優しい拷問
それから数日の間、鼓子花は伊兵衛の目を盗み、ひたすら猫の看病をした。
侍女達は言わずとも理解してくれているらしく、毎食鼓子花の膳とは別に、猫用の椀も用意してくれた。
「ほら、頑張って。食べなきゃ治らないのよ」
椀を片手に給仕するが、猫はなかなか口を開かない。
人間を警戒しているのか、それとも食う気力がないのか。
水だけは辛うじて口にしているが、その体は日々やせ細っていく。
それは鼓子花の目から見ても、死が間近に迫っているのがわかる程だった。
この猫はもう、長くない。
手当てはしたが血は止まらず、包帯は真っ赤に染まったままだ。
「…………」
そんな様子を見ながら、何もできない自分を悔やんだ。
自分の乗っていた馬車のせいで尽きようとしている小さな命。
まだこんなに小さいのに、生を失おうとしている。
「ごめんなさい……。助けてあげられなくて」
今はまだ、生きてはいる。だがそれも時間の問題だ。
この猫はあと数日で、確実に死んでしまう。
その死に直面するのが無性に怖い。
庭先にしゃがみこみ、じっと上下する猫の腹を見つめていた時だった。
「鼓子花」
「!!」
突然背後から伊兵衛の声がし、慌てて立ち上がる。
「ど、どうしたの?こんな時間に」
今はまだ、伊兵衛がやってくる時間ではないはずだ。
自分の足で、気づかれない様に箱を隠す。
しかし伊兵衛にはとうの昔に知られていたらしい。
鼓子花の努力も虚しく、その視線は足元に向けられている。
「隠さなくてもかまわない。ずっと看病をしていたそうだね」
「知っていたの?」
やはり、と心の中で呟く。
鋭い伊兵衛の事だ。
侍女達が告げなくとも、鼓子花の言動などで気づいていたのだろう。
「君があんまり献身的になっているから、知らないふりをしてきたのだけれどね。経過はどうだい。よければ僕にも見せてくれないか」
「えぇ、勿論です」
意外にも好意的な言葉に安堵する。
この様子では、看病に反対しているわけではない様だ。
伊兵衛は猫に近づくと、箱の中を覗き込んだ。
「これは酷い状態だ。まだ子猫じゃないか」
「そうなの。馬医さんには診せたのだけれど、回復は難しいって。それに、ご飯を食べてくれないの」
「君のせいじゃない。この様子では、水を飲むので精一杯なんだろうね」
そう言うと、伊兵衛は懐から何かを取り出し、鼓子花へ差し出した。
「なに?」
目の前に差し出された物が咄嗟に理解できず、目を丸くする。
伊兵衛は小さく笑うと、それを鼓子花の手に握らせた。
「この猫はもう、長くはない。早く楽にしてあげるんだ」
「な、何を言っているの?」
握らされたのは小刀だった。
だが伊兵衛の言葉の意味とは結び付かず、刀を手にしながら呟く。
「皆まで言わなければ理解できないか?──その猫を殺すんだ」
「え?い、いやっ!」
その瞬間、手中にあるものがとんでもなくおぞましいものに感じ、思わず振り払う。
小刀は音を立てて地面へと落ちた。
伊兵衛は黙ってそれを拾い上げると、再び鼓子花に持たせようとする。
「さぁ、鼓子花」
「いや……絶対に嫌っ。どうしてそんな……そんな酷いことを言うの?」
せっかくここまで看病を続けたのに。
元気になったら飼おうと、名前まで考えていた。
それに、仮に今までの過程がなかったとしても、子猫を殺すなんてできるはずがない。
それは伊兵衛もわかっているはずなのに、頑なに刀を握らせようとする。
「君の気持ちは理解している。だけど、それは君の自己満足でしかないんだ」
「自己満足……?」
ずきりと心が痛んだ。
「その猫は回復しない。長くは保たないよ。それを君は、自己満足の為に無意味に命を延ばそうとしている。それは猫には苦痛でしかない」
淡々と言われ、目を見開きながら伊兵衛を見つめ続ける。
「君がしているのは優しい拷問だ。本当にこの猫を愛しているなら、一思いに殺してあげるべきなんだよ」
「なんで」
伊兵衛の言葉を聞きながら、無意味に涙を流していた。
「なんで、そんなひどい事を言うの?鼓子花はただ、助けてあげたくて……。拷問だとか、そんな事は──!」
伊兵衛の言葉が正しいのか間違っているのかはわからない。
ただ、何故そんな笑みを浮かべながら、鼓子花を傷つける様な事が言えるのかがわからなかった。
放心する鼓子花の手に、伊兵衛は無理矢理刀を握らせる。
「君の優しさや思いやりは理解している。でもそれは、本当の愛情じゃない。本当に愛しているなら――」
その上から伊兵衛の手が重なり、力を込められる。
刀を握り締めた状態で猫と向き合わされる。
「い、いや……やだ……やめて。お願い、伊兵衛様」
伊兵衛は他の男よりは細い。だが、細くとも男だ。力では到底かなわない。
両手は伊兵衛の片手で固定され、肩を掴まれて猫に近付いていく。
「君の愛情は、きっと伝わっているはずさ。あとはもう、楽にしてあげるだけだ」
一歩ずつ、一歩ずつ。
鼓子花は涙を流し、首を振って必死に抵抗する。
「やめて。お願いだからやめて!そんな事できないっ……したくないの!」
先端が、猫の腹へと当てられる。そして――。
「あっ、あ……いやぁっ……!」
悲痛な叫びとともに、小さな体に飲み込まれていく。
猫はその瞬間、カッと目を見開いた。
そして今までで一番、高い鳴き声を上げた。
「あぁぁぁっ……!ごめんなさい、ごめんなさい……ごめんなさいっ……」
絶命する様をその目で見ながら、鼓子花は謝罪の言葉を繰り返す。
伊兵衛の手は離れているのに、刀を離す事ができなかった。
「これでこの猫は救われた。殺す事で愛する事もあるんだよ」
そう言うと、伊兵衛は後ろで控えていたらしき侍女に声をかける。
「埋めてくれないか。場所はどこでも構わない」
「畏まりました」
侍女が駆け寄り、放心して座り込んでいる鼓子花の手にそっと触れる。
「後は私達が」
「姫様は部屋へお戻り下さい。──ご安心を。きちんと埋葬致しますから」
強制的に子猫から離された後も、鼓子花はずっと両手を見つめていた。
血はついていない。
だが、感触が残っている。
毛皮を、肉を、筋肉を裂いた感触。
内臓に当たり、生き物の目から命が失われた感触。
「っ……!」
とたんに吐き気をもよおし、庭の隅に嘔吐する。
「鼓子花様っ!」
侍女は、嗚咽を漏らしながら過呼吸を繰り返す鼓子花の背中を、何度もさすってくれた。
そこに、伊兵衛は来てくれなかった。そして気付いた時には、彼の姿は消えていた。