10話 人工授精
妙子は良夫とは顧客とのトラブルの法律相談したことから知り合った。その時の経験から良夫が信頼できる人物と思った彼女は仕事以外でも親しく話をするようになる。
そして転職して起業してみたいが資金が足りないと思わず本音を漏らした。
すると、良夫から「ある人が子供を欲しがっていて、人工授精をしてくれる人を探している」と話が出た。
「相手は有名な方で、多額の謝礼も出ます。その金がなら、十分な起業資金になるでしょうし、遊んでいても2,30年は食っていける。」
妙子にとって大変魅力的な金額だった。ただ一つだけ条件を言った。
「相手の方を知りたい。有名人物でも薄っぺらな人は何人も見てきた。そんな人物の子など産みたくはない。相手の人が尊敬できる方なら、子供を産んでも構いません」
その結果、勇策と対面することになったのだ。
実際に相手が梶谷勇策と分かり、「妻にしてくれ」と言ったのはとっさの判断だった。
「梶谷と言う政治家は子供の時の記憶しかない。でも彼の行ったことは日本の経済や外交立場の躍進に大きく貢献したことはよく知っている。『日本社会は豊かになったが、社会格差を増長させた』として辛辣に批判する人も多くいる。でもそれは、後になって言えることだ。複雑に絡み合った利害関係を調整し、判断するかは政治家の役割だ。首相の地位を伺ったほどの実力者の梶谷さんにたいして、誉め言葉と批判が相混じる。彼の仕事は全ての国民にとって良かったのではないが、概ね正しかった。」
社会に出て、いろいろな経験したからこそ、梶谷と言う政治家をそのように評価し、尊敬していた。
その梶谷が目の前にいて、子供を欲しがることに異常さを感じた。
「功成り名遂げられた人が、何で今さら子供を欲しがるのか?」
「梶谷さんが子供を欲しがる理由は分からないし、多分教えてもらえないだろう。だから、それだけにこちらの条件も多分呑んでくれる」と判断した。
「私の妻になりたい。それは私の名声を利用したい為、そのことは分かるが、その要求を突き付けて私が受け入れると思うのか?どういう理由か?そして妻になったら、あなたは何をし、何ができるのか話なさい」勇策は目の前の若い女性が思い切ったことを言い出したが、怒ることもせずに問い返す。
「梶谷さんには、息子さんがいてすでに立派になられています。選挙地盤も譲られていると聞いていますので、後継者は存在します。それなのに、他にお子さんが欲しいと言うのは特別な事情があると思います。その事情についてはお聞きしませんが、梶谷さんにとって大変重大なことだと推測します。それなら、私の希望も通ると思ったのです。
また、梶谷さんは私を借り腹としてお考えのようです。借り腹として扱い、子育てには従事させないお積りなのでしょう。おそらく佐藤弁護士さんにお子さんの面倒を見て貰うお考えだと思います。
ですが、幼児には母親が絶対必要です。幼児を親身になって守るのは、お腹を痛めた女性しかありません。私にはそれが出来ます。」
初対面の女性にズバリと本音を言い当てられたことに勇策は驚いた。
「この女はただ気の強い欲深ではない。頭の切れが相当いいし、度胸もある。」
コーツの計画は誰にも話してない。この計画が上手くいってもいくつかの問題点がある。
その一つが、生まれたばかりの赤ん坊に憑依できても、全く力がないことだった。動くこともしゃべることも出来ない幼児を守り育てる人が必要だった。これを誰が保護して、育てていくかについては、現状良夫に頼るしかなかった。
勿論良夫は信頼できるので、立派に育て上げてくれるだろう。
しかし、もっと他にも保護者がいることは、確かに都合が良かった。
「息子達は政治家と実業家で、若い女性などの扱いは心得ている。産みの親と言うだけでは、陰謀に長けた奴らに、財産を身ぐるみ奪われるのが関の山」と見ていた。
「それなら、女性にはあくまでも借り腹として子供を産むことに専念してもらい、母親役はさせない」と考えていたのだ。
ところが目の前の若い女は勇策に「息子と渡り合うだけの頭を持っている。」と考えを変えさせた。
長い政治家人生で人を見る目は十分備わっている。妙子を母親にふさわしいと判断した。
「良かろう。妻になって、私の子を守り育ててくれ。ただし儂の子を身ごもることが条件だ」
話し合いが終わり、人工授精の手術を受ける準備に入った。
勇策が高齢で精子の採取に危険があること、正式な夫婦間でないのに人工授精は倫理上の問題もある。何より人工授精の成功率は10%しかなく、普通なら殆どの病院で断られるだろう。
ただ、勇策はある病院の設立や運営にも携わっていて、その病院の担当の医者は人工授精手術を拒否しなかった。
妙子から卵子が、勇策から精子が取り出され、試験管の中で受精卵にする。続いて受精卵は妙子の膣に戻され、無事成長して、男子が誕生した。
こう書くといかにも簡単なことのように見えるが、人工授精も、受精卵の着床、胎児の成長など現代医療でも簡単ではない。
勇策自身の精子さえ高齢で正常のものは少ないはずだ。遺伝子に欠陥、欠損もあり受精能力が弱く、試験管の中でも卵子に辿り着くことができない。
「まさか一度で、子供が産まれるとは思いませんでした」担当の医師は素直な感想を漏らすほどだ。
それだけ、人工授精での妊娠は成功する率が低いのが実情だ。不妊に悩み実子を望む夫婦が何度も手術を試みるが、妊娠まで至らない、あるいは流産を繰り返してばかりで、結局諦める例も多々ある。