75話 小島幸恵
その後スミスからの忠告もあり、富山にはあれ以来行ってない。その間にベンチャー企業でも体制が変わり、技術部長は退職させられた。
企業の社長が、直々に謝りに来て部下の不始末を口にして分かったことだった。
「先生には、大変なご迷惑をおかけしました。新薬開発の情報を漏らすなんて、許されることではありません。内部の膿は取り払いましたので、どうか今後とも以前の通りのお付き合いをお願いします。」土下座をするかのようにして社長は謝る。
ただ、技術部長がC国から金を貰っていたことは警察から伝えられたが、勇次の夜釣りを外部に漏らして、勇次に危険が及んだことまでは知らなかったようだ。
社長に本当のことまで話したら、一層、恐縮しまくるだろうと思い、襲撃事件のことは知らせなかった。
ただ、これでスミスの言ったことは裏付けられた。
「私が危険人物と認識されている。」改めてその意味をかみしめた。
襲撃から2か月して、勇次が院長室で書類に目を通していると幸恵から電話で会いたいと言ってきた。
「申し訳ないが、富山に行くことが出来なくなったので、こちらに来てもらうことはできますか?」
「はい。電話で話しにくいことなので、伺わせてもらいます。」
その時は、用事って何だろうと思いながら、仕事に集中し忘れてしまう。
「小島幸恵と言う方がお見えになっています」病院の受付から幸恵が来たことを知らせて来るまで、すっかり頭から離れていた。
会ってみると、幸恵はいつもと違って余所行きの服を着てしとやかな雰囲気を漂わせていたが、どこかやつれて、おどおどしている。
「お久しぶりです」と簡単な挨拶の後、幸恵の口から思わぬ言葉が飛び出した。
「あのう、妊娠しました。」その口ぶりは、恥じらいと小さな不安を帯びていた。
「産んでも良いでしょうか?」その言葉に、彼女のためらいがあった。
伏し目がちにして、勇次の口からどんな言葉が飛び出すか待っている。
勇次はいきなりのことで頭の中が混乱した。
自分のした行為は否定できない、まさかと言う思いがする。彼女はもう40近いうえに、子供に永らく恵まれてなかった。あの一度の行為で子供ができるなんて思いもしなかった。
あの時は意識が薄れており、命が助かった安堵もあって、コーツを抑えきれなかった。コーツは地球に少しでも自分の種を生みつけたい。目の前の裸の女性に手を出さずにいられなかった。
ただ、勇次とコーツは同体であり、過ちであったとしても責任を感じる。
何よりも自分の子供が産まれる喜びがあった。
そして幸恵に命を救われた。
「私の子供ですね」
彼女はうんと頷く。
「是非、産んでください。私も出来るだけのことはします。あなたに心配はいりません。」
それを聞くと、彼女は「う、う・・」と泣き出した。
幸恵は勇次が子を認知しないばかりか、「堕ろせ」と言うのではないかと心配していた。
「産んでもいいか」と最初に聞いたのも、その不安からだ。
産んでくれと言われ、嬉しさで涙が止まらない。
嗚咽をしながら、小刻みに肩を震わせる。背中を勇次はそっと撫ぜると、彼女はようやく落ち着いてきた。
「わたし、心配だったんです。先生から何を言われてしまうのか」
ただ一度口にすると、堰を切ったように言葉が続いた。
「私、恵美を出産してから、夫はもっと子供を欲しがっていたのですが、子供はできませんでした。もう歳も歳なんで、子供はできないと思っていたのです。それなのに先生に抱かれて子供が出来たなんて思わなかった。でもいつもの物が始まらず、まさかと思って、産婦人科に行ったのです。そしたら、嬉しい結果でした。
でもここに来て、もし先生から否定されたらどうしようと思いました。
40近くで妊娠するなんて、まして私には夫がいません。世間からなんて言われるか。それを思うと不安でたまらなかった。
先生、本当にいいんですね」
「勿論だ。安心して子供を産んでください」
その後で、今後のことに話が移った。
「私は事情があって、なかなか出張に行けなくなった。こちらに移ることはできますか?勿論娘さんも一緒です。住まいは私が手配します。」
「本当ですか?そんなに甘えさせてもらって良いのですか?」
「私の子供が無事に産まれるなら、そのくらいのことなら何でもしますよ」
「娘は高2で、こちらに移るなら転校しないといけませんが、納得してくれるでしょう。」
「娘さんは進学希望ですか?」
「いえ、あまり勉強は好きでないので、進学しません。」ただ、それは言い訳であることが後に分かる。
「では、こちらに移っても勉強の問題はありませんね」
「はい。娘も田舎よりは都会で暮らす方が楽でいいと思います。」
「ここも都会ではないですが、それなりの生活はできます。」
話しが纏まると、幸恵は喜びの顔で帰った。
勇次は約束通りに幸恵親子の家を提供し、彼女たちは娘が春休みに入った機会に越してきた。