自害
伊兵衛が自害したという報告は、またたく間に城中に広まった。
『伊兵衛を救った』満足感に浸りながら寝入っていた鼓子花は、ばたばたと騒がしい足音に起こされ、眉を寄せながら起き上がる。
「た、大変です。姫様!」
障子が開け放たれ、取り乱した様子の侍女が部屋に飛び込んで来た。
「騒がしいわ」
せっかくいい気分で寝入っていたのに、目覚めは最悪だ。
侍女は顔面蒼白で震える声を漏らす。
「ど、どうか落ち着いてお聞きください。実は昨日──伊兵衛様が自害なされました」
そんな事はわかりきっている。
鼓子花は無表情で侍女を見つめる。
それをどう解釈したのか、彼女は涙を流し、口元を押さえながらその場に崩れ落ちる。
「あの伊兵衛様が自害だなんて……!武時様も静景様も、部屋に集まられております。姫様もどうか、伊兵衛様のお側に」
「わかったわ」
恐らく皆、最後の別れをしているのだろう。
鼓子花は昨夜済ませたが、自分だけいかないわけにはいかない。
「召し変えを呼んで」
──────
まだ通夜が始まっていないのに、室内は酷く重苦しい雰囲気だった。
武時や静景は勿論、見たことのない家臣達が座り込み、横たわる伊兵衛を見つめている。
静景も例外なく、悲しみは抱いているのだろうが、必死に取り乱すまいと耐えているのがわかった。
鼓子花が中に入ると、それに気付いた家臣達が道を開ける。
寝具に横たわる伊兵衛は、ただ眠っているだけではと思わせる程穏やかな表情をしていた。
昨夜はあんなに苦悶の表情を浮かべていたのに。
(そっか……人は死ぬと、表情がなくなるんだ)
もしかしたら直後であれば、あの時の表情が保たれていたのかもしれない。
だが時間が経つと、顔の筋肉が緩むのだろう。
鼓子花はそっと座り込むと、目を閉じている伊兵衛に囁いた。
「良かったね。伊兵衛様」
だが呟いた言葉は、周りの声でかき消され、自身の耳にすら届かなかった。
「伊兵衛!なぜ……なぜ自害等したのか!お前を失い、高野瀬は──我は……」
ふと、武時の取り乱す声が耳に入った。
常に沈着冷静で、娘に笑みも見せたことのない鉄面皮が醜く歪んでいる。
目からは大量の涙が溢れ落ち、母親を失った子供の様にすがり付く様は、哀れを通り越して滑稽に見えた。
鼓子花はその様を冷めた目で見つめていた。
母を殺めた時も、同じように涙したのだろうか。
己の弱さを悔やみ、愛した女性を手にかけ、唯一の娘から母親を奪ってしまった事を懺悔したのだろうか。
否──恐らくこの男は気にも止めなかっただろう。
むしろ、弱さを生む対象がなくなり、安堵したかもしれない。
もしもこの男の真の愛情が失う事にあるのならば、伊兵衛に抱いていたものは何なのだろうか。
武時の示す愛情というものが、男女のそれのみではないことは、河内の件で証明された。
彼にとって愛情とは、相手に抱く好意的な感情を指す。
友情も勿論その一つだ。
ならば、伊兵衛に抱いていた情は何に該当するのだろうか。
完治が難しい怪我を負い、苦しむ伊兵衛を救ったのは鼓子花だ。
そしてそれを教えてくれたのは他でもない。伊兵衛自身だった。
結局の所、武時は愛を盾に邪魔な人間を排除していただけなのだろうという結論に至った。
母も、河内も。
武時にとって障害でしかなく、それを取り払う為に愛情を偽った。
でなければ、武時が伊兵衛に抱いていた情が偽りだった。
そのどちらかしかない。
鼓子花は伊兵衛のそばを離れると、踵を返して部屋を出ていく。
自分の伊兵衛への愛情は本物だ。
だからこそこの手で苦痛から解放してあげた。
愛故の行動なのだから、当然悲しみはない。
伊兵衛の葬儀は、ひっそりと内輪で行われた。
武時の意向により亡骸は土葬にされ、その墓石は城のすぐ近くにある高台に作られた。
葬列には勿論、鼓子花も同行した。
だがやはり、最後まで涙は流れなかった。