雨が降る夜、口裂け女を拾った。
梅雨明けが恋しい六月。その日はどしゃ降りの雨だった。
日曜日で大学の授業もなかった俺は、朝から丸一日コンビニバイトのシフトを入れて、心を無にして働く。
予定の勤務時間を終えると夜の七時すぎ。
俺は何の変哲もないビニール傘を差して、アパートまでの十分ほどの道を歩いて帰った。
自動車が何台も走る大通りを少し進み、住宅街になる狭い路地へ入る。休日にシフトを詰めることなんてよくあることなのに、なぜか妙に疲れて体がだるい。この低気圧のせいだろうか。
だらだらと細い道を歩いていると、ふと目の端に何か白いものが写った。
ちらりと横目で見ると、人だ。
電柱の横にうずくまるようにしゃがみ込む、髪の長い白い服を着た女性がいた。傘も差さずにうつむいているその人の頭や肩に、容赦なく雨粒が打ち付けられる。
今時、どこにどんな不審者がいるかわからないから関わらないに越したことはない。
そう思って足早に通り過ぎようとしたとき、その人がおもむろに顔を上げ、目が合った。
一瞬、立ち止まってしまう。彼女は白い大きなマスクをしていた。そして俺から視線をそらすことなく、ゆっくりと立ち上がった。
真っ白なワンピース姿のその女は俺にそっと近づいてくる。
これは本気で不審者かもしれん、逃げよう。
そう思い、焦って足を動かそうとするけれど、なぜか俺の足の裏はぴったりと道路にくっついたまま離れてくれない。
心臓が激しく脈打つ感覚だけが大きくなる中、彼女は俺の目の前にやってきて、マスクをつけたままのくぐもった声で、こう言った。
「わたし、綺麗?」
「……っ」
声が、出ない。これ、なんかこういう都市伝説なかったっけ。ナントカ女っていうやつ。
小学生の頃に怪談好きの同級生が教室で話していた気がする。綺麗と答えればいいとか何か違う答えを言わなければいけないとか、何か対処法もあったはずだ。でも覚えていない。
どうしよう。逃げればいいだけなのに寝ているときの金縛りのように足は動かないし、最悪だ。
焦りか恐怖かよくわからない胸の動悸を感じながら、彼女の顔を見る。
……あ。
俺を見つめる黒い大きな瞳を見た瞬間、不思議な懐かしさを感じた。悲しそうな瞳をしている。
「たぶん……綺麗、です」
何か考える前に変なことを言ってしまう。すると彼女はゆっくりと首を傾げてマスクに手をかけた。
「……これでも?」
「っ……」
マスクが取り払われたその下は……口が耳まで裂けていた。
ああ、そうだ。口裂け女だ。
本来の人間ならありえない異常な顔面の作りにおののきながらも、どこか冷めた頭で俺はこの都市伝説の名前を思い出した。
※※※
「……あのう、本当にお邪魔していいんですか?」
マスクをしっかりつけ直した口裂け女が、申し訳なさそうに俺の顔色をうかがう。
「別にいいっすよ。汚い部屋ですけど、どうぞ」
俺は自分の部屋の鍵を開け、玄関のドアを開けた。
目で入るよう促すと、彼女はそろそろと中に足を踏み入れた。
「し、失礼しまーす……」
なぜ、こんな状況になっているのか。
それは、俺が彼女を部屋に来ないかと招いたからに他ならない。確かに口が裂けた女というのは恐ろしかったけれど、それよりもなんだか可哀想に見えたのだ。全身を雨に濡らして、よく見れば靴も履いていない裸足の彼女が。
妖怪、というのだろうか。そういった存在が風邪をひいたりするのかはよくわからないけれど、普通の人間なら翌日には風邪決定だろう。うちで髪も服もかわかして少し雨宿りしていけばいい。
俺は彼女が浴室を借りて俺が貸したスウェットに着替えているあいだに、ポットでお湯をわかしてココアを入れた。今日は肌寒いけれど、そろそろアイスココアの季節かもしれないな。
外では、ゲリラ豪雨のような雨の音がごうごうとうるさく鳴り響いている。
口裂け女が着ていた白いワンピースは、とりあえずハンガーにかけてドライヤーを当てて乾かしてみる。本当に模様も飾りもなんにもないただの白い服だ。もっと変わった服を着たいとか思わないのだろうか。妖怪ってよくわからん。
「えーと。服貸してくれてありがとうございます。あっ、その服も乾かしてもらって、すみません!」
振り向くと、まだ髪が濡れたままの口裂け女が俺に向かってぺこぺこと頭を下げていた。ドライヤーの電源を切って彼女に手渡す。
「いいっすよ。あと、よかったら髪も乾かしてください」
「至れり尽くせりすみません……」
口裂け女が目尻と眉を下げる。マスクをしているから口もとの表情は、よくわからなかった。
口裂け女は髪をしっかりと乾かすと、俺お気に入りの人を駄目にするクッションに座ってココアを美味しそうに飲んだ。
口以外は、他の女の子と何も変わらない。
マグカップを持つ彼女と目が合うと、あ、と彼女は膝の上に乗せていたマスクを手に取った。
「あの、口、怖いですよね。ごめんなさい」
慌ててマスクで口を隠そうとするから、手と頭を横にぶんぶんと振る。
「大丈夫です、大丈夫。そんなに怖くないんで」
「そ、そうなんですか……?」
拍子抜けしたように彼女はマスクを膝の上に戻した。
「もともとホラーとか平気なタチなんで。ていうかそんなに気を遣ってくれるんなら、なんでさっき道端で俺のこと驚かそうとしたのか疑問なんすけど」
「それは~……口裂け女として生まれたからにはアレをやるのが使命だから一応。それを言うなら、あなたもなんで今こんなに普通に私の存在を受け入れてるんですか? 怖がりじゃない人って大抵、私を見たら、イタズラはやめろって怒ったり警察に通報したりしますよ?」
「へえ。怒られたりするんすか。大変っすね」
確かに俺は今この目の前にいる人を、本当はイタズラ目的で口裂け女だと名乗る特殊メイクで口が裂けてるように見せてる人間かも……とか疑うことなく口裂け女だと思っている。すげえ、ほんとに口裂けてんな~、としか思わない。
「怒ったり怖がったりするのも面倒なんで。受け入れるのって低燃費でいいっすよ」
「そういうものですか?」
「まあ、俺にとっては」
たぶん、バイトで疲れてるんだと思う。これは夢かもしれないし、幻覚かもしれないけど、どうでもいい。目の前で起こったことを何も考えずにただ受け入れるのが、一番楽だ。
「じゃあ、私のことをスルーせずに雨宿りさせてくれたのは?」
「うーん……」
答えるのが難しい。というか恥ずかしい。
「雨の中立ってるのが気の毒だったってのもあるし……あと、なんか似ていて」
「似てる?」
「あの、笑ったりしないで聞いてくれます?」
「聞きますけど、でも私、もともとの顔がにやにや笑ってるので」
言われてみれば、口が耳まで裂けていると口はいつも半円を描いているわけで、基本形が笑い顔なわけだ。にやにやかは置いておいて。
「なんか、口が裂けてるのって大変じゃないですか? 悲しくても怒っていても、笑ってなきゃいけないんすよね」
「へ? まあ、確かに……。でも、そんなこと言われたことも考えたこともないですよ。あなたってちょっと変わってますね」
「そっすか……?」
まあいいや。これっきり会うこともないだろうし話してしまおう。
「中学のときの初恋の女の子に、似てるんすよ。あなたの目が」
「えっ、そうなんですか?」
駄目だ、にやにや笑われているようにしか見えない。彼女から視線を外して小さく俯く。
まだ学ランを着ていた頃の自分に思いを馳せると、叶わなかった恋の思い出に胸の奥が切なく痛んだ。
「クラスメイトの女子だったんです。俺、好きなのが態度に出て無意識にその子に特別優しくしてたみたいで。消しゴム貸したりとかね。それをはたから見てた同級生の男子に好きなのかってからかわれたんすよ。そんで、こっちも照れ隠しに、あんなブス好きじゃねえよって返事して、それを聞いた本人は泣いちゃって。本当は好きなんですとか後から言えるわけもなく、その子と話すこともなくそのまま中学卒業して終了ですよ。ガキにありそうな話でしょ?」
自嘲気味に笑うと、口裂け女が首を傾げた。
「その女の子の目と、私の目が似てるんですか?」
「はい。気のせいかもしれませんけどね。だから、なんとなく優しくしてあげたくなったっていうか」
他の女子よりも少し大きくてリスみたいで、でもどこか寂しそうにも見える薄茶色の瞳。今でもかなりよく覚えている。その目のおかげか、彼女はいつもなんとなく哀愁漂う雰囲気を醸していた。あの子に一番惹かれたところだった。
「もしかして、私はその子から生まれた口裂け女かもしれませんよ?」
「へ? それってどういう……?」
茶目っ気のある口調でそう言った彼女に、俺は目を見開く。彼女は得意げに説明を始めた。
「私自身も自分が何者なのかはよくわかっていませんが、口裂け女や妖怪というのは、人間の感情や想像上の産物なんです。私たちは、整形手術に失敗した人間の女性の怨念とも言われていますし、まったく違う、昔殺された人間の霊から生まれたとも言われています。何が正しいかもわからない。口裂け女は私一人じゃなくて世の中に何人も生まれて消えていく。私が何をきっかけとして生まれたかはわかりませんが、人間の感情から生まれたのだとしたら、その子の感情から生まれた妖怪かもしれない。例えば、あなたがブスと言ったことにショックを受けて、顔のことを気にしすぎたあまり私という口裂け女を生み出してしまった、とか。……あ、別にあなたを責めているわけじゃないんです……ごめんなさい!」
「い、いや、全然」
けっこうぐさっときたけどな!
「もしそれが本当なら、あなたが今ここに存在するということは、あの子は今も顔のことを気にしてるかもしれないってことですかね。……その、俺が言ったことが原因とは限らないにしても」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。私にはわかりません」
「そうっすか……」
今もあの子のことが好きというわけではない。高校や大学で全然関係のない人を好きになって、人によっては付き合ったりもしてきた。
だけど、ずっと後悔はあった。心にもないことを言ってしまったことへの。
あの頃の彼女は周囲の同級生たちよりも大人びていて、落ち着いていて、綺麗だったと思う。
「あ、雨。止んだみたいですね」
口裂け女が窓を見る。言われてみると、雨の轟音は少しも聞こえず、外の空気は静寂になっていた。
乾いた白いワンピースを再び身に着けた口裂け女は、玄関で俺に向かって丁寧にお辞儀をした。
「では、短い時間でしたがお邪魔しました」
「いえ。……あ、よかったらその靴、履いていってください。さっき裸足だったでしょう」
端っこに転がっていたクロックスを指差すと、彼女は笑ったまま首を振った。
「口裂け女は裸足でも平気なんです。ありがとうございます」
そう言って背を向け、ドアを開けようとしたところで彼女はもう一度振り向いた。
「あの……さっき、ずっと笑っているの、大変じゃないかって言いましたよね」
「え? はあ」
「たぶんあなたって、そういうことに気付いてくれたり、私が雨に濡れていたり裸足だったりしたら手を差しのべてくれたり、優しい人なんだと思います。もし、その初恋の女の子にまた会うことがあったら、今度は優しい言葉をかけてあげてください」
きっと、今度は泣かずに笑ってくれますよ。
そう言って、口裂け女は俺の前から去っていった。
※※※
また会うことがあれば。
まあたぶんないだろうな、なんて思っていたわけだけど。
「あ……」
再会したその子は、赤い振袖姿だった。
一月。成人式。このイベントで会うかもしれないという可能性が、すっかり頭から抜け落ちていた。
俺の小さなつぶやきが耳に届いたのか、友人数人と連れ立っていたその子が振り向く。
あの少し寂しそうな瞳は相変わらずで、俺は目を合わせたまましばし黙り込んでしまった。
中学生のときの彼女と変わらない、しかも半年ほど前に会った口裂け女ともよく似た瞳だった。
「どした? 先行っとこうか?」
「あ、うん」
友人の女子たちが、先に会場の中へ入っていく。
彼女は数歩俺に近づくと、ちょっとだけ微笑んだ。
「久しぶり」
「うん。久しぶり」
今の俺の返事、変な声になっていなかっただろうか。
改めて彼女を見ると、昔の大人っぽさは、今になると二十歳の年相応の落ち着き具合になっていた。まとめた黒髪と白い肌に、赤い髪飾りと着物がよく映えている。
「えーっと。綺麗だね」
何も考えずに口をついて出てしまった言葉に自分で目を見開いてしまう。彼女も驚いたように目を丸くした。けれど、すぐにふわりと笑った。
「ありがとう」
見たことのない、華やかな笑顔だった。こんな顔、する子だったんだ。
「朝から着付け大変だったんだー。でも、スーツも似合ってるよ。かっこいい」
「あ、ありがと」
「今、何してるの? 地元に残ってる?」
「ううん。今は東京の大学に行ってて……」
「おーい! おいおい! 久しぶりじゃん!」
会話が弾みかけたところで、邪魔が入る。
小中学校時代に仲の良かった友人たちが駆け寄ってきた。
「お、おう。久しぶり……」
「元気してた? 会場、隣に座ろうぜ! 寒いし早よ中入ろうや!」
かなり強引に腕を引っ張っていこうとする友人たちに苦笑しつつ、俺は取り残されかけた彼女のほうに首を向けた。
「あの、さ! このあと、同窓会行く?」
「行くよ」
「じゃあ、あとでまた話そ! お互いの近況とか」
「うん」
彼女が笑顔でひらひらと手を振る。
「なに? なんの話してたん?」
「普通に久しぶりだなーって話してただけだよ」
「ほんとにそれだけかよ~。怪しいな~」
「いやいや、ほんとだって」
あの頃みたいにからかわれても、もうムキになることもない。今度は彼女ともちゃんと、後悔しないように話せたらいい。
梅雨が終わって季節が目まぐるしく変わり、凍るように寒い冬の空は、快晴だ。
なあ、口裂け女さん。
優しい言葉かどうかはわかんないけど、あなたの言う通り、今度は泣くんじゃなくて笑ってくれたよ。
おわり。