55話 失踪
「私はピアフを演じきった。これで世間の評価も変わる」由香はドラマの収録が終わると、満足感に包まれた。
しばらくは忙しい仕事は入れてない。のんびりと時間を過ごし勇次との密会を楽しめる。そんな気分に満たされていた。
「ねえ、今度のドラマは私の自信作だから必ず見てよ」勇次に会った時も念を押した。
ドラマの放映は一月後だ。仕事を休みのんびりしていると、撮影中の緊張と高揚感が薄れて、少しずつ心境が変化してくるのが分かる。
ピアフになり切ったことで、性格がかぶってきた感じがする。
「ピアフはそれからもいくつもの悲劇に襲われている。交通事故にも遭って、体も不自由になった。でも最後まで幸せだった。セルダンに死なれても、他に恋人は作ったし、友人たちに恵まれていた。歌姫マリーネ=ディートリッヒとは生涯を通じて、親友であったし、イブ・モンタンなど後輩も育てている。それに比較して私は、一人ぼっちじゃない?」
由香はドラマの収録を終えると、寂寥感に襲われるようになっていた。
大きな仕事をした後は、よくあることだ。ただ、今度は特に孤独の気持ちが強い。
放映の日、食い入るように画面を見つめた。
「私の演技に不満はない。」彼女は感情をできるだけ抑える演技をした。公演やセルダンと会ったときには感情を思い切り前にだした。そのメリハリは上手くいっている。
「でもピアフと私は違い過ぎる」ドラマが進行していくと次第に、由香にピアフへの思いが強まって来た。
「事務所の人は私を大事にしてくれる。でも彼らは友達ではない。仕事だから私を支えてくれているだけ。今の私には勇次しかいない。勇次なら私を幸せにしてくれる。
でも、勇次には家庭がある。勇次は私と家庭とどちらを選ぶだろうか?その答えは決まっている。私ではない。」そう思うと切なかった。
テレビで改めて自分の演じたピアフを見ていると、涙が零れ落ちてくる。
「ピアフはセルダンの家庭を壊そうとしなかった。それなのに私は勇次の気を惹こうと、破廉恥なことまでやった」
ある時は全裸で毛皮のショールだけを羽織り、勇次の目を奪った。またある時は女子高生に扮し、セーラー服を身に着けた。30過ぎで流石に無理かと思ったが、鏡の自分は女子高生そのものになっていた。それもこれも勇次を楽しませるためにしたことだ。
自分のしてきたことが急に恥ずかしいと思えてきた。
「ピアフは不倫を良しとはしなかった。それに比べ、私はなんと身勝手な女だったの?勇次の家庭を壊すことをして平気だったの?」
ピアフが気高く生きたのに比べ、自があまりに矮小に思える。
マンションの部屋にいても落ち着いていられなかった。
無性にどこかをさまよいたくなる。そして車に乗り込むと当てもなく走らせていた。
いつか、彼女は富士の樹海に辿り着いていた。
「私は一人に」そう思うと涙が込み上げてきた。
そして「最後に勇次の声を聴きたい」とスマフォを持つ。
「もしもし」勇次の声が聞こえ、ほっとする。
ドラマを見終わった後、勇次は一人、書斎で医学書を読んでいた。晶子は子供たちとベッドに入っている。
そこに由香からの電話がきた。「こんな遅く何事か?」と思いつつ受話器を取る。
「私のドラマ、見てくれた?」話はありきたりのことだった。こんな真夜中に何で電話してきたのかと思う。
話は2分も続かなかった。そして最後に由香が「さよなら」と言った。
あり得ないことだった。
由香の電話の最後はいつも「ねえ、今度いつ会える?またね」が決まり文句だ。
(おかしい)勇次は電話を置くと物思いに沈んだ。
(今日の由香の声は沈み過ぎていた。俺との電話でこんな声は初めてだぞ。由香に何かあったのか?)
「おい、コーツ。由香の居場所を教えてくれ」
「由香?あの女は放っておけ。子供を作らない女と付き合っても無駄だ」
「いや、今日の由香はおかしい。居場所を教えろ」
「それじゃあ、言うが。ここから西南に70キロぐらいだな」
地図で確認してどのあたりか見当がついた。
「こんな所にいるのか?」慌ただしく勇次は部屋を出て、車に乗り込んだ。
由香は樹林の中を歩いていた。森の中は暗かったが、月夜があって、足元は見えた。
遠くで梟の鳴き声が聞こえ、たまに獣の鳴き声もあった。でもそれを怖いとは思わない。
彼女の頭は既に恐怖を感じていられなかった。決して、死を覚悟していたのではない。死ぬための物は何も用意してなかった。
ただ、無性に「自分なんてもうどうでもいい」と思うようになっていた。
「このまま人知れず、朽ち果てたい」ただ森を歩いていた。
勇次に電話して何時間たっただろうか。その間、歩いては立ち止まり、疲れては古株に腰を掛けた。
その間、考えていたのは過去の自分への否定だった。
「自分なんて・・・」頭の中で否定の文字がぐるぐる回っていた。
あまりに腰を下ろし過ぎてお尻が痛く感じ、彼女はまた歩き出す。
するとばったり目の前に黒い大きな影が現れた。
びっくりして、思わずその場を逃げようとする。
「由香」と言う声と同時に腕を掴まれた。勇次だった。
「え、まさか。」と思いながらその手を振りほどこうとする。
「放して!」と叫んだ。
「ばか」その声と同時に頬に平手が当たった。
そこで、はっとして我に返る。
「ううう・」そんな声と共に勇次の胸で泣いていた。