俺、放逐される
晴天の霹靂ってこういうことを言うんだろうなあ。
俺はまだ現実が受け止めきれておらず、ぼーっとそんなことを考えていた。
道路に放られたボストンバッグ。右手にはちょっと厚みのある茶封筒。
そして左手には、俺の運命を握る鍵とメモ用紙があった。
俺こと野口雅史は、自分で言うのもなんだがクズである。
そこそこ有名な私立大学を二年で中退してから十五年間実家で引きニート生活を送っていた。これでもかってくらい親のスネを齧ってきた。
俺の家は金持ちではなかったけれどなんのその。なんせ俺は一人息子である。俺に金をかけるのは親も本望だろうと罪悪感の欠片もなかった。
この十五年間やってたこと?ネトゲしか思い浮かばない。いつでもログインしている俺が引きニートなのは皆わかるのか、まともな奴はフレンドにいなかった。同じような奴らとプレイしているから、誰も俺に先のこと考えろとか言わないし、「無職しか勝たん」とか言ってゲラゲラ爆笑していた。昨日までは。
今日はそのゲームのイベントがあったため珍しく外出していた。久しぶりの太陽の光だわーとか思いながら、会場限定配布の装備を得る為はるばる外出したのだ。
目的は達したし、ほくほくした気持ちで家に帰ってきたら、家の前に待っていたのは厳しい顔をした母親だった。
「おーただいま。どうしたの?」
すぐに返事が返ってくると思っていたのに、母親は硬い表情を崩さない。
いつもの、雅史は本当仕方ないんだから、と苦笑いしながら甘やかしてくれる母親とは明らかに様子が違い、もしや父親の身に何かあったのではと一瞬のうちに緊張感が走る。しかし、そんな俺の予想は大きく外れることになった。
最悪な方向に。
母親は無言で俺の足元にボストンバッグを放った。
俺は訳がわからず、ボストンバッグと母親の顔を交互に見比べた。
「母さん? これなんだよ」
訳の分からない状況に苛立った俺は、不機嫌を声にのせて母親を詰めた。
後から考えると、せめてこの時殊勝な態度を取っておけば何か違ったのではないか、と思うが、後悔先に立たずというから仕方ない。
「もうここにあんたの部屋はないよ」
「……は?」
言われた内容が予想外すぎて、うまく脳が処理できなかった。部屋がない?一体何を言っているのだろうか。理解ができずに聞き返すと、母親は一つため息をついてから同じことを言った。
「だから、ここにあんたの部屋はない。もう中のものもだいたい処分したから、あんたの部屋だったところは空っぽだよ。そこに当面の着替えとかは入ってるから、出て行って頂戴」
「……何言ってんの?」
「あんた昔から友達いないし、大学辞めたのだって友達一人もできなくて辛かったんだろうと思って今まで様子見てきたけど、もう何年経った?仕事を探す素振りもなけりゃ焦ってる様子もない。
それでも、可愛い一人息子だから、面倒見られる限り見ていこうとも思ってたよ。けどね、私もお父さんも、あんたより先に死ぬんだよ。その後のあんたの人生賄えるほどの財産だって残してやれない。どうしようかってずっとお父さんと相談してた。
そしたらね、ちょうどお父さんが仕事で転勤することになったのよ。お母さんはそれについていって、この家は人に貸すことにしたの。あんたはこれを機会に自立を図りなさい」
「は!? いや、意味わかんないんだけど。つか追い出されてもいくとこないし……つか処分って! パソコンとかゲームとかどうしたんだよ! フィギュアも捨てたとか言わねーよな!?」
俺はこの時点においても、まだ母親が本気だとは思っていなかった。俺が駄々を捏ねれば、母親が折れると思っていた。しかしそれは甘かった。
「お母さんは最近知ったんだけど、シェアハウスっていうのが流行ってるらしいじゃない。あんたは典型的な内弁慶の外地蔵で対人関係がダメダメだから、そういうとこで人間関係学んだらいいと思って探しといたわよ。これそこの鍵と住所書いたメモね。
あと、パソコンはそのシェアハウスに送っておいたけど、あとは全部処分したわよ」
母親にポンと鍵とメモ用紙を渡され、俺は硬直した。そしてじわじわと沸き上がってきたのは怒りだった。
「俺のもの勝手に捨てるとか!! 家族でも許されないよね? それ、器物損壊じゃないの? 損害賠償求められるやつだよね? 裁判やったら俺勝つよ!?」
俺は長年ネット民をやっていたため、色々な知識を持っているという自負があった。これは俺に理があると、本気で思っていた。
しかし、そんなものは俺が一人の人間として自立していなければ全く役に立たないものだった。
「裁判? はーん、すればいいじゃない」
「えっ」
「するならすれば? 今まで散々迷惑かけられてきたってのに、それをそういう形で返すっていうならこっちにも考えがあるよ。……そこのシェアハウス、とりあえず半年分の賃料は持ってあげるつもりだったけど、全部自分で払うのね。あと、仕事が決まるまでの当面の生活費としていくらか渡しとこうと思ったけど、それもやめるわ」
俺はこの時になって初めて自分の立場を思い知った。俺は交渉できる立場ではなかったのだ。
そして、ここへきてやっと母親が本気であることもわかり、これ以上何か言ったら本当に無一文住所不定になる、と危機感を持った。
「……っ裁判は……しない。から、家賃とお金は……」
ここで謝罪でもすれば、やはり結果は違ったかもしれない。
けれど、俺は学のない母親を自分より下に見ていたため、プライドが邪魔して謝ることができなかった。謝ったら、自分が母親より下であると認めるようで嫌だった。
でも、住居と金は必要だった。
だから、唇を噛みしめながら折れた。多分、この時の俺は相当不本意を露わにした顔をしていただろう。
母親はそんな様子の俺を見て、心底呆れたという風に大きくため息をついた後、俺を睨んだ。
「全く……あんたがこうなったのも、親である私たちに多少なりとも原因があるんだろうから、それはやってあげる。けど、賃料払うのは半年分だけだから、それまでに仕事見つけて自分で払えるようにしなさい。そんでこれ、お金。三十万円入ってる。お金あげるのはこれが最後だと思いなさい」
ほら、と渡された茶封筒を受け取って呆然とする。
母親に睨まれるなんて初めてだったのだ。
母親に、こんなに冷たい目で見られたことはなかった。
呆気にとられたままの俺に、引っ越し先の住所はまたメールで送るからと言って、母親は車に乗って去っていった。
しばらく立ち尽くしていたが、立っていても何も解決しない。
ノロノロと緩慢に動き始めた俺は、ボストンバッグに茶封筒を入れて肩にかけ、メモ用紙に書かれた住所を目指すことにした。
「ここか……」
シェアハウスなんてパリピか外人のイメージしかなかった俺は一体どんなところかと思っていたが、辿り着いたのは大きくて、少し古めの一軒家だった。赤茶色の屋根、クリーム色の壁、どれをとっても特にこれといった特徴といえるようなものがない家。
まあ、コンクリート打ちつけの、一見おしゃれだが使い勝手悪そうな建物じゃなくて良かった、と思いながらインターフォンを押した。
「はーい」
ガチャリと玄関を開けて出てきたのは二十代後半くらいのちょっと目つきの悪い男だった。いきなり難易度の高い相手が出てきて狼狽る。耳にはなんだかガチャガチャとピアスがたくさん付いていて、普通に怖い。あれだ、スクールカースト上位で生きてきたやつだ。俺とは絶対相容れない。こんな奴と一緒に住むのかと考えると絶望しかない。
「あ、もしかして野口さん?」
「あ……はい……」
母親が内弁慶の外地蔵と称した通り、俺は他人と目を見て会話することができない。そこらへんの普通の人相手にもだ。そんな俺に、明らかに俺とは系統が違う目つきの悪い若者と会話ができるはずもない。
俺はか細い声で返事をするのがやっとだった。
「俺がここの管理人の中里です。俺もこの家住んでるから、なんか分からないことあったら聞いて。送られてきた荷物は野口さんの部屋に置いてあるから。案内する」
「あ……はい……」
管理人ということは、今後完全に存在を避けて暮らしていくことなどできないではないか。
俺は絶望しながらも促されるまま中里に付いて行く。
案内されたのは、自分の部屋だったところとそんなに広さの変わらない一室だった。段ボールがいくつか積んであって、そこにおそらくパソコンもあるのだろう。
「風呂とトイレとキッチンと冷蔵庫は共有な。洗濯物はあとで渡すカゴに入れて部屋の前置いておいといてくれればやっとく。他にも人いるからあんまため込まんでな。朝ご飯と夜ご飯はこっちで用意するから、昼だけ自分でなんとかしてくれ。時間は、朝ごはんは午前6時から8時までで、夜ご飯は午後7時から9時までだから。今んとこ何かわからないことある?」
「あ……ないです……」
「そしたらそのバッグ置いて。風呂場とか案内するから」
俺は完全に借りてきた猫状態で中里の案内を受けた。コマンド「従順であれ」をずっと選択している。
「今うちに住んでるのは俺以外に4人。大学生と、小学生の子持ちのシングルファーザー、それと遠距離トラックの運転手。流行りにのってシェアハウスとか言ってるけど、下宿とほとんどかわんねぇかな」
「そう……ですか」
「豊さん……トラックの運転手の人が帰ってくんのが来週だから、野口さんの歓迎会はそのあとな」
「……はい」
歓迎会なんてありがた迷惑である。ありがた迷惑であるが、そんなこと口にできるわけがない。
一通り説明が終わって部屋に戻った俺はその場に蹲る。
うまくやっていける気がしねえ。