救う喜び
皆が寝静まった深夜、鼓子花は伊兵衛の寝室へとやってきた。
中には誰も居らず、枕元に小さな蝋燭と、水の入った桶が置いてあるだけだった。
音を立てない様に注意しながら、脇に腰を下ろす。
「伊兵衛様……」
蝋燭の灯りに照らされた伊兵衛の顔は、日中に見た時よりも一層白く見えた。
伊兵衛はまだ苦しんでいる。
生死の境を迷い歩いている。
鼓子花は目を閉じ、手を強く握り締めた。
まるで、燃える様に熱い。
「──鼓子花?」
その時ふと、伊兵衛が目を覚ました。こちらを見ると、いつもと変わらない笑顔を浮かべる。
「どうしたんだい。こんな時間に」
「ごめんなさい。起こしてしまって。伊兵衛様が心配で」
伊兵衛は笑みを浮かべながら、強く手を握り返してくれた。
「僕は大丈夫だ。少しだけ休めば、またいつもの様にいられる」
その言葉が強がりなのは分かっていた。
今だってまだ高熱は続いている。
きっと、気力だけで意識を保っているのだ。
「伊兵衛様っ……伊兵衛様……」
鼓子花は涙を流し、ひたすら伊兵衛の名前を呼び続けた。
衰えていく様を見ていられない。
こんな風に力なく浮かべる笑みを見るのは辛かった。
「そんなに泣かないでくれ。大丈夫だ。約束するよ。必ず元気になって、そして──」
鼓子花は話を聞きながら、伊兵衛の手にあるものを持たせた。
伊兵衛もそれに気付き「なんだ?」と言いながら視線をやる。
その瞬間、伊兵衛は目を疑った。
握らされていたのは、怪しく輝く自身の短刀だった。
その切先は、真っ直ぐに伊兵衛の心臓を向いている。
「こ、これは一体何の冗談だい?」
先端が、肌着越しにチクリと皮膚に刺さる。
戸惑いながら見上げた伊兵衛の目に映ったのは、鼓子花の真剣な表情だった。
「安心して、伊兵衛様。今、鼓子花が楽にしてあげるから」
「なんだって?」
何を考えているか察し、慌てて刀から手を離そうとする。
だが、鼓子花はそれを許さない。
上から包み込む様に手を重ね、ゆっくりと力をかけられる。
「やめてくれ、鼓子花。なぜ君が僕を……ぐぁっ……!!」
皮膚を裂き、肉に突き刺さる。
突き抜ける様な痛みに、伊兵衛は小さく悲鳴を上げた。
小さな水音をさせ、ゆっくりゆっくりと刀を埋め込まれていく。
傷口から血が漏れ出し、着物を染める。
だが鼓子花は止めなかった。
「もう少しの辛抱よ。我慢してね。鼓子花が必ず、伊兵衛様を救ってあげるから」
「な、何を……あっ!ぐ、あ、あ……あぁっ」
いつもの伊兵衛ならば、鼓子花一人の力くらいはねのける事ができた。
だが今は違う。
熱と薬のせいで、体に充分な力が入らない。
刀は着実に体内に入り込む。
「はぁっ……はぁ……なぜだ。なぜ、君が僕を……」
口元から血が溢れ、呼吸をする度に喉が鳴った。
殺される。
今まで愛情を注いできた娘に。
「今までありがとう。伊兵衛様には感謝してもしきれない」
「ならば、なぜ、こんな事を……なぜ、僕を殺すんだ……?」
この状況下で、もはや命は助からない事は理解していた。
だからこそ確認したかった。
なぜ、自分は鼓子花に殺されるのか。
なぜ、鼓子花は自分を殺そうと思ったのか。
鼓子花はキョトンとしながらこんな事を言った。
「鼓子花は伊兵衛様を助けたいだけよ」
「助け……たい、だって?」
言葉と行動の意味が理解できない。
薬を飲み、しっかり療養すれば必ず回復する。
だが今鼓子花がしているのは、それをすべて無にする事だ。
「君は、僕を憎んでいたのかい?僕を……僕は、こんなにも今まで、君に愛情を注いできたのに……!」
思わず声を荒げる。だが、誰もその声に気付かない。
鼓子花もどこか平然と、肉に半分程まで埋め込まれた短刀を見つめている。
手に力は込めたまま。
「先から一体何を言っているの?鼓子花は伊兵衛様が大好きよ。だって、伊兵衛様だけだもん。今まで鼓子花に優しくしてくれていた人は。だから助けてあげたいの」
伊兵衛は過呼吸を繰り返しながら、かすみつつある目で鼓子花を見つめる。
その瞬間、思い出した。
『愛しているなら、早く楽にしてあげよう』
涙を流す鼓子花の手に短刀を握らせた事。
そしてそれを、子猫の体に突き刺した事。
今の自分は、あの時の猫なのだ。
「ま、待ってくれ。僕はまだ、助かる見込みがあるんだ。僕はまだ……死なない。いや、死ねないんだ!」
鼓子花は何も言わなかった。
黙って、穏やかに微笑む。
そして──。
「あ゛あ゛っ!」
小さな音を立て、先端が胸骨を僅かに砕いた。脳天を突き抜ける様な痛みに、今まで出した事がない悲鳴を上げる。
だが、誰も来ない。
武時も、静景も。
侍女の一人も、その声に気付かない。
「頼む……やめてくれ!僕が悪かった。あの猫の、猫の事は謝る。だからどうか……!」
死などすでに受け入れていると思っていた。
それが、こんな風に懇願する事になるなんて。
無様に悲鳴を上げ、涙を流し、命乞いをするなんて思っていなかった。
「お願いだ鼓子花。僕は君を愛してるんだ。誰よりも、ずっと、君の事を──」
「わかってるわ。鼓子花もよ。誰よりもずっと、伊兵衛様が大好きだった」
ぐっと柄が捻られ、全体重がかけられる。
刃先は胸骨の隙間を抜け、勢い良く心臓へと突き刺さった。
「っ……!!」
その瞬間、伊兵衛は声を発する事ができなかった。
激しい耳鳴りがする。
喉がひきつり、焼け付く様に熱い。
開いた口からは真っ赤な血が流れ落ち、敷布に染みを作った。
そして伊兵衛は、そのまま静かに絶命した。
「はぁっ、はぁ……」
柄越しに心臓の動きが止まったのを確認すると、鼓子花はゆっくりと手を放した。
人の心臓を突き刺すのが、こんなにも大変だとは思っていなかった。
あまりに強い力を加えていたせいか、血が止まって皮膚が白くなっており、指を動かす事ができない。
血は、思った程流れなかった。
「………これで、楽になれたわね」
これでやっと、あの苦痛から解放された。
これでやっと、傷の痛みや苦しみに喘ぐこともない。
伊兵衛を失ってしまったのは悲しいけれど、すべて愛する人の安息の為なのだ。
「おやすみなさい、伊兵衛様」
耳元で囁くと、鼓子花は静かに部屋を後にした。
寝具に横たわる伊兵衛の胸元には赤い染みが広がっており、胸には彼の短刀が突き刺さっている。
そしてその柄は、伊兵衛の両手でしっかりと握り締められていた。
部屋に戻った鼓子花は、早々に寝具へと潜り込んだ。
じっと手のひらを見つめる。
血はついていなかった。
だがまだ痺れており、指を動かすと僅かに痛んだ。
それを見ながら、小さく笑った。
自分の手で伊兵衛を救うことができた喜び。
これでもう二度と、伊兵衛は苦しむ事はないという安堵感。
「おやすみなさい……」
小さく呟き、目を閉じる。
まどろみの中、遠くから侍女の悲鳴と『自害』という言葉が聞こえたような気がした。