日本の終焉とがん遺伝子:終幕
それから三十年後
「その薬は、この癌には適応にはなっておらず使用できません。なぜそのようなことを尋ねられたのですか」
鼻で笑った金髪の医師とは反対に、通訳の女性は慇懃な日本語で返してくれた。本当ならば、英語に慣れ親しんだ私に通訳などいらない。
「分かりました。それでは入院を受け入れるとお伝え下さい」
通訳が日本語を英語に変換していく。それを聞きながら、医師は英語でカルテに記載していく。その電子カルテの左に、私の病名が記載されている。
Pancreatic cancer stage4
つまりは、こういうことだ 膵臓癌、ステージ分類Ⅳ
医師から入院に必要な書類を受け取って診察室を出る。詳しい説明はナースから訊いてくれとのことだった。
「See you」
口笛を吹くように軽やかな響きで医師は私を見送った。外来の扉が閉まる寸で、私は医師に別れの言葉を告げた。
「I was wating for at this time、私はこの時を待っていた」
扉の前で待機していた日本人看護師に、受付横の説明室に通された。その途中で、色々な患者を眼にする。青い眼、黒い肌、頭を覆う頭巾。
三階の外来病棟、説明室の窓から下界を見渡す。中国語や韓国語、英語に、イタリア語、様々な看板が続いていく。その看板の下を歩く人々もそれに合わせたかのように多種多様だ。
多種多様性。確か前年の流行語が、そんな言葉だった。
「変わりましたね、日本も。そしてこの病院も」
「ええ、そうですね」
事務的に業務をこなすために、彼女は釣れない返事だ。
「様々な言語が飛び交うこの仕事は、大変ですか」
なぜそのようなことを聞くのか、甚だ疑問という眼を向けた。しかしそれも、日常の患者のたわいも無い戯れ言だと判断したのだろう。
「ええ、そうですね」
彼女は切り揃えられた前髪を揺らした。
「ですがどこも同じですよ。生きていくためには働かなくてはいけません。生きるとは大変なことですよね」
その達観したような言葉に私は驚き、はからずも高笑いしてしまった。まさかそのような言葉を聞けるとは。看護師はむっと眉根を引き寄せる。「なんですか」
「いえいえ、しがない爺さんの感情失禁と笑ってください」
彼女は眉をつり上げ、表情を強ばらせる。私はそれに気づかないふりをしながら、灰色の業務机に杖を立て掛ける。そして弛みきった二の腕で体をかろうじて支えながら、説明室の椅子に腰かけた。
「それでは確認させてください。あなたは斗真さんですね」
「はい、そうです」
患者説明のマニュアルに従い、彼女は確認すべき内容が書かれた同意書を、私に示しながら丁寧に指でなぞっていく。
「ご家族はどのように現状を受け止めておいでですか」
「家族はおりません。以前はおりましたが離婚しました。それ以来連絡を取っていません」
「それでは、こちらに書かれている阿形という方は」
「彼は私の教え子です。この病気の事情を説明すると名前を書いてくれました。若年ではありますが非常に聡明で、日夜研究を供にする私の良き理解者です」
「わかりました」
無愛想に彼女は頷く。
ふと、思うことがある。
葵は、その子供は、元気にやっているのだろうか。変わりゆく日本を受け入れ、たくましく羽ばたいているだろうか。
ある夜、重い体を押して家に帰ると、家が静寂であることに気づいた。まるで引っ越したばかりのように、床は磨き上げられ、空気が澄んでいる。うっすらと覚悟のようなものを決めながら、家の中へと歩みを進める。
私の物以外のすべてが忽然と姿を消していた。そもそも妻も子供も、その存在が幻だったかのように鮮やかな幕引きだった。なにもかもを悟った私に妻の、もとい、元妻の葵は最後の言葉を認めていた。机の真ん中に、彼女の控えめな性格を現した直筆で、一言だけ便箋に書かれていた。
”ごめんなさい”
その文字の最後が染みになっていた。最後まで気遣ってくれる彼女の優しさが、研究に明け暮れる鬼の眼に痛かった。
「私は、文字通りすべてを研究に捧げました」
「はい?」
唐突な発言に、彼女は奇異の眼を隠せない。
「友も、妻も子供も、地異と名誉と金も、すべてを投げうちました。それでもまだ足りないのです」
彼女は眼を通していたプリントを落とした。彼女の眼の向こう側には、狂気と共存するしかなかった哀れな男の末路が映っていた。
病棟の個室に通された後、すぐに待ち望んだ来客はやってきた。
「お疲れさまでした」
「来てくれていたのか、阿形君」
患者の病院服を着て点滴に繋がれる私に阿形君は憐憫を向ける。黒のパーカーに青のジーンズという学生のような出で立ちだ。辺りに誰もいないことを確認し、懐から一つの箱を取り出す。
「これ、例の物です」
「恩に着るよ」
私はその白箱を受け取り、嬉々として一本取り出す。そして彼の自前のライターで火を灯す。病院で喫煙という背徳感が、年老いたはずの感情を高揚させる。久しぶりの煙が肺を満たし、じんわりと体に毒気を回していく。
「一つ、聞いてもいいですか」
「なんでも答えよう」
「なぜそうまでして、先生は癌に拘るのですか」
「ふむ、いい質問だ」
天井に溜まる煙を、ぼんやりと見上げる。
理由。過ぎていった私の人生の果てで、そんなものにいくらの価値があるかは分からないが、阿形君が訊きたいのなら答えない訳にもいかない。
「復讐だよ」
「復讐、ですか」
「ああ、そうだ」
私はガラスコップに灰を落とす。灰は透明な水を汚し、病室の白壁を見えなくした。
「かつて私に道を示した男がいた。その男こそが、私を癌研究に導いた張本人だ。それにも関わらず、奴は自らその道を降りたんだ」
それは移民を受け入れる報道から十年後。
私達の新薬は、猛威を震った癌達を完膚なきまでに撲滅することが出来ていた。新薬は国境を超えてありとあらゆる人々を救った。癌に怯える時代の終焉。誰もがそう思った。
だが突如、逆風が吹いた。
ある日を境に薬が効かなくなったのだ。
困惑し、原因究明に乗り出した私たちは身震いした。癌は私たちの薬を無効にする遺伝子を導入していた。勿論、いつか癌が私たちの薬に対しての耐性を持つことは想像の範囲であった。だがその時間があまりに短すぎた。
私たちは当然、その対策に奔走した。だが癌は勢いを増し、この薬では制御できないほどに進化していた。
どうやらこの薬もこれまでらしい。
寄せては返す白波のように、私たちの研究は見放されていった。研究費はものの無惨に切り崩され、研究チームは解体。さらには癌の変異をより複雑にしたという悪名高いレッテルまで張られた。
あんなにひっきりなしに来ていた来客は、私たちを断罪する側にまわり、ラボからの誘いの電話は一切掛かってこなくなった。掛かってくるのは責任を求める叫びだけ。
そして罪を贖罪するかのように依楓は自殺した。
その頃には、私と依楓の中も冷え込んでいた。研究の続行を訴える私に、依楓は断固として首を縦に振らなかった。
「負けたんだ、俺たちは」
敗北を受け入れられない私は叫ぶ。
「負けてなどいない。今はまだ勝利の道の途中だ」
この世で一番分かりあえていたはずの男が、耐えきれずにこうべを垂れる。
「俺たちがどれだけあがこうと世界は変わらない。いたちごっこのくり返しだ」
敗北の運命を受け入れるその潔さに、私は猛烈に怒りを憶えた。
「道は違えたようだ。失礼する」
「斗真」
去り際に、依楓が告げる。
「すまなかった」
その瞬間が、今まで味わってきたどんな屈辱よりも、私を惨めにさせた。
阿形君がごくりと喉を動かした。
「それでは、復讐とは」
「依楓に、そして、癌にだ」
私はポケットから、茶色のアンプルを取り出す。そして実験室から拝借してきた注射器に針をつけ、アンプルの中身を吸い上げる。注射器のメモリの向こうの赤い液体が、斜光カーテン越しの光で輝く。
「癌は私を捉えたと思っていい気になっているのだろうが、真相は逆だ。私が、癌を捉えたのだ」
「先生」
阿形君に垣間見える同情を、私は一睨みで跳ね返す。
「これより研究を最終段階に移す。この実験の被験者は、私だ。目的は人間の膵癌に対する効果の確認と、副作用の強さを確認すること。以前の薬に改良を加えたこの薬ならば、癌を克服しているはず。まずはその効能を確認。そして強すぎる効能の代償としての副作用を君が観察し記録する。それを基に、この薬にさらなる改良を加えるのだ」
「はい」
しばし瞑想に沈んだ後、阿形君の顔は研究者のそれに早変わりした。それでいい。君が私の志を受け継ぎ、次へと繋げるのだ。
どれだけ変わろうと、日本はまだ終焉を迎えていない。街も人も変わり、文化が廃れ、淘汰されようとも。私は日本を支えてみせる。
もう一度、『癌撲滅大国日本』を取り戻すのだ。
私は自らの手で、薬を体に注入していく。激烈な痛みが私を襲う。体と魂が分離してしまうような激痛の中で私は訊いた。
人間がいつの日か癌に勝利する。
鳴り止まぬファンファーレの残響が木霊する中で、私はゆっくりと瞼を閉じた。
第10回エブリスタ大賞 入選を頂きました。
*直木賞作家の石田衣良様のコメントは以下の通りでした。
タイトルが良くない。日本の終焉の理由が、外国人の子どもを日本に移民させたから日本が終わったという意味合い。癌遺伝子に関してもすごくゆるい特効薬で、もっとあっとびっくりする特効薬を考えないと、癌のことは読者もそこそこ知っていると思うので小説としては弱い。なので、もっとなるほど!その手があったか!と言わせるような設定を作った上で展開していって欲しい。癌の特効薬として効果があると持て囃されてたが、その特効薬も癌が耐性を持ってしまって何年かしか世界を救えなかった。耐性を持った瞬間に特効薬に対して誰も見向きもしなくなった。その急上昇と転落を書けたら短編として素晴らしく面白くなると思う。そこまでポイントを押さえきれていなかったのが勿体無かった。研究者の光と影のような部分をもっと描いたらよかった。癌治療の最前線は専門書をもっと調べてからお話にしないと小説としてはちょっと厳しいと思うので、今後に期待します。




