愛情の形
それ以来、鼓子花は暇があれば縁側に腰掛けてぼんやりと空を眺めることが多くなった。
あれから、どうしても静景のことが頭から離れない。
静景の表情や声が頭の中をぐるぐる廻る。
そして最後に浮かぶのは、あのはにかんだ様な笑みだった。
(こんな状態じゃ静景さんとまともに顔を合わせられない──)
静景は相変わらず、毎日夕餉の時間には部屋に来てくれる。
一緒に夕餉を食べながら、他愛もない話に付き合ってくれる。
本心では、二人きりで食事をとるのは居たたまれない。
だがそれは嫌だからではない。
この気持ちを見透かされそうで、怖くて恥ずかしいのだ。
(これってやっぱり恋?今までそんなのした事がないからわからない。誰かに相談してみたいけれど……。誰がいいの?)
屋敷の中には馴染みの侍女はたくさんいる。
だが、こんな相談をできる程親しい間柄ではない。
身近な人間といえば伊兵衛だが、この内容はちょっと恥ずかしくて相談し難い。
(はぁ……。どうしよう)
そのまま横になり、目を閉じて考える。
思い浮かぶのは、楽しげに会話をする阿利乃と母の姿。
もしも自分にも母親がいれば。
そうすれば、この感情を相談し、答えを得られたかもしれない。
だが、鼓子花の母親は、全く記憶にない程、幼い頃から姿はない。
(そういえば鼓子花の母様はなぜいないのだろう)
あの時、阿利乃達を見た時も同じ疑問を抱いた。
今まで母親がいないのが当たり前で、それを問いただした事はない。
だが考えれば考える程、母の存在について気になりだしてきた。
病気か戦か、それとも離縁して出て行っただけなのかもしれない。
(もしも生きているなら、会ってみたい)
父と夫婦でなくなったとしても鼓子花には母親である事には変わりない。
きっと会いたいとお願いすれば会ってくれるに違いない。
それにはまず、母の生死について確認しなければならない。
そして確認する相手といえば――。
(父様に会わなきゃ。いやだなぁ)
父の武時とは、必要な時以外は関わり合う事がない。
以前阿利乃達の城に行った時、父の姿を久しぶりに見た程だ。
だが仮にも父娘な為、会いに行くのは問題ない。
(取り敢えず、行ってみようかな)
父は恐らく城にいるだろう。
毎日している散歩に比べたら、大した事がない距離だ。
意を決して立ち上がると、父に会う為に屋敷を後にした。
城にやって来た鼓子花を出迎えたのは、見知らぬ人の驚愕の表情だった。
皆一様に、鼓子花を見ると目を丸くし、通り過ぎるまで目で追ってくる。
初めは珍しいからだろうと思っていたのだが、全員が全員同じ表情をされると、もしかして自分はここに来てはいけなかったのだろうかと心配になってきた。
(鼓子花は城を歩いていちゃいけなかったのかな?多分、そんな事はないと思うけど……)
やはり城は知らない人だらけでどうも居たたまれない。
早く父を見つけて話を聞いて帰ろうと、小走りで上階へ向かう。
「多分、ここのはずだけれど」
以前何度か、伊兵衛に連れられて父の部屋へ来たことはある。
一番最近は、確か正月の挨拶の時だった。
緊張していたため、どんな話をしたかは覚えていない。
だがうっすらと、怒鳴られたり怒られたりはしなかったと記憶していた。
(中に入っていいかな。あっ、まずは声をかけなきゃならないのよね)
深呼吸を繰り返し、障子越しに声をかける。
「あ、あのっ。父様……いますか?」
「誰だ」
返事はすぐにあった。
『父様』と声をかけているのだから、相手は武時をそう呼ぶ人間――つまり鼓子花しか有り得ない。にも関わらず、誰だと問われた事に少しだけ傷ついた。
「鼓子花です」
「――入れ」
拒否されなかった事に安堵し、障子を開ける。だが室内の様子を見た瞬間、思わず足を止めた。
もしかしたら軍議の最中だったのかもしれない。
中には伊兵衛を始め、たくさんの家臣が顔を揃えていたのだ。
「鼓子花。君が来るなんて珍しい」
伊兵衛は微笑み、いつもの調子で声をかけてくれた。
だが予想外の状況に、まともに返す事ができなかった。
そんな鼓子花に、父は軽く眉を寄せて問う。
「どうした。我に用があるのではないのか。それとも伊兵衛か」
「い、いえ……ち、父様にお話があったんです」
問いかけを無視するわけにはいかず、できるだけ皆を見ないように答える。
だが父はその後も無言だった。
どうやら今ここで言えという意味らしい。
話に来たのは母親のことだ。さすがにこんな場所で、身内の話はできない。
その場で黙って立ち尽くしていると、それを察したらしく、家臣の一人が立ち上がった。
「手前共は席を外しましょうか」
「親子水入らずで、積もる話もあるのでしょうな」
どうやら見た目によらず、皆優しい人らしい。
嫌な顔は見せず、皆はぞろぞろと部屋を出て行く。
そして室内には、父と伊兵衛だけが残された。
どうやら伊兵衛も、話を聞くつもりらしい。
「どうした。我に話とは何だ」
「ご、ごめんなさい」
決して責める様な口調ではなかったが、思わず謝ってしまった。
父は軽く眉を寄せ、謝罪の意味を疑問視している様だった。
「あの、みんながいるなんて知らなくて……。邪魔してごめんなさい」
もし他の人もいるなんて知っていたら、決して中には入らなかった。
だがそれ自体は、特に問題はなかったらしい。
「あぁ、かまわないんだよ。ちょうど一段落ついた所だったから。それより話とはなんだい?君が武時殿に会いに来るなんて珍しい」
どうやら伊兵衛は喜んでいるらしく、穏やかな笑みを浮かべている。
本当は父と二人きりで話したかったのだが、伊兵衛ならば良いかと考え直した。
「実は、母様の事を知りたいの」
その瞬間、父は険しい表情を浮かべた。だか鼓子花は気付かず、話を続ける。
「鼓子花の母様は、ずっといないわ。今までそれが当たり前だと思っていたけれど……でもどこかにいるなら会いたいの。鼓子花の母様はどこにいるの?」
単刀直入だが、うまい言葉が浮かばなかった。
父は黙って畳を見つめたままだ。
もしかしたら聞いてはいけないことだっただろうかと思っていると、代わりに伊兵衛が答えてくれた。
「残念だけれど、君の母親は亡くなったんだ。君が幼い頃にね」
「そう。やっぱりそうだったの……」
母親の生死については何となく予想はできていた。
離縁をしたか、亡くなったか。
そのニ択だろうとは思っていた。
そのため、あまり衝撃はなかった。
「薄々、そうなのかなとは思ってました。母様はどうして?病?」
いくら時代とはいえ、さすがに戦死ではないだろう。
きっと流行り病か何かだろうと、最初から答えはわかっていた。
父は深い溜め息を吐くと「病ではない」と答える。
「それじゃあまさか、戦で?」
「戦では──」
「武時殿」
不意に伊兵衛が父の言葉を遮る。
「下手に濁すのは良くないのでは。はっきりと言ってあげた方が宜しいのではないですか?」
「だが」
父はなぜか戸惑いを見せた。
そんなにも口に出すのを憚られる理由なのだろうか。
伊兵衛は相変わらず笑みを浮かべ、父を説得する様に言う。
「構わないでしょう。鼓子花にも理解できる内容ではないかと存じます。もう、大人なのですから」
「そ、そうよ。父様。鼓子花はもう子供じゃないわ。だから教えて下さい」
戦と病以外の理由は思いつかなかった。だがどんな理由であっても受け入れられる。
それにもう、済んでしまった事なのだから。
父は相変わらず口ごもっていたが、やっと意を決したらしく、こう答えた。
「我が殺めた」
意味が理解できなかった。
目を丸くし、もう一度問う。
「今、なんて言ったの?」
「我が殺めたと言ったのだ」
「……」
言葉はわかるのに、意味が理解できなかった。
目を丸くして固まっていると、再び伊兵衛が代わりに答える。
「君の母親は、武時殿が自らの手で殺めたんだ」
「ち、父様が……母様を殺したの?」
もしかしたら父の中では、それを口にするまでに色々な葛藤もあったのかもしれない。
だが表面上はあまりにも当たり前の様に言い放った様に見えた。
鼓子花は唖然としながらも、当然の疑問を口にする。
「どうして父様が、母様を殺したの……?」
家族を自ら殺めるという行為は、鼓子花にとっては全く理解できない。
だがもしかしたら、あの時の猫の様に、自らの手にかけねばならない、やむを得ない理由があったのかもしれない。
例えば治らない怪我を負っていたとか、病を患っていたとか。
しかし父が答えたのは、鼓子花には更に理解できない理由だった。
「我を弱くするからだ」
「──どういう意味?」
そう問うと、父は苦い表情で伊兵衛を見た。再び、伊兵衛が代わりに答える。
「武時殿はね、国を守る為に、誰よりも強く在らなければならないんだ。愛というのは、人を弱くしてしまうからだ」
愛という言葉で、最初に浮かんだのは静景だった。
静景の存在が鼓子花を弱くする。
それは自分に置き換えても全く理解できない。
伊兵衛は続ける。
「愛があれば、情けや迷いも生まれる。その迷いが判断を鈍らせ、自らを弱らせる。だから武時殿は君の──いや、自分の妻を殺めた。わかるかい?」
「それは、父様は母様を愛していなかったからなの?」
伊兵衛の説明では、理由も経緯も鼓子花の理解の範疇を超えていた。
その為、結果からその様な結論に至った。
「むしろ真逆だ。武時殿は、日和殿を愛していた。愛していたから殺したんだ。──やはり、まだ君には少し難解だったか。愛には色々な形がある。自ら手にかけることもまた、愛情なのだよ」