63話 北京での取り調べ
ベッドを直させている間に、フロア係にはどうしてあの女が部屋にいたかを問い詰めたが、「知らない。いつの間にか入っていた」と答えるのみ。
「お前でなければ誰が、女を入れることが出来る?」
「知らないんだ。あの女の勝手にやったことだ」同じ言葉を繰り返すだけだった。
埒が明かないんで、フロア係も追い出したが、釈然としなかった。
「あらまし聞くと、あのフロア係も一枚かんでいると見た方がいいですね。」小林もホテル側に疑いを抱いている。
「まあ、そうだろうね。僕にハニートラップを仕掛けてきた理由は何だと思います?」
「今度の会議で、院長は顔を良くも悪くも相当知られたようです。女は院長に近づいてなんらかの利益を得ようと考えたのでしょう。女の企みはどうにかして肉体関係を院長と持って、金かあるいは特権を得ようと考えたのではないでしょうか?院長は私の助言を守り、会場とホテルの往復だけでしたし、ホテルのバーにも行っていませんよね。それであの女はあなたに接する機会がなくて、思い切って部屋に忍び込んで院長と関係を持とうとしたんじゃないですか?院長が自制心を持っていてくれてよかったです」
「いや、もう少し酒が入っていたら、私も手を出していたかもしれない」と苦笑いした。
「どうも、院長は狙われているようです。まだ学会は残っています。より注意してください」
小林の心配は学会が終わり、ホテルを引き払った後で、的中する。トランクケースを引きずって、空港に向かおうとしている時に、公安課を示す印章を付けた男たちによって勇次だけが連行されてしまう。残った小林は佐竹夫妻には帰国してもらい、単独で行動を開始した。
連れていかれたのは真新しいとは言えないが、まだ建てられてそう古くない巨大なビルだった。そこで取り調べに当たった男は何かネズミを連想させる、小顔の目の鋭い男だ。このほかに助手と通訳の三人により厳しい尋問が始まった。
部屋は6畳ぐらいの大きさで、小さな机と椅子だけが並んでいる。係官のみが勇次と机を挟んで対峙し、両脇に二人が傍にいた。
木製の椅子は、座布団もクッションもなく固い面と尻が接し、座り心地など全く考慮してない代物だった。最初の10分は何も感じなかったが、座って30分ほどすると、尻が痛くなってきた。
それに比べ、取り調べ官の方は金属とプラスチックを組み合わせた、人間工学に基づいて設計された物を使用しており、明らかに容疑者に苦痛を与えるために用いられている。
「女をどうしてホテルに連れ込んだ?」
「まず私にどのような嫌疑があるのか説明していただきたい。」
「お前はこちらの質問に答えるだけでいい。質問するのはこちらだけだ」
「それは横暴だ。こんなことが許されるはずもない」と激しく抗議するが請け合ってもらえない。
「お前は、女をホテルに連れ込んだ。そんな破廉恥なことはここでは許されないことだぞ。」
「女が勝手に部屋に入り込んできただけだ。見つけてすぐに部屋から放り出した。破廉恥な真似など出来るはずもない」
「いや、お前が女を部屋にいれたことが悪い。」
「だったら、どんな犯罪行為に触れたのか説明してくれ」
「何度言ったら分かる、質問するのは俺の方だ。お前は黙って応えるだけにしろ!」
そんな、押し問答を繰り広げて、3時間も経ち、勇次の腹が変調をきたす。
こちらでは油濃い料理を多く口にした。そして、長く固い椅子に座らせられたことで、便意が切迫したのだ。
「トイレに行かしてくれ」そう言うと、勇次を案内してくれた。
ところがそこにはびっくりするものが目の前にあった。
3畳ほどの所に、便器が3つぽつんとおかれているだけで、ドアどころか仕切りなどの目隠しなど何もなかった。プライバシーなど遠い世界の言葉だった。
しかも当然のようにして、係官の助手が監視している。他人の目の前で用を足さなくてはならなくなった。
今は他に用を済まそうとする者はいないが、いれば隣り合って用を足す形式のトイレだ。
所謂、ニーハオトイレと言われる奴だ。少し昔のこの国では普通の物であったが、国際化された今ではほとんど姿を消したと言われている。片田舎なら残っているかもしれないがここは国際都市で、そんなものが未だにあることが信じられないものだった。
それなのに敢えてこのトイレをここで使っているのは、容疑者の逃亡防止と精神的な打撃を与える狙いがあると考えられる。尻が丸見えの状態で排泄を行わなければならないトイレは、外国人にとって恥辱そのものと感じるし、もし女性ならば耐えられないことだろう。外国人容疑者を精神的に追い詰めることを図っていると見て良いだろう。
容疑者に屈辱を与え、尋問する側に有利な証言や約束をさせようとする狙いが感じられる。
気の弱い人や女性ならこんな恥辱を味わうなら、取り調べ官の言う通りにされてもいいと思うかもしれない。
勇次もこのトイレを見た時は、唖然としたが、切迫する便意に耐えられず、監視の前で尻を剥きだし、排出するしかなかった。
ただ恥ずかしい思いをしながらも、思考に耽る良い時間を得たと思った。
「コーツ、小林とは連絡を取れているのか?」
「ああ、大丈夫だ。小林は勇次が連行されると、すぐに日本大使館に駆け込んでいる。そこで、俺は今の状況を小林のスマフォに音声と画像を送り込んでいる。これを小林は大使館員の前で流している。取り調べの実況中継なんてめったにお目にかかれるものではない。大使館員は面白い物を見ていることだろう。」
「随分他人事のように楽しんでいるが、早く、こんな所からは抜け出したいぞ」
「ああ、分かっている。それで、俺も取り調べ官のスマフォの番号を調べたぞ。」
「コーツ。そんなことも出来るようになったのか?」
「目の前にいる奴と長時間、向き合っていれば大抵の秘密は掴んで見せるさ。後は暗示能力の精神の乗っ取りができれば俺は完全復活だ。」
「今は、そんなことはいい。これから取り調べ官をまず揺さぶってやる。コーツは良いタイミングで、奴のスマフォに小林から呼び出しをさせろ!」