の芯が傾いた。
中指の第二関節を折り曲げて、指の腹でペン先の摩耗を確かめる。三十年以上使ったペンだ。右下が削れている。私の癖で、書くときに少し右に傾ける。
今夜の記録を、私はここで閉じる。
判決文には、被告人ヘルカ・ハシェルが罪を認めた、とだけ書かれている。
判決文の余白に、私は今夜、銀の匙の重さを書き残した。
通常品より二割。蝋の分。
それだけが、今夜、私が書けた真実だ。




