猫の様子
帰ってきたのは亥の刻四つに近い頃だった。
到着時間が遅れるからと、帰りは殆ど休憩もなく、くたくただ。
幸い、腕の中の猫はまだ生きている。
伊兵衛に見つからないように馬車から降りると一目散に屋敷へと戻った。
「やれやれ。やはり日帰りは中々堪える。静景殿、鼓子花はどうした?」
辺りを見回しながら伊兵衛が問う。
「疲れたので休まれると、今し方屋敷へ」
「そうか。まぁ、そうだろうね。僕たちもこのまま休もう」
伊兵衛は欠伸をかみ殺し、部屋に向かって歩き出す。静景がそれを止めた。
「伊兵衛様」
「なんだ?」
「御報告差し上げたい事が」
「報告?申し訳ないが僕も眠いんだ。明日でも構わないか?」
静景は僅かに戸惑った。だが、これは今報告せねばならないと判断し、言葉を続ける。
「実は鼓子花様のことで御報告差し上げたい事がございます」
「なんだ?」
いくら睡魔が強くても、鼓子花の話は後回しにできないようだ。
聞く姿勢をとった伊兵衛の前に膝をつくと、静景はゆっくり口を開いた。
「はい。実は──」
──────────────
翌朝、鼓子花はいつもより早起きをし、小袖姿のまま部屋を出た。
侍女達はもう起きているらしく、雨戸は開け放たれている。
辺りに誰もいない事を確認し、草鞋を履いてそっと庭に降りる。
そして恐る恐る、縁側の下を覗き込んだ。
「いた」
蜘蛛の巣を払っただけの空間には、昨日持ち込んだ木箱が置いてあった。
どうやら、まだ誰にも気付かれていないらしい。
中には、昨夜助けた猫がいる。
どうかまだ生きています様に。
そう願いながら中を覗き込む。
「あぁ……良かった」
猫はまだ生きていた。
口元からは舌が垂れ下がり、ヒューヒューとか細い呼吸を繰り返している。
このままでは命が尽きるのも時間の問題だ。
どうすればいいかわからず見つめていると、侍女がやって来て声を上げた。
「まぁ、鼓子花様。どうなされたんですか、そんな格好で。伊兵衛様に見つかったら、叱られてしまいますよ」
「えっ!あ、なんでもないの」
その時初めて、自分がまだ小袖姿だと気付いた。
見つからない様に、そっと箱を奥にやる。
「庭に出られるならば御召し物を変えられませんと。今、召し変え役を――」
「動物を診れる薬師さんを知っている?」
「動物ですか?」
突然の事に、侍女はキョトンとした表情を浮かべる。
「そう。犬とか猫とか──とにかく人間じゃなくて動物を診れる薬師さんよ」
できれば、猫の事は誰にも知られたくなかった。
屋敷の人間に知られれば、まず間違いなく伊兵衛の耳に届いてしまうからだ。
だが瀕死の状態を見て、そんな悠長な事は言っていられないと気付いた。
「そうですね。犬猫を診る事ができるかはわかりませんが、恐らく担当の馬医であればいらっしゃると思います」
馬医はその名前の通り、馬を診る薬師だ。
猫を診れるかはわからないが、同じ動物だし、人間の薬師よりは良いだろう。
「じゃあその馬医さんを呼んで貰える?──伊兵衛様には絶対に内緒よ」
そう言うと、侍女の視線は鼓子花の足元に向けられた。と同時に何を察したらしい。
いくら屋敷の統括をしているのは伊兵衛だとはいえ、彼女達はあくまでも鼓子花に遣える身だ。
鼓子花が秘密にと言えば、すぐに伊兵衛に報告する事はないだろう。
「畏まりました。すぐに呼んで参ります」
一礼すると、音を立てずに姿を消す。
それを見届けると、再び座り込んで縁側の下を覗き込む。
「待っていてね。もう少しの辛抱だから」
馬医がやってきたのは、鼓子花が朝餉をとったすぐ後だった。
侍女は命令を守ってくれたらしく、伊兵衛の姿はない。
さっそく庭先に案内すると、縁側の下の箱を引っ張り出す。
「この子を診て貰いたいの」
馬医はてっきり馬を診るものだと思っていたらしく、差し出した箱を見て驚愕している様だった。が、中の子猫を見ると「これはひどい」と顔をしかめた。
「この猫は一体」
「昨日の晩、馬車でひいてしまったの。治せる?」
馬医は小さく唸ったが、薬師としての血が勝ったのだろう。
なんとかしてみましょうと言い、袖を捲り上げる。
鼓子花は治療の間、ずっとそばにつき、子猫の容態を見守っていた。
暫くし、馬医は大きな溜め息とともに腰を上げる。
「治りそう?」
「正直、難しい状況かと。腹は破け、骨もいくらか折れていました。内臓にも……。馬車で引かれた怪我としては軽傷ではありますが、保証はできません」
猫は先ほどよりは多少落ち着いてきたらしく、包帯を巻かれた腹を上下させながら呼吸をしている。
取り敢えず応急処置ができた事に安堵する。
「どうすれば治る?」
「まだ子猫ですからね。体力がどこまでもつか。傷の手当ては致しましたので、あとはしっかりと食べさせ、体力をつけさせて下さい」
「わかったわ。ありがとう」
馬医が立ち去り、そっと猫の頭に触れる。
指先からほんのりと体温が伝わってきた。
「頑張って。絶対に死んじゃ駄目よ」
目を閉じて懸命に生きようとする姿が、なんとなく自分と重なった。
小さくて弱くて、誰かの助けがなければ生きられない。
この猫が死ぬのを見るのは、まるで自分の死を見る様で辛い。
「しっかり食べて体力をつけてね。絶対に治してあげるから」