Ⅱ
「ねえ、心波」
「ん?」
「どうして私と付き合うってオッケー出したの?」
他に好きな子が居るくせに。
その言葉は、きっと彼が隠そうとしている部分だから、そっとオブラートに包み込んで。
「菜乃子だから」
その一言だけいうと、形状記憶合金のような、歪みのない笑みを浮かべ、立ち上がった。
──菜乃子だから。
その言葉は、どれだけ曖昧なのだろう。
そしてどれだけ、私を喜ばせれば済むのだろう。
「心波…」
「菜乃子は」
「え」
床に脱ぎ捨てていた上着と鞄を拾い上げ、上半身だけで振り返る。
「菜乃子は、どうして俺に付き合ってみる、とか聞いたの?」
──好きで。
好きで好きで、傍に居たくて。
遠くで見ているだけでは足りなくて。
少し近づいてみればわかるくらい、彼は気持ちが落ち込んでいたというのに、その時はそっちの都合なんてどうでもよかった。
どうしても彼に近づきたくて、仕方がないという衝動のままに動いて。
だけど、好きだという勇気がないのに、チンケなプライドが邪魔をして。
『私と付き合ってみない?』
今からしてみれば、なんて上から目線で自信過剰な聞き方だろう。
正直腹の立つ問いかけに、彼は言った。
『…いいね、付き合ってみようか』
これは、きっと彼としても「お試し」だったように思える。
どこか、心の中で断って欲しかったのだとも、今なら思える。
「付き合ってみる」という言い方で返されて、気づくべきだったのかもしれない。
別れることになった場合、「試しに付き合ってみたけど、駄目だった」という言葉をより有効に使えるのではないか。
そして好きだというオーラを出しすぎず、それでいて彼の意識下に存在することは、思ったよりも辛いものかもしれない。
「…心波と、同じ理由じゃないかな」
そんなわけないじゃない。
思いながら、ギュッと唇を噛み締めたのは、彼には見えなかったと思う。
「俺と一緒、か」
不意に、後方に回った彼のてのひらが、無造作に頭を撫でて、
「お揃いだな」
静かに、離れていく。
そのまま扉が閉まる音を最後に、静寂が訪れる。
扉に背を向けたまま、立ち尽くすことしか出来ない。
足元が、自分のものではないような感覚がして、その場にしゃがみこんだ。
彼の手が触れた部分が、熱い。
「どうしよう、好き…」
例えあなたが誰を想っていても。
私を映している双眸が、私を通した別の誰かを見ていても。
…それでもいいと思っていた、当初の自分を恨みたい。
好きになればなるほど欲が出て、うまくいかない現実に地団駄踏んで。
妥協も少しずつ許せなくなって。
「心波…」
ねえ、私を見て。
私、代わりなんて嫌だよ。
私の目を見て話して。
もっと私の名前を呼んで。
「私、誰の代わりなの?」
あなたと付き合っているのに、あなたを想って泣くことばかりだ。
…まるで片想いの、生殺しじゃない。
「代わりなんて菜乃子に言ったっけ」
「ほぇ!?」
な、何でいるの!?
その言葉も出ないまま、振り返ると彼氏──心波がいて。
目をパチクリさせていると、心波は私を一瞥して、深い溜め息をついた。
「タバコ。買いに行ってただけなんだけど」
「ちょ、待っ…え、帰ったんじゃないの!?」
「挨拶もなしに帰るわけがないだろ」
「な、な…!」
「で、誰が代わりにしてるって?」
とん、と背後にあったソファーの肘掛けに心波の手が置かれ、完全に包囲された。