有待さんと僕とショートケーキ
運命とかじゃなく偶然の出会い――もっと明け透けに言えば街を歩いていて「この子可愛いな」と思うときは幾らでもある。それは厳密には出会っていないし、そういうことが多発すると自分は面食いではないのかもしれないと自己評価の見直しも考えるのだが今日がそのうちの一回だった。
金曜まで働き、やっとのことで掴んだ休日の土曜日。ショッピングモールのなかにあるCDやDVDのレンタルショップ。棚を物色して厳選した一般向けとアニソンのCD(アニソン多め)をカウンターに持っていき、見当たらなかったCDを検索してもらう。誰かが返却したままでまだ棚に戻されていないだけのときもあると友達が言っていたのだ。
それは良いのだが自分を接客してくれている女の子が可愛い。
茶髪ショートに黒縁眼鏡の眼鏡っ子。レンズの奥の瞳にはハイライトがきらめき、生気に満ちている。快活そうで、やや安直だが音楽が好きそうな印象を受ける。黒の制服は夏ということもあって半袖で、そこから覗く二の腕の白さが眩しかった。
彼女は何やらレジを操作している。僕はすることもないので彼女の胸元にある名札を盗み見た。普段は名札の付いている位置を変に意識してしまって見ることもないのだが今日は特別だ。可愛い子の名前を覚えるためならば幾らでも記憶容量を差し出そう。
名札には有待と書いてあった。これが想像もつかないような読み方でもなければ「ありまち」と読むのだろう。珍しい名字だ。キャラが立っている。
「すいません、うちには置いてないみたいです」
「ああ、やっぱりそうですよね。……それと」
「……はい、なんでしょうか?」
無意識に口を衝いて出た接続詞に導かれるように言葉は続き、
「彼氏はいるんですか?」
僕は安っぽくて軽薄なナンパっぽい言葉を口にしてしまった。どうしたことか。
それに対し有待さんは虚を衝かれたようで一瞬動きを止め、
「いないですね……今のところは?」
律儀に答えてちいさく小首を傾げる。そこ正直に答えるんだ……僕のなかの有待さんの好感度が上がった。有待さんの僕に対する好感度の変動については考えたくもない。
今はいないということは過去にはいたということだろうか。当然だな、こんなに可愛いんだし。見た感じ大学生くらいだから余計に。
隣のレジのバイト男が接客しながらこちらをちらりと見る。冷や汗が滲む。いやでも待って欲しい、この場で誰よりも「何を言い出してんだこいつ」と思っているのは他ならぬ僕自身なのだから。だって意味わからないですもん。
とは言え黙ってもいられない。僕は適当な言葉を続ける。
「そうですか、いや、深い意味はないんですけど。まぁ何でしょうその、このことはあとで他のバイトのひととの話の種にでもしてください」
「……わかりました?」
僕は視線を外す。何て醜態だ。次からもうここには来れないかもしれない。
レジが終わり、有待さんやバイト男の視線を背中に感じながら外に続く自動ドアを潜る。いや待てよ、これくらいのことならわりにあるかもしれないし、いちいち客の顔なんて覚えてもいられないだろう。ドアを潜ればもう客ではなく赤の他人だ。気にしすぎないほうがいい。返却日が来れば絶対にここに来ないといけないんだし。
仮に少し印象に残るようなことがあっても一週間もすればきっと忘れる。忘れろ。忘れてください。
……でも有待さんか。たぶん珍しくてかっこいい名字だけど、結婚したら名字も変わってしまうんだろうなぁ。それはもったいない。とてもすごくもったいない。できれば結婚しないでもらいたいところだ。
車を運転する僕の思考は横道に逸れ、やがて他の思考に塗りつぶされていった。
× × ×
「わたし彼氏いないんですよ」
「そうなんで……それ前に聞きましたね。確か僕のほうから聞き出して」
「彼女はいるんですか?」
「もちろんいません、今も昔も」
「そうなんですねー」
翌週の土曜日、レジで有待さんから今週も彼氏がいないことを報告されたことで僕は先週自分がしでかしたことを思い出した。一週間もすれば忘れるとはよく言ったものだ。
有待さんからは馬鹿にしているような雰囲気はまったく感じられない。世間話みたいな認識なのだろうか。いつか「彼氏ができました」と言われる日が来たら返答に困ってしまうのだが。それまではさすがにこの話題も続かないか。
その次の土曜日。
「わたし彼氏いないんですよー」
「『いらっしゃいませ』とか『おはよう』みたいに会うたび会うたびそんなに言わなくてももう知ってます」
彼氏がいないことを聞いたのはこれでもう三週連続三回目だ。また来た僕も僕だが。
「大事なことなので」
「どういう意図があるの?」
「……何でしょうね?」
悪意は感じないんだけど。そういうのには敏感なほうだし、そういう見方だけならひとを見る目があると自負してるんだけどな。
「馬鹿にしてます?」
「違います! ごめんなさい、不快にさせてしまっていたならやめますから……」
有待さんは慌てて、本当に申し訳なさそうにしている。その態度からは僕に嫌われないようにしようとしているのが読み取れた、気がした。
「不快になんてなってないよ。……もし良かったら次からも彼氏がいるか聞かせて」
「……はいっ」
安心したような表情と声音。これは演技でどうにかなるものだろうか。
また次の土曜日。
今日はレジではなく、CDの棚の近くを通りかかった有待さんに僕から話しかけた。
「土曜日に遊び歩かないなんて有待さんはいつも偉いね」
「あ、えっと……」
向けられたのは「誰だこいつ」という視線ではない。顔は覚えているのだが名前がわからなくて難儀している感じだ。そう言えば名前を言ってなかったな。
「三月です。一月二月三月の三月で『みつき』と読みます」
「三月さん! ……三月?」
先を促すようなイントネーションに僕は察して、
「雛です。こっちは雛鳥の雛」
「雛さん……可愛い名前ですね」
「ありがとう。流れで有待さんの名前も聞いてみていいですか?」
「わたしはほたるです。有待ほたる」
有待さんは少し恥ずかしそうに下の名前を教えてくれた。読みは「ありまち」であっていたらしい。
「有待さんも可愛いじゃないですか、名前」
「かわっ!? あぁ……でも虫ですし」
「虫て」
「光る虫ですよ。遠目で見ると綺麗ですけど」
「響きは可愛いと思うけどな」
感性はひとそれぞれだ。確かにほたるを間近で見ると「えぇ……」とはなるが。
「それで、わたしが偉いって話でしたね」
「すごい話の戻し方だ……」
「休みがありすぎても暇になっちゃいますから。それに休みがあってもお金がないと楽しくないじゃないですか」
「僕にはその発想はなかったですね。後半はそのとおりですけど」
「わたし、偉いですか?」
「偉いですね、すごく」
「わーい、やったー!」
諸手を挙げて笑顔で、有待さんは喜びを表現する。可愛らしいところのあるひとだ。
有待さんの存在を意識して、逆に普段と同じようにアニソンのCDを借りる。返却しに来るとそのまま帰るのがもったいない気がして、新しいCDを借りて帰るのが習慣となっていた。
そしてこれは有待さんのことを逆に意識しているのではなく、ストレートに意識してのことなのだが、ここに来たときに有待さんと他愛ない会話をすることが一週間のなかで一番の楽しみになっていた。他に楽しみはないのかという感じだけど、女の子と話すのはやっぱり楽しい。それが意中の相手なら尚更だ。
僕のほうから話を振らないせいもあるかもしれないが、僕の周囲の人間の大半は(恐らくそこに僕も含めて)同じことばかりを話す。間を持たせるために退屈だとわかりきっている話題を何度も何度も使いまわす。話すことがなければ無理に話すこともないのにと僕のような人間は思うのだけど、みんなそうは思わないらしい。
有待さんと話しているときにはそれがない。いや、彼氏がいない話は何度となくしてきたけどそれはそれでいいのだ。有待さんだし。有待さんと話せるなら何だっていい。僕は納得ずくであれば女の子に手のひらでころころ転がされるのだって良しとできる人間だ。ということは何か、批判めいたことを思っておきながら批判するか否か、不快に思うか否かの判断はその行動を起こした人物に対する好き嫌いに依存しているのか。いい加減だ。
レジに行こうとすると有待さんが追いすがってきた。「レジまでご案内します」「そんなご案内聞いたことないよ」「ご・あ・ん・な・い・し・ま・す!」といったやり取りがあって僕が折れ、会計をした。最初からレジに入っていたいつかのバイト男は何か言おうとして、有待さんに「先輩どいてください」と押しのけられていた。何故そうまでして。
「ありがとうございましたー。また来週の土曜日にお越しくださいー」
「何で曜日指定?」
「できれば今日くらいの時間帯にお越しくださいー」
追及はかわされ、僕は建物の外に続く自動ドアを潜る。去り際、僕に続いてレジに来た手に手にアダルトなビデオを持ったおっさんの会計は、横からすっと割りこんだバイト男が処理した。良いとこあるじゃん。
……そうか、コンビニバイト然りレンタルショップのバイト然り、こうして公然とセクハラされることがあるんだよな。自分がコンビニでバイトしていたときの若い女の先輩はそういうとき事務的に対処していたけど、できれば接客したくないに違いない。
とは言え隠れてエロを求めてしまうのはどうしようもない男の性でもあり……何を考えてたんだっけ。まぁいい。僕は来週の土曜日のこの時間にまたここに来ることだけを覚えていればそれでいいのだ。
土曜日が来た。僕はいつものレンタルショップに来ていた。
「三月さんがこの前借りてたCDのアニメ観たんですけど面白かったです」
名前を覚えてくれていたことと僕が興味があるであろうアニメを観て、面白いと言ってくれたというふたつの衝撃で僕は一瞬出遅れる。
「それからもちろん今週も彼氏はいません!」
決め台詞めいてきたその言葉を今日も聞く。
「良いニュースしかないね。有待さんはアニメとかたまに観るの?」
「いえ、全然です」
「じゃあつまり、有待さんは」
「有待さんは……?」
こくっと音もなく、有待さんの白い喉が動いた。
「そのアニメに特別な興味を抱いた」
有待さんががくっと体勢を崩す。違ったのか。
「まぁいいですけどー。面白そうと思ったのも、実際に観て面白いと思ったのも本当ですしー。でもあれって何年も前のアニメですよね?」
「大体は流行に乗っかってるけど、たまに全然昔のアニメとかにハマったりもするんですよ僕。マイペースというか何というか」
「なるほどなるほど。何事もその時々の流行とか特色がありますもんね。それに今はこれが欲しいって波も自分のなかにあって」
「有待さんがいま欲しいものは何ですか?」
「欲しいものですか? えっと、どんなものでもいいですか?」
「聞くだけだし、何でも良いですよ」
「……わたしは彼氏が欲しいです、よ?」
躊躇い、若干赤くなりつつそんな告白をする有待さん。彼氏がいないと嘆くのと彼氏が欲しいと口にするのとではそれほどの開きがあるのか。
「僕も彼女欲しいですし一緒ですね」
そんなフォローを入れる。入れたあとで自分と一緒にするのは失礼かと思い至るけど時すでに遅し。
会計が終わり、急に目をあわせてくれなくなった有待さんとの別れ際、
「来週もこの時間にまた来ますね」
そう言い残して僕は今日も帰る。
言ってみたはいいけどちょっと恥ずかしかったななんて思い返しながら。
× × ×
レンタルショップに来るから土曜日なのか、土曜日が来たからレンタルショップに来るのか。そんなことを思いながら今日もまたレンタルショップに通う。家、会社、レンタルショップで構成される夏の大三角形が僕は嫌いではなかった。頂点K(会社)はなくなっても一向に構わないけど。
適当なCDを選んでレジに足を運ぶ。するとそこには今日も有待さんの姿があった。
「今日も彼氏はいませんか?」
僕は先手を打つ。機先を制された有待さんは少し考えながら、
「今日は……いえ、まだいません」
「……明日にはいるの? それとももういたり」
「いないです! まだ……でももうすぐ……」
今日の有待さんはなんだかいつもと違う。そう思って様子を見ていると有待さんのほうから話しかけてきた。
「今日はわたし、これから遊び歩くんです」
有待さんは意を決したように宣言した。ただ遊ぶだけだというのにものすごく緊張感が伝わってくる。
「それは良いね。遊ぶのもやっぱり大切だよ」
「いえ、そうじゃなくて……三月さんも遊び歩くんですよ?」
「え?」
「……わたしと一緒に、映画を観てくれませんかっ」
そんな風に有待さんから唐突に誘われた僕は、断る理由もないのでオッケーした。このレンタルショップが入っているショッピングモールのなかには映画館もあったりする。あのあと有待さんはすぐにバイトを終え、僕と映画を観に行く運びとなった。「有待ちゃんを泣かせんなよ!」といつものバイト男から激励を受け、僕たちはレンタルショップを後にしたのだった。
有待さんの私服はスカート。あとはよくわからないけどとにかく可愛い。
「どんな誘い方ですか」
「ずっとタメ口でいいですよ? わたしは元からこういう話し方なので――だって誘い方なんてわからなかったんですもん」
「意外だね」
「そんなことないです、だってわたし彼氏いたことありませんし」
「それこそ意外だよ、有待さん可愛いのに」
「!? ……また名前が、ですか?」
「……いや? 有待さんがだけど」
「……三月さんは平気でそういうこと言うんですね」
僕から顔を逸らした有待さんの耳が真っ赤だ。これは僕の一言でここまで照れてくれたということか。
「ごめん」
「謝らなくていいです。嬉しいです、ありがとうございます……」
お礼を言われたということは間違ったことは言ってないのだろう。有待さん可愛いし。
「じゃあ先に券を買っておこうか。すぐに観れても、観れなくても」
歩いたりエスカレーターに乗ったりして最上階の映画館まで移動してきた。土曜日ということもあって映画館の入場券売り場はそれなりに混んでいる。列の最後尾に並んで順番を待っていると途中で有待さんが何かを見つけたらしく、僕の肩を叩いてくる。
「三月さん見てください、あれ! カップル割!」
「ここにもそういうのあったんだ……今まで縁がなかったから気にもしなかったよ」
まず女の子とふたりで映画なんてシチュエーションがなかったしな。何なら女の子とふたりで出かけたことすらないし。
「す、すごいですねー。カップルだと割引してくれるなんて……」
「学生の料金でカップル割、なんていう組みあわせもあり得るのかな。だとしたらもっとすごいね」
とは言ったものの、カップルの年齢層のなかで一番多いのはやっぱり学生になるのだろうか。そうであるなら学生にもカップル割が適用されるに違いない。そう思うと少しだけ心がざわついた。
そうこうしているうちに順番が回ってきて選択の時が来る。
「あっ、あの、三月さんっ……もう、わかってますよね? わたしと、付き合ってください!!」
「いいよ」
「え? そんなにあっさり……」
「というわけなのでカップル割もお願いします」
「かしこまりました。お席のほうなのですが――」
有待さんは大学生だった。年は僕とそう変わらないだろう。
映画代は僕が払おうとしたけど有待さんが自分のぶんは払うと言い、何故か映画館のスタッフさんも「良いものを見せてもらったのでここはあたしのおごりで」と言い出し、「じゃあ三人で割り勘にしましょうか」という謎の終結を迎えた。
映画までまだ時間があったので少し遅めの昼ご飯を食べることを提案したら、「緊張でご飯が喉を通る気がしないです」とのことだったので「じゃあゲーセンにでも行って適当に時間潰す?」「それがいいです」という結論になった。
ショッピングモールの敷地内にはゲーセンが入っている別館がある。そのなかに入ると騒々しく雑多なゲームの音が耳に流れこんでくる。
いろいろな筐体のなかからクレーンゲームに目星を付け、見て回る。様々なぬいぐるみやフィギュアなどの景品が誰かに取られるそのときを静かに待っていた。
と、ある筐体の前で有待さんが足を止めた。僕はすかさず、
「何か欲しいのあった?」
「いえっ、ちょっと見てただけです」
「そっか」
三歩くらい進んでから振り返ってみると、さっきとまったく同じ状態でクレーンゲームの筐体のなかを覗きこんでいる有待さんがいた。
「どれが欲しいの?」
「えっと、これです……あっ」
「遠慮することないんだよ、それね」
なんだかゆるそうなデザインの、意味わからんけど可愛いと言えなくもないような謎の生物の、そこそこおおきいぬいぐるみだった。緑色してるけどほんとこれ何?
とりあえず一回で取れないことは想像に難くないので最初から五百円を投入し、三回のプレイ権を得る。横から有待さんに期待のまなざしで見られるも結果は惨敗。
「あぁー……」
「たぶん取れるまでやるから大丈夫」
「えっ、そんなにお金使っていいんですか?」
「ちょっとくらい気にしない気にしない。次やってみる?」
「はいっ」
それなりの時間格闘して割高ながらも何とか目的のぬいぐるみを落とすことができた。僕が落としたので格好もつくというものだ。砕かれた英世たちに敬礼&黙祷。
落としたときに隣で歓声をあげ、目を輝かせて喜んでいた有待さんに落とした謎の生物をプレゼントする。なかなかにでかいので有待さんはそれを胸に抱くようにする。ここで「これは僕のだから」みたいな冗談を言えればそれもそれで楽しいのかもしれないが僕には荷が重い。
「わぁ……三月さんありがとうっ」
本当に良い笑顔をする。見ているほうが幸せになるような。
「それだけ喜んでもらえたなら死んでいった英世たちも浮かばれるよ」
「こんなに嬉しい誕生日プレゼントをもらっちゃって本当にいいのかなぁ」
「ん? 待って待って。もっかい言ってみて」
さらっと聞き捨てならないことを言っていたような。
「こ、こんなに嬉しい誕生日プレゼン」
「――そこそこ。え、有待さん、今日が誕生日だったの?」
「実はそうでした……あはは」
「ならお祝いしないと。もっと良いプレゼント買わないと」
女の子の誕生日というものは何をおいても盛大に祝われるべきものである。
「わたしは本当にっ、この上なく嬉しいプレゼントをもらいましたからっ。だから、大丈夫ですから、そんなに気を遣わないでください、ね?」
「でも……」
「あ、待ってください。それなら……」
有待さんは何か思いついたのだろう、唇に指を当て、一呼吸置いて、
「わたしのこと、ほたるって名前で呼んでもらえませんか?」
その言葉には告白するときのような真摯さがあった。それほどまでに、有待さんは僕に名前で呼んで欲しいと思っているのだ。その思いに応えねば。
「ほ、ほたる……ちゃん」
全力で照れた。顔が熱い。有待さんの顔が見れない。女の子を名前で呼んでこなかったツケが回ってきたのだ!
「嬉しい……わたしも三月さんのこと、雛くんって呼んでもいいですか?」
「いいよ……もう……」
恥ずかしすぎて僕は両手で顔を隠すようにして悶える。くん付け……! くん付けは駄目だってそんなの……。
ふたりして散々照れ照れし、それも落ち着いてきた頃、ちょうどよく映画の時間も近づいてきていた。
「そろそろ映画がはじまるね、行こうか。……今日みたいな特別な日に、僕といてくれてありがとうね」
「うんっ。……それはこっちの台詞です」
シアターに入り、指定された席に座る。僕の左隣に有待さんが座る。僕も有待さんもジュースだけを買ってきていた。
映画のジャンルは恋愛。もしかしたら見ている最中にすごく恥ずかしくなってしまう場面もあるかもしれない。どうしろというのか。
やがてシアター内の明かりが消され、上映がはじまった。
予期していた問題のキスシーンでは動揺のあまりに有待さんのほうを見ると、有待さんも僕のほうを見ていて、目が合ってふたり同時にすごい勢いで顔を背けた。
それからシアターを出て、軽く感想を言いあってから、
「時間はまだ大丈夫? ご飯食べる?」
「まだまだ大丈夫です。そうですね、お腹空きましたし」
「お昼食べてないもんね。誕生日なんだし、良いとこが良いよね」
「……雛くん、わたしさっき言いましたよ。気は遣わないでって」
ジト目気味にそんなことを言われる。あれ、おかしいな……女のひとって普通のときでも安いところでご飯食べるのを嫌うって聞いたんだけど……。
「それはそれと言うか」
「わたし、ハンバーガーが食べたいです!」
「そんなリーズナブルな」
「どこで食べたかじゃなくて、誰と食べたかが大事なんです」
立てた人差し指をくるくる振りながら教え諭すように有待さんは言う。恐らく少数派で良心的な考え方だった。
そうして入ったハンバーガーショップの奥のほうの席にふたりで腰掛ける。有待さんは対面でシェイクを飲んでいる。シェイクに刺さっているストローの色が吸い上げられてきたストロベリーシェイクによって淡くピンクに色づいた。
「あのとき雛くんが『彼氏はいるんですか?』って聞いてきてくれたから、わたしも雛くんのことが気になってることを伝えてもいいのかもなって思えたんです」
映画のことを話すとキスシーンのことを思い出してしまうので自然と話題は僕たちのことになっていった。
「そういうこともあるんだねえ。僕は『ああ、失敗した。何を聞いてるんだろう自分』って思って『あとで笑ってください』みたいな自虐に走ったんだけど」
「でもほら、友達にはいつの間にかなってたりしますけど、恋人はそうはいかないじゃないですか。だからきっかけがあって良かったなって」
「そうだね。そのおかげで僕はこうして有待さ……ほたるちゃんと遊べてるわけだし」
「はいっ、そのおかげでわたしは雛くんと付き合うことができましたから」
「ん?」
「……えっ?」
「僕たち付き合ってるの?」
「……わたし、告白しましたし、雛くんは『いいよ』って……っ」
有待さんの表情が強張り、その瞳が揺れたかと思えばじわぁ……と涙が、
「待って待ってちょっと待って。考えを整理させて、大丈夫だから、待って!」
……あのときのあれ、随分と真剣だなと思ったら告白だったのか! 「あの、もうわかってますよね? わたしと、(カップル割を利用するために)付き合って(る振りを)してください!」ってことだと思ってたよ! 勘違いしないようにしようと思って盛大に勘違いしてた!!
これですべての謎が解けた。次は誤解を解かなければ……。
「聞いて、ほたるちゃん」
「はい……」
そんな沈んだトーンで言わないで、僕はちゃんと有待さんのことが好きだから。
「確かにあのときは勘違いしてて軽い返事をしたよ。……ごめんね? でも、そのときから僕は有待さんのことが好きだったんだよ。だからもう一度やり直そう」
深呼吸をひとつ、今にも泣き出しそうな有待さんのその涙を、せめて嬉しい涙に変えられるように。
「――僕はほたるちゃんのことが好きです。さっきはあんなことになったけど、それでも、こんな僕のことを好きになってくれるのなら――僕と付き合ってください」
「……はい、喜んでっ」
安心したような、幸せそうな笑顔を浮かべながら有待さんは泣き出した。その涙の温度はきっとあったかくて、その姿を見ながら僕は、有待さんを泣かせないという約束を守れなかったなと思った。
× × ×
有待さんを車で家まで送っていく途中、そう言えばケーキは? という話になって目についたコンビニでちいさなショートケーキを買った。
「ほんとにこれで良かったの?」
「もちろんです。あ、でもですね、雛くんとは一緒に食べたいかなって」
「わかった。どこで食べよっか?」
「わたしの家は散らかってて駄目だし、雛くんの家に行くのもなんだかはしたない感じがします……」
ということで適当な夜景が見える場所に停まり、車のなかで食べることにした。世間一般ではどう評されるかは知らないが、有待さんの場合はそれでいいらしい。
「あ、ロウソク買うの忘れた」
「女の子の年齢を隠すお手伝いをするなんて気が利いていますね」
「この面積に年齢ぶんのロウソクは刺さらないよ。でもごめん」
「謝らないでください。……そうですね、謝りたいぶんだけ余計にお祝いしてください」
「誕生日おめでとう、ほたるちゃん。今日は楽しかったよ、ありがとう」
「こちらこそ。声をかけて、報われて良かったです」
ちいさいケーキは何せちいさいのですぐに食べ終わった。……フォークはひとつだけだったのでシェアした。
「ひ、雛くんっ」
「……どうかした?」
「……口にクリームがついてるよ?」
「え、どこ?」
「ああっ、待って拭かないで! わたしが拭いてあげるから」
「そう?」
「うん……動かないで、じっとしててね」
ウェットティッシュを片手に持った有待さんが近づいてくる。シートを越え、身を乗り出し――有待さんのにおいとケーキの甘いにおいが混じって鼻をくすぐる。
そのまま有待さんの顔が近づいてきて、あれ、拭くのはどうしたんだろと思う間もなくキスをした。有待さんの伏せた睫毛。唇のやわらかな感触。甘い。有待さんが離れていく。
有待さんは助手席の窓に引っつくようにして顔を背けている。遅れて有待さんとキスをしたんだという実感がわいてきた。
有待さんの家は僕の家の近所だった。少し言葉を交わして、有待さんが家のなかに入っていくのを見届けてから僕は車を走らせた。
ファーストキスはショートケーキの味がした。
しばらくはショートケーキを食べられそうになかった。
× × ×
数日後に有待さんからメッセージが届いた。顔見知りのお客さんに僕とのことを祝福されたらしい。まぁバイト先の店が入ってるショッピングモールのなかでの告白とデートだもんな。よくよく考えてみればそれはなかなか凄まじいことである。とても真似できない。
土曜日になると僕はまたあのレンタルショップに出かける。適当なCDを借りて、レジに持っていく。そこでは有待さんが待ち構えている。
「わたし、今日は彼氏いるんですよ」
晴れやかな笑顔でそう告げられ、僕も清々しい気持ちでそれに応える。
「知ってるよ。その彼氏ができた瞬間から」
言いあって笑いあう。有待さんに彼氏ができたことをこんなにも喜べる僕がいるなんて、あのときの僕には想像もできなかった。
そしてその彼氏が僕だなんて。
バイトが終わって着替えてきた有待さんを出迎える。さて、今日はふたりでどこに行こうか。