56話 説得
その2時間後、勇次と由香は彼女のマンションに帰った。
由香の心労を思えば、近くの場所で休みたかったのだが、由香の落ち着ける場所は彼女のマンションしかないと思った。
モーテルなどは営業していたが、こういう所はカメラを仕掛けていることがあり、彼女をなるべく人目にさらしたくない気持ちもあった。
「ごめんなさい」車の中で、彼女は小声でずっとすすり泣いていた。ほとんど会話にならず、とにかく彼女の気持ちを落ち着かせるのが優先だ。
家に着いた時は既に、夜が終わろうとする時間であった。
「休みなさい」最初は興奮して寝付けないと言っていたが、やはり森の中をさまよい歩き疲れがでたのか、ベッドに強制的に運ぶとぐっすりと眠ってくれた。
昼近くになって起きだして、一緒に食事を摂る。勇次が拵えたハムエッグにトーストであったが、彼女は「美味しい」と言って全部平らげた。
帰ったばかりは死人のような青ざめた顔であったが、血の色が頬に浮かび、赤みをさすまでになっている。
そして「ねえ、どうして私の居る所が分かったの?」由香は勇次が自分を探し出してくれたかについて、どうやら不思議に思うようだった。
今までは彼女自身のことしか頭が巡らず、ようやく勇次も事も気遣うようになってくれたのだ。
ただ、まさかコーツが分身を彼女の身体に貼り付けているとは言えない。
「由香の身体には赤い糸を巻き付けてある。僕は由香がどこにいるかを常に知っている」と冗談のように言った。
「まさか、嘘でしょう」
「嘘じゃない。昨日だってちゃんと見つけたじゃないか」
「でも、そんなでたらめ信じられない」
「それほど由香が好きなんだ。信じろよ」
「分かったわ。これ以上聞かない。でも嬉しいわ」
最期まで強引に赤い糸で押し通した。
由香が寝ている最中に、勇次は晶子に電話をしている。
「突然飛び出して、君を驚かして済まなかった。実は夜中に女性から電話があって、彼女の声がただならない様子だった。それで飛び出して、彼女を探したところ、見つけたのは青木ヶ原の近くだった」
「まあ。」それだけで晶子は人の命がかかっていることが分かったようだ。
「今彼女を保護して休ませているが、まだ落ち着かない状況で目を離せない。今日一日は帰れないと思う。帰ったら事情を話すよ」
「その女性のことも詳しく聞くわ」
「ああ、全部説明する」
それで、納得してくれるとは思えなかったが、簡単に事情を言って電話を切った。
由香も少しは落ち着いてきて、捨て置きした車のことを気にして来る。
彼女の車は事務所から業者に頼んで取りに行ってもらうことにした。
「しばらく身内の人に来てもらえないか?」一人で家にいるより、知っている人と一緒にいた方がいいと言った。
「両親は大阪に住んでいるし、すぐ来てもらいないわ。それにあまり心配かけたくない」
そう言われると、それ以上強くは言えない。
「事務所の人に今度のことを話してもいいか?」
「うーん。話してもいいけど、洗いざらいに話さないで。私から言うわ」
彼女も仕事をほったらかしにはできないと考えるようになっている。
「どうして、死のうとしたんだ?」
彼女に答えにくい質問だ。だが、それが分からなければ彼女は又命を絶とうする。是非知っておかなければならなかった。
由香は最初俯き、どのように言おうかと迷っていた。
やがて、意を決して、話し出した。
「私、あなたのことを本気に好きになってしまったの。好きになって、あなたを自分の物にしようと考えた。でもあなたは家庭を大切にし、奥さんを大事にした。私がどんなに願っても必ず家に帰って行った。私、それがたまらなく寂しかった。
そして、今度ピアフを演じて、彼女の事を良く知った。ピアフはセルダンと愛して、好きになったけど、最後はセルダンの幸せを考えた。セルダンの家族、家庭を壊すことまで考えなかった。
それに比べ、私は自分が本当に情けないくらい愚かな女だと思えてきたの。あなたの家庭を壊しても、私のものにしたいと考えた。なんて醜い身勝手な女だと思ったの。
誰も私を相手にしない、自分なんかいてもいなくても良い存在だと思えてきたの」
所謂、負のスパイラルだ。精神的に自分を追い詰めてしまい、自分を価値のないものと決めつけていた。
「由香、お前、僕の女になってくれ。僕はお前を愛しているし、お前に死なれては困る」
「え、でもあなたにはご家族がいる。それを壊せないわ」
「僕は今の家庭を守るし、お前も守る。今の家族を大事にして、お前とも家庭を築く」
それは、勇次の身勝手な言い方だった。
でもその目は本気だった。
少しの間、見つめ合ってから、由香は「いいわ」と言った。
「風呂に入ろう」それからはいつもと違って、勇次が由香を誘っていく。
「痛くないか」藪の中も歩いたのだろう。由香のすらりと伸びた足には切り傷がいくつもある。それを愛おしいようにした優しく洗ってやる。
湯船の中で体が温まって来て、彼女も上気しているようだ。
由香の秘所に手を伸ばすと、「くすぐったい」と彼女が嬌声を上げる。今日初めての笑いだ。
勇次はその後も彼女の背中を洗い、髪を洗ってあげる。
「なかなか乾かないね」由香の髪は長く、ドライヤーに当てても乾いてくれない。それでも勇次は念入りに彼女の身体を拭いた。
やがて、ベッドに入るといつものように由香はコンドームを出してくる。
「いや、今日からは付けない。由香の中に僕の命を吹き込む。由香は僕の子供を産むんだ」
力を込めて言うと、彼女は受け入れた。そしていつもよりも激しくベッドの上で絡み合い、悶えた。
「嬉しかったわ」行為の後、由香がポツリと言った。
「もう、ここには僕と君の赤ちゃんがいる。君の身体は君だけのものではない。僕の物でもあるし、僕と君の赤ちゃんの物だ。」
それを由香に自覚させたかった。
「私のお腹に赤ちゃんが・・・?」きょとんとした表情だ。
「ああ、絶対お前は身ごもったよ」
「私に勇次との子供ができる」勇次の強い言葉が、本当のことに思えてきた。