38話 ストーカー
由香はモデルから転じてタレントになったが、ただ美人でスタイルが良いだけでここまで有名になったのではない。顔とスタイルが良いだけのタレントなら、少しもてはやされたのち、数年経つと世間から忘れ去られる。彼女が十年近くトップの座をキープしてきたのは、頭が良く、会話も上手くMCもこなせられるからだ。演技の才能も見せ、今では女優と言う目でも見られている。
学校を出てないが、社会のことはよく知っており、政治や経済のことも関心を持っていた。それだけに彼女との夕食中の会話は盛り上がる。
「本当に梶谷さんは、私のことを知らなかったの?」
「いやあ、テレビを見ないので、芸能のことを良く知らないのです」
「それにしたって、私を知らないなんてあんまりよ」すねるように言ってくる。
こうしたやり取りは女優の巧みさでもあり会話が盛り上がる。
また勇次がすごい才能の持ち主なのに、余りの芸能無知とのギャップが会話を面白くさせる。
「もっとゲームやパソコンを知りたい。そして芸能人を知らないこともからかいたい」
「もっと会話したいわ」
ただ、この店は人気店らしく、外には席が空くのを待つ人もいて、あまり長居するのは少し気が引けた。二人とも同じ気持ちだったようで、どこか別の店でお茶でも飲むことにする。
「少し歩こう」「ええいいわ」歩きながら、雰囲気のよさそうな店を探すつもりだ。
「おい、ユージ後ろから変な奴が付けているぞ」コーツの声だ。言われるまでもなく、店から出てすぐに勇次も後ろからのどす黒い怒りの感情に気づいていた。
「どうやら、僕らを追いかけている奴がいる」と由香に声をかける。
「え」と由香が周りを見渡そうとするのを止め、「動かないで、僕の言う通りにして」というとゆっくりと頷く。
「僕がキスをしようとするふりをするから、君も合わせて」丁度人通りが途絶え、ちょっと街灯の間隔があいて、少し薄暗い場所で勇次が由香の足を止める。
「分かったわ」
流石に由香は女優であり、こんな状況でも巧みな演技者だ。
勇次が如何にもキスしようと首を傾け、顔を近づけると、由香がそっと勇次の背中に手を回してくる。
後ろから見たなら、きっとキスをするようにしか見えなかっただろう。
すると後ろから足音がした。
「由香から離れろ!お前を殺してやる」見知らぬ男がそう叫ぶなり後ろから近づいて、勇次に刃物を突き出してきた。
さっと、振り返った勇次はその時には用意が出来ている。如何にもキスをしているように見せかけたのは男を誘い出すためだし、男がここで仕掛けてくるのも読み込み済みだ。
男の手に刃物が握られているのは少し意外だった。殴り掛かってくるだろうと読んでいたが武器を用意しているとは思わなかった。
ただ、男の動作は全く素人そのものだ。少しでも早く切りつけたかったのかナイフを握った手を一杯に伸ばしているのだ。
手を前にしてしまえば前に重臣が行き、それだけ動作が遅くなるし、腕を掴まれやすい。これでは勇次にとって、何をすることも簡単だった。
まず手刀で男の手を強く打つと、その痛さにたまらず男はナイフを落とした。
「野郎」それでも男は構わず突っ込んできた。血走っていて、周りが全く見えてない。
その足を払うと完全に体を泳いでしまって、地面に顔もろとも突っ込んだ。
四つん這いになった男を、上に乗りぐいと締め上げ、腕を決める。動きを封じてしまうのに、何秒もかからなかった。
「110番して」と由香に指示する。
ただ、その電話が警察に通じて、由香が状況を説明し始めるよりも、近くの交番から警官が早く駆けつけてくれた。
「暴漢が襲ってきたので、捕まえました。暴漢の持っていたナイフはそこに落ちています」簡単に説明しただけで、警官も状況を飲み込めてくれる。
「分かりました」と言って、警官は男にすぐ手錠をかけた。
「捜査に協力していただき、ありがとうございます。ついては署までご同行お願いします」
そう言われると否応もない。由香と一緒にパトカーに乗り警官に同行することになった。
こういう時に必ず野次馬が現れ遠巻きに囲むのが通例なのだが、今回は警察の処置があまりに素早かったので数人見られた程度だった。
そしてまさか騒動の渦中に有名人が紛れていることに誰も気づかれなかった。
「え、あなたは由香さんだったのですか?」
それまで由香は、つばの広い帽子を目深にかぶり、サングラスもして顔を見せないようにしていた。署で初めて素顔を見せると、警察署に詰めていた警官たちは驚きの声を上げる。
男は警察署で素直に犯行の動機などを喋った。どうやらストーカーは由香のファンで最近、彼女の身辺をうろついていたようだ。
由香の回りを常に追いかけていた。それで今夜も彼女が男とレストランに入ったのを見つけるとそのまま張り込み、店を出た二人を追いかけた。そして、男が由香とキスするようなところを見て我慢できなかったと自供した。
「別にこちらには被害はありませんし、今後、犯人が私に付きまとうようなことはしないと言ってくれたなら、被害届は出しません」勇次からのアドバイスもあって、由香はこの事件を穏便に済ませることにした。こんなことで芸能ニュースの話題にされるのは面白くない。
「それなら、事件の処理は簡単に済みます。また、何かあれば、ご事情を説明頂くかもしれませんが、今日の所は帰っていただいて結構です」と言ってくれた。
由香のファンでもある警官は、プライバシーも考慮してくれ、事情聴取や事務処理も簡潔に切り上げてくれた。