俺、諭される
翌日の俺の顔はひどいものだった。
自室にこもって泣きじゃくり、そのまま眠ったせいだろう。瞼が腫れぼったくなって、普段の半分しか目が開いていない。
ただでさえ冴えない顔をしているというのに、それが悪化して外を歩いたら通報されそうな見た目になっている。一生懸命目を見開こうとするが、瞼が重くて何も変わらない。
気休めに顔を洗って朝食を食べにダイニングへ向かった。
すると、そこには珍しい住人がいた。
「おう、おはよう野口くん」
「あ……おはよう……ございます」
トラックドライバーの坂崎豊がどかりと椅子に座っていた。
長距離ドライバーの坂崎は、泊まりがけで運転するため家にいないことが多い。俺がシェアハウスに来た日もいなかった。
家に帰ってきても、かなり早朝に家を出ているようで、俺は歓迎会以来ほとんど会ったことがなかった。
それに、浅黒い肌に大柄な体躯の人間はあまりに俺と正反対で、正直俺はこの人に苦手意識を持っていた。
坂崎よりはと思って中里を探すが、台所にはいないようだった。洗濯でもしているのだろうか。
台所に用意されていた朝食を持ってダイニングに戻る。離れた席に座るのはあからさますぎるだろうと考え、坂崎の斜め前に座った。
「なんだか景気悪りぃ顔してるな。」
突然話しかけられ、びくりと肩が跳ねる。俺はいつもびくびくしてばっかだな。
「……ちょっと……睡眠不足で……」
俯きながらぼそりと返す。大泣きしたとは言えず誤魔化した。
「……俺な、野口くんの隣の部屋なんだわ」
思わず顔を上げると罰の悪そうな顔をした坂崎と目が合う。隣の部屋ということは……言わんとしていることに気づき羞恥で顔が熱くなる。
あんだけギャン泣きしてたら聞こえてるじゃえねか。
「大の大人があんだけ泣くってのは、よっぽどのことがあったんだろ。放っとこうとも思ったんだが……野口くんのお袋さんにも頭下げられたもんだから、ちょっとなぁ」
そういえば、中里が母は住人全員に挨拶したと言っていたか。
だからといって、こんな律儀に気にしてくれなくてもいいのに。知らないふりをしてくれればいいのに。
「ま、言いたくなきゃいいんだがよ。中里くんも気にしてるみたいだし、ちょうど俺は今日休みだし、たまには住人同士の交流があってもいいかと思ってな」
そう言って坂崎は口角を上げる。微笑んでるというより、ニヤリと笑っているようにみえた。
普段の俺なら坂崎の提案など固辞していただろう。けれど、俺は昨日からこれでもないくらい気持ちが落ちていて、色々なことがどうでもよくなっていた。
見栄もプライドも全部ハリボテで、俺には何もないことがわかって、これ以上失うものがないこともわかった。そして俺の進む道はもはや行き止まりだ。
だったら、このほぼ初対面の男に情けない胸の内をぶちまけるくらいどうでもいいことだろう。これ以上悪くなることなどないのだから。
そう思い、俺にしては珍しい選択をした。全てを坂崎に話そうと思ったのだ。
「なんか……現実を突きつけられたんですよね……」
そう言うと、坂崎が話が長くなるなら朝飯を食べ終わった後に移動しようと提案してきた。
俺はこくりと頷いて朝ごはんを掻き込んだ。
朝食を食べた後、どちらかの部屋にでも行くのかと思ったら、散歩に誘われた。
散歩しながらゆっくり話すことなどできるのかと思いつつも逆えず付いていくと、小さな公園についた。
「ここは滅多に人がこねえんだ。」
そう言って坂崎は古びたベンチに腰掛けた。
目で促され、俺は坂崎との間に少し隙間を開けて隣に座った。
「最近就活頑張ってたんだろ?」
「なんでそれ……」
「中里くんが言ってたんだよ。ただ、踏み込みすぎたかもしんねえって落ち込んでたがな。中里くんは世話焼きなとこあるからな。まあ頑張ってんならよかったじゃねえかって言ってたんだが、昨日のアレだろ? 何かしてやれるわけじゃねえが、一応年齢的にも俺ぁ先輩だかんな。ちょっとはアドバイスくらいできるかもしんねえぞ」
自分の知らないところで心配されていたことにむず痒い気持ちになる。親しいといえるほどの付き合いもないのに、ただ同じシェアハウスの住人だというだけなのに、どうして気にかけてくれるのだろうか。
俺だったら、そんな何の得にもならないことしない。特に、俺みたいな将来性のないクズのために。
「……なんで俺なんか」
「理由か。同情かもしんねえな。正直十五年も引きこもって何もしてねえってクズだと思ってたけど、泣き声聞いてたらさ、野口くんにもなんか事情があんのかもなって思ってな。クズだと決めつけてた自分への戒めもあるかな」
「……おれは、クズですよ」
そう言うと、隣からククッと笑い声が聞こえる。
坂崎の方を向くと、ニヤニヤしながら俺を見ていた。
「自分がクズだってわかってんならわかってねえやつよりはクズじゃねえよ」
「なんすかそれ……」
「まあいいじゃねえか。ついてきたってことは話す気があんだろ。話すだけでもスッキリするかもしんねえぞ」
坂崎がリラックスした様子なため、気が抜ける。変に深刻な雰囲気がないため、いつもは重い口が今は少し軽い気がする。
俺はぽつりぽつりと大学を中退した理由から、その後の生活、この前の面接のことを話した。
坂崎はたまに相槌を打つ程度で、俺が話し終わるまで何も言わずに聞いていた。俺が話し終えると、坂崎はふう、とため息をついた。
「なんだか野口くんは難儀な性格してんだな」
「難儀な性格って……」
「難しく考えすぎてんだな。適当でいいんだよ、適当で。友達なんてもんもさ、構えすぎてんだよ。きっかけなんてなんでもいいんだ。なんか暗い顔してる奴がいたら何かあったのかって聞いてみりゃいいし、嬉しそうな奴にはいいことあったのかって聞くだけでいいんだよ。仕事もさ、なんでもやってみりゃいいんだよ。俺なんか若い頃にトラックかっけえってだけでドライバーになって、気付いたら今よ」
「……それができたら……」
苦労しないんだよって言いかけて口を噤む。やっぱり俺のことを理解してもらうことなんてできないんだ。この人は俺の正反対の人間だから。
「まあできねえから今みたいになってんだもんな」
言われて坂崎の方を向くと、思いの外真剣な顔をしている坂崎と目が合った。
「多分俺と野口くんはタイプが違うんだろうな。けど、もう先がないとか、どうしようもないって思ってんならさ、悪あがきだと思って今までと違うことしてみたらいんじゃねえか」
「…………」
「野口くんが肉体労働とかしたくねえってのは否定しねえけど、何で嫌なんだ?」
「何で……?」
何で嫌なのか。そんなのは簡単だ。俺が肉体労働をしている奴を見下しているからだ。それしかできないんだろって馬鹿にしているからだ。
自分のクズさ加減に落ち込む。俺が最底辺なのになんでそんなこと思っていたんだろう。
いや、どこかで思い込もうとしていたんだ。俺はやればできるんだって。今やってないだけで、やればそいつらより俺はできるんだって。そうやって、自分より下の人間がいるんだって思うことで自分のプライドを保っていた。
そのことに気付けば、自分がいかに最低かがわかる。
「……俺、自分が本当は優秀なんだって思いたかったんですよね……」
ぽつりと呟く。
「肉体労働は底辺の仕事だって思ってんのか?」
心の中を見透かされたようで驚いて坂崎の顔を見ると、感情の見えない顔をしていた。俺は自分の顔からすうっと血の気がひいていくのを感じた。
「あ……それは……」
坂崎はトラックドライバーだ。俺が下に見ている肉体労働。俺より下? 坂崎が? まず仕事してるってだけで俺より上だ。こんなクズな俺を気にかけてくれる人間性も当然俺より上だ。
俺がいかに愚かな考えを持っていたのか、何も見えていなかったのかに気付く。
表面的なイメージだけを見て、そこにいる人たちのことは何一つ見えていなかった。
俺が何も言えず俯いて青ざめていると、突然坂崎が笑い出した。驚いて坂崎を見ると、いたずらっぽい目をした坂崎と目が合う。
「いやわりいわりい。野口くん思ってたより捻くれてねえな。つうか、肉体労働が嫌だって奴らはみんな肉体労働下に見てんだろ。そんなのこっちもわかってんだよ」
「……すみません」
「俺ぁな、俺の仕事にちゃーんと誇り持ってっから、外野になんて思われようが別に気になんねえんだよ。まあ馬鹿にされんの気分はよくねえけどよ」
「…………すみません」
「謝ってほしいわけじゃねえよ。でもどうだ、今も肉体労働は嫌なのか?」
聞かれて考える。
昨日までの俺なら、絶対嫌だっただろう。けれど、今はもう、俺は自分が最底辺なのを自覚している。自分が選べる立場ではないことを理解している。
でも、まだなんだか抵抗がある。俺はまだ変なプライドを持っているのだろうか。
「……嫌ではないはずなんですが……まだ抵抗が……」
「まあ、今まで排除してた選択肢だからいきなり受け入れらんねえんだろうな」
「……選べる立場じゃないのは……わかってます」
「ほお。よくわかってんね。職歴なしの三十五歳なんざ事故物件だからな」
事実なのに、ずきりと胸が痛む。自分が楽をした結果なのだから、仕方ないのに。
「野口くん、ここが正念場だと思うぞ。ここで踏ん張らなかったら、もうどうしようもねえと思う。それこそ、生活保護まっしぐらだろうな」
「生活保護……」
思わぬ言葉に衝撃を受ける。自分が生活保護を受けることなんて全く考えていなかった。
でも、あのまま家で引きニートを続けていたら、親が死んだ後にそれ以外に生き延びる術はなかっただろう。
想像すると寒気がして身震いした。俺は、全く先のことなんて考えていなかったのだ。
「生活保護になんのが嫌なら、ここでなんとかするしかねえよ。なりふり構わずな」
俺は結局何もわかっていなかったのだ。
自分が最底辺だと気付いても、気付いただけでその意味を考えていなかった。
将来性がなかろうと、俺の人生はまだまだ長いのだ。
肉体労働に抵抗が、なんて言っている場合じゃなかった。坂崎の言う通り、なりふりなんて構っている場合じゃなかった。
「余計なこと言ったか?」
「いえ……まだ、甘かったんだなって……」
「おお。それがわかったなら重畳だ」
そう言って坂崎は立ち上がった。
「野口くんはな、だいぶ世間知らずだよ。だからな、嫌かもしんねえけど、もっとちゃんと周りの話は聞いた方がいい」
じゃあ俺は先に帰るな、と言って坂崎は公園を後にした。
この前、中里に口を出された時に俺は腹を立てた。
そのことを思い出し、恥ずかしくなった。何で腹を立てることができたのだろう。まるっきり子供じゃないか。
やっと、現実が少し見えた気がする。
俺は、一つ決心して立ち上がった。