第二話 人狼少女と謎の男(自殺未遂者)
奈々が教室でスライディングおはようございますをした頃には、既に奈々の担任による授業が始まっていた。
当然の如く、奈々は火がついた様に怒られ、しかも休み時間返上して、担任の雑用を任されてしまった。ただいま現在進行形で机の上に頭を乗せ、意気消沈していた。まだ、授業中であるが。
一応、なぜ遅刻したのかと問われたが、流石に『銃乱射されてその後の処理に追われ遅刻した』なんて言葉、信じてもらえるわけないので黙っていた。逆に信じる人がいたのならば、見てみたい気もするが。
(……めっちゃ怖かった。ザビケン)
ザビケンとは、奈々の担任の呼称である。本名、高瀬ケンジ。
かの有名なフランシスコ・ザビエルの様に、少し寒そうな頭頂部をしているので、奈々の友人が着けたのだ。
その話をした瞬間、隣に座っていた男子生徒が飲んでいたお茶を吹き出すという事故も起きたが、ここでは割愛しておこう。
奈々が窓越しの空を見上げると、青空の一切見えぬ曇天だった。
少しすれば、雨が降りそうなほど雲は黒い。
雨が嫌いな奈々としては、気分を沈めさせる要因の一つとなってしまうので、更に項垂れるように机に額を押し付けた。
頭の中で、修理費の文字がグルグルと回り続ける。
修理費請求したろか、と今朝銃を乱射させていた男達を思い浮かべる。
(ていうか、〝緋眼の人狼〟って何)
奈々は、自分の机の上に一応広げておいたノートに狼の絵を描いた。(お世辞にも上手いと言える絵ではないが)
詳しい事は後ほど説明するが、奈々は〝能力者〟だ。(〝能力者〟とは、普通の人間とはかけ離れた力を持つ人の事を呼ぶ)
だが、その事を誰かに話した記憶は一人を除いて、無い。第一、知っていた家族は既に亡き人となっている訳なので、他者が知るはずがないのだ。
奈々は考える事が上手いわけではない。
だんだん頭が痛くなってきたように思えて、考える事をやめた。
得意な国語の授業なので、右から左へ説明を聞き流しながら、奈々はまた一つ息を吐いた。
ため息をつくと幸せが逃げると言うが、ため息をつく前から幸せが逃げていたらどうすれば良いんだよ。なんて拠り所のない怒りを抑えながら、奈々はチラリと時計を見上げた。
授業終了まであと僅か。
成績に響くので、ノートを取り始めたが、やはり集中出来ない。
ノートを書き終える前に、授業終了を伝えるチャイムが鳴った。
考え事のせいでつまらせていた息を吐いて、日直の「きりーつ」と言う少し気の抜けた声に合わせ、立ち上がる。
「気をつけー、礼!」
「「「「ありがとうございました」」」」
全員で声を合わせ頭を下げた。感謝の気持ちを抱いている生徒は少ないようだったが。
奈々は脱力し、椅子に座る。好きで得意な国語の授業も、何だか今日は胸のしこりが取れなくて全く集中できなかった。
気を紛らわせようと、鞄の奥にあった本を取り出した。
こういう日には本を読むに限る。これは奈々の持論である。
奈々の大切な本の一つである『夕暮れ時にあの場所で』を開いた。
この本は、数年前の誕生日に、亡くなった家族が、プレゼントしてくれたものだった。
苦味あり、甘みありのラブストーリーで、とある夕暮れ時、ある有名な橋で、身投げをしようとする女性が、三つ上の男性と出逢い人生の喜びを知って行く話だ。
『貴女が知らないのなら、僕も知りません。でも、探す事は出来ます。死ぬのは待って下さい。僕と貴女で生きる理由を探しましょう』
この本の帯に書かれた言葉は、登場人物のキャラクターが言った言葉だ。
唐突にこの文を見せられた奈々は、一瞬でこの本を買おうと決断した。結果的には買ってもらったのだが。
(確か、ドラマ化が決定したんだっけ)
五分の一ほど読み終えた頃(奈々は本の早読みが得意)、机に何かが叩きつけられる音を聞き、顔を上げた。
そこには、恐ろしいほどニッコリと笑った奈々の友人が。
松鐘夏実。
奈々の隣のクラスで、学級委員をしている凛々しい目つきの女の子だ。
純和風という言葉が似合いそうなほど、艶のある黒髪を一纏めにし、強い意志が宿った黒曜石のような黒い瞳を持った彼女は、現在奈々を口元は笑いながら、目で責め立てていた。
隠す気があるのかないのか、頰を引きつらせている奈々は、橙色の僅かに恐怖で濡れた瞳で、夏実を見上げた。
「アンタ……、まさか本気で約束忘れていた訳じゃ無いでしょうねぇ……?」
それは、まるで地獄の底から湧き出てくる……だが同時に、吹雪のように冷たい声だった。
その声に、奈々の穴という穴から汗がドッと出てくる。夏では無いはずのこの季節で、ここまで汗をかく(冷や汗だが)奈々を見て、周りの人間はいつものことと目を背けながらも、心の中で合掌していた。
夏実の後ろには、修羅がいた。
〝約束〟。この単語を聞いて、奈々が思い出すのは一つ。
奈々は彼女と約束をしたのだ。今朝、奈々の苦手な教科である英語を教えてもらうと。夏実は、英語が得意だからと、必死に頼み込んだのだ。
「頼み込んだのはそっちのくせして……、バックれるってどういう神経してるの……?」
蛇に睨まれた蛙とはまさにこのことで、奈々の身体はガタガタ震えながら、夏実から目を背けずにいた。
いや、目を離せば殺られるという本能の訴えで、目を背けなかったのかもしれない。
彼女の姿は正しく夜叉。般若。鬼。
(怖い。超怖いです。忘れてたなんて言えないですっ)
弁解しようと立ち上がった。だが、良い言い訳が思い付かない。夏実の絶対零度の目に見つめられ、奈々はありのままを話した。
「家で機関銃吹っ飛ばされてましたあぁぁぁぁっ!!!」
その渾身の叫びは、夏実に届────かなかった。いや、届くとは奈々自身、初めから思っていなかったけれど。
一瞬で、首筋に風を感じ、奈々の身体が硬直する。
閉じていた目を薄っすらと開け、後悔した。
首元へスレスレまで届いたモデルのような細く長い脚。先ほどよりずっと殺意の篭った、修羅どころの騒ぎでは無いモノを背負った、現在進行形で後悔している少女に対し、夏実は静かな声で言う。
「辞世の句位は聞いてあげるよ」
──あ。死んだ。
奈々は、土下座の勢いで頭を下げようとした。だがその時、夏実の後ろから救世主が現れる。
「またやってんの〜? 今度は何やらかしたのよ、奈々」
「安定すぎて、周りのスルースキルが高まってた。笑えない」
早川楓と、千沢真理。
夏実と、同じクラスの女の子だ。そして、奈々の友人。
二人は奈々をからかうように(一人は無表情)してジッと見つめていた。
楓は、茶髪ポニーテールが特徴的な、奈々の中学生からの友人だ。
身長は高く、スラリと伸びた手足に美しく白い肌。運動部に向いているであろうその体格を、彼女が運動に利用したことがないことを、奈々は知っている。
真理は奈々の高一からの友人だ。 軽くウェーブがかかった黒髪と、一切変動しない表情が特徴的で、過去に高瀬にザビケンという呼称をつけ始めるという、表情の割にはノリが良い一面を持っている。
奈々は、恐怖で震えていた身体を叱咤して、彼女らの背後に回った。小声で「夏実、コワイ。夏実、殺される」と呟いていたら、「殺されるわけないでしょうが。ていうか、その言い方だと夏実が殺されるんだけど」という、真理の静かなツッコミが入った。ついでに冷たい視線も。
「聞いてよ!! 楓!! 真理!! この阿呆、人との約束バックレたんだよ?!」
「あー、なるほど。珍しいね。何かあったの?」
「仕方ない。罰を受けて。奈々。約束を違えるのは重罪」
「んな無茶な!!」
夏実の言葉に、さりげなく奈々に何かあったのではと探ってくれる楓と、奈々の救世主ではなく悪魔となった真理。
真理の冷たい視線で、奈々は死を悟りかけるが、夏実の意識は奈々にではなく、楓の言葉に向かった。
「ん? あ、確かに。言われてみたらおかしい……、アンタ、何か会ったの? バックレたことなんて、今まで一度しかないじゃない。あ、さっきの嘘丸出しの言い訳はやめて」
「アレについては、本当に申し訳なく思ってるから掘り返さないで……」
本当なんだけどなぁ、なんて考えながら奈々は最も自分らしいと思われる言葉を呟いた。
「寝坊した」
ピシリと場の固まる音。そして、自分の頭への鈍痛。
「痛っ!! ちょ!! 痛い!! ミシミシ言ってるからぁ!! 頭蓋骨割れるからぁ!!!」
ジタバタ暴れ回ってたら、夏実の手が離れた。捕まった虫の気分を数秒味わった奈々は、痛む頭を抑える。
(この、パワーゴリラめ)
思考の片隅でそんな悪態を吐くと、夏実の表情が一変した。
先ほどよりずっと殺意の篭った目で見られ、奈々の唇から意図せず「ひっ」と声が漏れた。
「んだと? この低身長女」
「すみませんでした」
光より速く直角で頭を下げれば、幾分か夏実の目つきが柔らかくなった。あくまでも幾分かマシというだけで、目つきだけで人を殺せそうなのは変わりないが。
「奈々の表情はコロコロ変わる。分かり易すぎにも程がある。もう少し表情を隠した方が良い」
「あ〜、それ分かる。奈々って隠し事してても簡単に分かりそう」
「まぁ、単純思考だし」
頼んではないが、謎のアドバイスを受け取った奈々は、気の抜けた返事を返して頷いた。
単純思考と呼ばれたが、一応自覚済みなので否定はしない。……肯定もしないが。
「ていうか、ザビケンに昼休み雑用の手伝い任されたんだけど」
「奈々? この世には自業自得という言葉があってね?」
「知ってるよ。自分でした悪い事のむくいを自分の身に受けることでしょ。国語三桁常習犯舐めんな」
「うん、常習犯なのかは別だけどね」
奈々は唇を歪ませ、少し早すぎるが自分の弁当箱を取り出した。
この休み時間の間で弁当をやけ食いしようとしている。桜月高校には食堂があるので、こういう風にやけ食いをしても割と安心だった。財布的には安心出来ないけれど。
隣に住む三郎がくれた塩ならば不味いはずが無い!! と、勢いよくおにぎりに齧り付く。
……だが。
「あ゛。完璧に潰れてる」
「え? ぶっは!!! それは、ひどっ……あはははっ!!!」
味は変わらない。だが、その見た目は食欲をそそらない、謎の物質へと変貌していた。
学校へ来る時全力疾走したのが仇となったようだった(それと、奈々自身気付いてはいなかったが、おにぎりの入った弁当箱の上に、男の一人が機関銃を落としていた)。
流石にこれには絶望した。
☆★☆
「あぁあああぁぁあああぁぁぁぁぁ……」
あの後、結局ろくなことが無かった。
大きく息を吐きながら、奈々は帰り道の半ば程にある、大きな橋の上をトボトボと歩く。その姿は少し異質で、橋の上を駆けていた五十代過ぎの男が二度見していた。
因みに、帰路は一人である。夏実達とは家が反対なのだ。
既に人通りが少ない所まで来ており、人影は片手で数えられる程度しかいない。
橋の傍に寄り、川を眺める若い男と、その近くで何かを探す老婆。それと、毎日この時間帯で見かける、黒ジャージが特徴的な小太りの男(先ほど奈々を二度見した男である)。
実はこれでも多い方だ。普段はもっと人の数が少ない。
特に興味を示すこともなく、橋を渡りきる頃、唐突に若い男が、橋から乗り出し、そして流れが速い川の中へ飛び込んだ。
反射的に、鞄を投げ出し奈々は、若い男の腕を握る。男は、呆然と奈々を見上げていた。
「な、何やってるんですか?!」
「……何……、とは?」
「いやいやいやいや!! 何、さりげなく自殺しようとしてるんですか?! 見るからにお若いでしょうに!!」
「それは──」
男が口を開いた時、奈々の脚が大きく滑った。
先日雨が降ったが、それが乾いていなかったらしい。
(あ、死んだ)
夏実達との会話時よりずっと鮮明な死の予感。奈々の首筋を嫌な汗が伝った。
(無視すれば良かった、私、泳げない──っ)
やけにゆっくりと進む景色。奈々は咄嗟に男を庇うように下になった。背中に衝撃。息が詰まって、意識が遠のいた。
目を瞑った途端、何か暖かいものに抱きしめられた。気がした。
☆★☆
瞼を震わせ、奈々は目を開けた。視界に広がる男の顔を、奈々はボンヤリと見つめていた。
少しふわふわとした(天パだろうか…)鴉の濡れた羽根みたいな黒髪に、同じ色の黒い瞳。
奈々が目を覚ました事に気付いたのか、男は視線を奈々に向けた。
「全く……、泳げない人がこんなところにきて、どうするつもりだったんだい? 君こそ自殺志願者?」
男の言葉に、奈々の意識が一気に覚醒する。
「いやいやいや、先程も言いましたが、自殺未遂者はそちらですからね?! 川に飛び込もうとした人を、助けるなという方が、無理な話ですから!!」
ガバッと思い切り身体を跳ね上げ、男に抗議する。こちらは善意で助けてやったのに責められたんじゃ、こっちとしては堪ったもんじゃない、と思ったからだ。
だが、ビギッと何か引き攣るような痛みが奈々の背中を襲い、私は再び地面に寝転んだ。地面にしてはやけに柔らかい。草はらにでも横たわっているのか。
男性は、心外だと言わんばかりに、顔をムッとさせた。
「失礼だね。僕は自殺なんてしようとしていないし、今後もする予定などないよ! 私がしようとしたのはそう!! 人助け!! あぁ!! 素敵な響き……」
身体をやけにくねらせ、幸せそうに唇を歪ませた男。動きすぎて水滴が幾つか飛び散った。
「あ。そうだ。君君。そろそろ降りてくれるかな? 僕はそろそろさっきの人助けの続きがしたい。それにそろそろ脚が痺れてきたんだよね」
そして、黒髪の男は自分の指を奈々の顔に向ける。いや、正確にはその下。
奈々は、そっと手をその指差した場所に当ててみた。
どこか筋肉質で……硬くもなく、柔らかくもない、微妙な感触の何か。
そしてようやく気付いた。
「ひいいいいぃいぃぃぃぃあぁぁぁぁ!?」
初対面の男に、膝枕されていたことに。
2017/04/16、改稿しました。